33.窓際
何時までも、ここにこうして座って居る訳にもいかない。
時計を見ると、もう9時になろうとしていた。
嘉川は重い腰を上げると、やっと依田のデスクを離れた。
黒猫のマスコットは再