君の優しい手
その日の朝、教室はちょっとした騒ぎになっていた。
何故なら、人気者の葦原が、手に痛々しい包帯を巻いて現れたからだ。
「どうしたのーっ?」
女の子達が悲鳴に近い声を上げて近づいて行く中、僕は離れた場所に立ち竦んで、ドッドッと早まる心臓の音を感じながら見つめていた。
昨夜、電話で話した時、葦原は何も言っていなかった。
それなら、あの後、怪我をしたのだろうか。
(一体、どうしたのっ?)
そう訊きたくても、僕は彼の傍へは行けない。
みんなの前では、付き合っている事を内緒にしたままだったからだ。
どれぐらいの怪我なのだろう。
大丈夫なのだろうか。
心配で堪らなくて、僕は段々泣きそうになってきてしまった。
「大丈夫、ちょっと切っただけ。平気だって」
ざわめきの中から葦原の元気な声が聞こえ、僕はホッとして顔を上げた。
すると、チラッと僕の顔に視線を走らせ、葦原はみんなに気付かれないように僕に笑みを投げてくれた。
(里久……)
そんな些細な事でも、僕の胸はジンと暖かくなる。
そして、とても幸せになるのだ。
昼休み、裏庭で待っていると葦原が現れた。
「里久…。ホントに大丈夫?一体、何で怪我…」
「ごめん。昨夜は心配すると思って言わなかったんだけど、バイト先でトマトソースの缶を開ける時、手が滑ってさ、切り口でざっくり……」
「……ッ…」
僕が絶句して蒼ざめると、里久は笑いながら僕の頭を撫でた。
「5針縫ったんだけど、大したこと無いよ。そんな顔するなよ」
「だ、だって…、右手だし…。不便だろ?」
また泣きそうになってしまい、僕の声は少し涙混じりだった。
「うん。まあ、それなんだよな…」
苦笑しながらそう言うと、葦原は包帯を巻いた右手を持ち上げた。
「今日の晩からさ、親と妹は親戚の結婚式に行っちゃって留守なんだ。間が悪いと言うか、何と言うか……」
それを聞いて、僕は考えるよりも先に彼の方へ乗り出していた。
「じゃ、じゃあ、僕が行くよっ…」
「え……っ?」
でも、驚いて僕を見る葦原の視線に気付くと、僕はいっぺんに我に返った。
葦原が心配で、咄嗟にそう言ってしまったが、余計なお世話だったかも知れないと思ったのだ。
「あ…、あの…、僕なんか行ったって役に立たないよね…。ごめ……」
慌てて離れようとした僕の身体を、葦原の腕が捕まえた。
「ほんと?ほんとに来てくれる?」
「う…、うん…。里久がその方がいいなら…・・」
「いいに決まってるよっ。七綱が来てくれるなら、すげえ嬉しいよ」
「ほんと…・・?」
「当たり前だろ?勿論、泊まってくれるよな?」
嬉しそうにそう言う葦原を見て、僕も嬉しくなった。
「うんっ」
僕が頷くと、葦原はまた嬉しそうに笑った。
だが、その後冷静になって考えると、僕の胸は急にドキドキとし始めた。
実は、いつも葦原の方が母の夜勤の日を狙ってウチに来てくれるので、僕が彼の家に行くのは初めてだったのだ。
しかも、泊まるなんて……。
考えただけで、カァッと身体が熱くなった。
凄く恥ずかしいような、それでいて馬鹿みたいに浮かれ出したいような、不思議な気分だった。
兎に角、自分を落ち着かせ、僕は家に帰ってから何をすればいいのか頭の中でリハーサルを始めた。
持って行くもの、それから今日の夕飯に何を作るか、その為に何を買っていくか…。
その日の午後は勿論、授業なんかまるで上の空だった。
一旦家に帰り、泊まる用意をすると、まだ病院から戻らない母にメールを打った。
今夜は夜勤ではなかった筈なので、帰って来て僕が居ないと驚くだろう。葦原の家に泊まる事を知らせておかなければならなかった。
それから家を出て、自転車でマーケットへ行き、夕飯の材料を仕入れると、また自転車に乗って葦原の家へ向かった。
家には葦原しか居ないと分かっているのに、チャイムを押す指が少し震えてしまった。
すぐにドアが開いて、笑顔の葦原が現れた。
「あ、買い物して来てくれたの?俺、金払うよ」
僕の手に下げられたスーパーの袋に気付いて葦原はすぐに言った。
「いいよ、いいよ。これはお見舞いだか…」
言い終わらない内に、葦原の腕が伸びてきて僕の身体は玄関の中に引き込まれた。
「ん……」
唇が重ねられ、僕はすぐにカァッと熱くなった。
ここが葦原の家の玄関だと気付いたからだ。
僕の部屋でするキスとはやはり何かが違う気がした。
僕は深まっていく葦原のキスから逃れ、彼の身体を軽く押した。
「晩御飯、作るから……」
「後でいいよ」
「駄目ッ…」
尚も顔を寄せてこようとした葦原を、またグイッと押しのけ、僕は真っ赤になって言った。
すると、葦原は一瞬驚いたようだったが、すぐにクスクスと笑い出した。
「ホントに誰も居ないって。大丈夫だよ、七綱」
言われて僕は益々赤くなった。
「で、でも、ここ玄関だよ」
すると、葦原は初めて気が付いたような顔をした。
「ごめん……」
また笑いながら葦原は僕の腕を取った。
「上がりなよ。どうぞ…」
初めて入ったキッチンは何処に何があるのか分からず、料理などしたことのない葦原は頼りにならず、出来上がるまでにいつもより随分時間が掛かってしまった。
右手が不自由な葦原が食べ易いように、オムライスとスープ、それにサラダを作った。
「大丈夫?食べられる?」
僕が心配して訊くと葦原は頷いた。
「うん、大丈夫。箸は無理だけどスプーンとフォークなら何とか使える。指先は動くから…」
言いながらスプーンを手に取り、オムライスを掬って口に入れた。
「うん、旨い…」
「ほんと?」
「うん、すげえ旨いよ」
「良かった……」
その言葉に安心して、僕も食べ始めた。
「食い終わったら、風呂はいろ?」
当然のように言った葦原の言葉に驚き、僕は喉を詰まらせた。
それを見て、葦原は笑いながら僕の背中を叩いた。
「何驚いてんだよ?勿論一緒に入るだろ?」
「な、な、なんでっ?」
すると葦原は包帯を巻いた右手を掲げた。
「だって俺、頭とか洗えねえし…。七綱、洗ってくれるだろ?」
「あ……」
そうだった。
怪我をした手では、身体も頭も充分には洗えないだろう。
「分かった…。洗ってあげる」
僕が答えると、葦原は満足げにニンマリと笑った。
でも、食事の後片付けを終え、先に葦原をバスルームに行かせると、僕はやはり気後れしてしまった。
幾ら何度も身体を重ねているとは言え、一緒に風呂に入るなんて恥ずかし過ぎる。
脱衣所まで行くと、僕はジーンズの裾を膝の上まで捲くった。
「あれっ?」
服を着たまま入って行った僕を見て、湯船の中から葦原がおかしな声を上げた。
「何やってんだ?七綱…」
「あ、洗ってあげるから、出て来て…」
その視線から目を逸らし、ボディタオルを掴んで僕は言った
「え…?」
僕の言葉を聞いて葦原はちょっと怖い顔になった。
「七綱ぁ…」
「だ、だって、だって…嫌だよっ…」
「なんでさ?」
「は、恥ずかしいもん…・」
暫しの沈黙が流れ、僕は恐る恐る目を上げて葦原を見た。
すると、葦原は吹き出して笑い始めた。
「くっくっ…、分かったよ。仕方ないなぁ…。俺の下心見え見えだったからなぁ」
言いながら葦原は湯船から上がって来た。
そして、僕の前にあった椅子に腰を下ろし、背中を向けた。
「エッチな事いっぱい考えてたのに、残念……」
「そんな…」
それがどんな事なのか分からなかったが、僕はカァッと頬に血が上るのを感じた。
こんなに明るいライトの下で葦原の全裸を見るのは初めてだった。
それだけでも、恥ずかしくて何だか直視することが出来ない。
でも僕は、何とか彼の背中を洗い、それから髪の毛をシャンプーした。
「俺が出たら、七綱も続けて入りなよ。パジャマ、持って来た?」
「うん、大丈夫」
頭皮をマッサージするように洗いながら僕が答えると、葦原は気持ち良さそうに息をついた。
「人に頭洗ってもらうのってホント気持ちいいなぁ…。七綱、結構上手いよ。美容師になれば?」
「あはは…。美容師になるのは野々宮さんだよ。おウチも凄く流行ってる美容室だし」
「七綱、野々宮のとこでカットしてんのか?」
「うん、そう。野々宮さんのお兄さんにやってもらってるんだ」
「ふぅー…ん。カッコいいの?野々宮の兄貴って」
「うん。やっぱりセンスがいいからかなぁ。垢抜けててカッコいいよ」
「……俺も行く」
「え?」
「俺も美容室、そこに変える。これから、七綱が行く時は俺も一緒に行くから」
「り、里久……?」
急に憮然とした葦原に驚いたが、それが野々宮さんのお兄さんに対する嫉妬だと気付くと、僕は胸が熱くなった。
「里久が嫌なら、僕が変えるよ。他のトコに行くよ」
「いいよ…」
そう言うと葦原は振り帰って僕を見上げた。
「何処に行ったって、他のヤツが七綱の髪を触ることには変わりないからな…」
「里久…」
「呆れる?…俺、自分でもこんなに嫉妬深いなんて知らなかったよ」
じっと見上げる葦原の目を見つめ、僕は首を振った。
「ううん……。凄く…、嬉しい」
僕の泡だらけの手を、葦原が掴んで引いた。
そして、軽くキスをすると、囁くように言った。
「早く済ませて、部屋に行こう?」
初めて入った葦原の部屋。
そこに置いてある様々な物を見て回る余裕も無く、僕はベッドの上にいた。
灯りは消してもらえなかった。
その上、重ねた枕を背に当てて仰向けになった葦原の上に、僕は乗せられてしまった。
この体勢では自分の手で覆う以外、顔を隠すことも出来ない。
僕は恥ずかしくて堪らなかった。
「んっ…、やぁ……」
「痛い?…左手だと力加減が分からない…」
そう訊かれて僕は首を振った。
左手だろうと、右手だろうと、葦原の手はいつだって優しい。
「七綱、もう平気?俺、風呂場からずっと我慢してたから、もう…」
切なげに見上げられ、僕は頷いた。
「うん…」
「じゃあ、このまま七綱が挿れて…・・?」
「えっ…?」
そう言われて、僕は怯んだ。
今まではいつも、葦原の方がリードしてくれていたので、そんな行為はしたことが無かったのだ。
でも、そんな僕に葦原の手に巻かれた包帯が目に入った。
「うん…。分かった」
頷きながら、熱く火照っていた身体が、よりいっそう熱を帯びるのが分かった。
どうしても恥ずかしくて見ていられなくなり、僕は葦原の目から視線を外すと、両手で自分の双丘を掴んで開いた。
葦原が支えたものが、入り口に当たる。
僕は目を瞑って、ゆっくりとその上に腰を落とした。
「ぅんっ……んっ…・ん…」
「んっ…、いいっ、七綱……」
どんどん侵入して来る葦原を感じるだけで、僕は喘がずにはいられなかった。
「擦って…」
熱っぽい葦原の言葉に、自然に腰が動く。
お互いの手をしっかりと繋いだまま、僕達はその快感に身を委ねた。
「七綱、いい加減に出てこいって」
布団を被った僕の後ろで、葦原が半ば呆れたように言った。
している最中は夢中だったけど、後から自分のしたことを思うと僕は恥ずかしくて逃げ出したくなってしまったのだ。
「なぁ、出てこいよ。もっとしよう?折角泊まりなのに」
「……いや」
布団の中でした僕の返事は、随分とくぐもった声だった。
「俺、すげえ嬉しかったのに…。今迄で1番感じたよ」
言いながら、葦原の手が布団からはみ出した僕の髪を撫で始めた。
「なぁ……」
声が近付き、熱い息が掛かって唇が当てられたのが分かる。
「七綱……」
その囁く声が驚くほど心地がいい。
ゆっくりと撫でていく葦原の手の感触がとても優しくて、僕はすぐに負けそうになった。
多分、もうすぐ僕は布団から這い出して彼の腕の中に入ってしまうだろう。
だけど、そうなるまでのもう少しの間、僕はその暖かさを味わおうと思った。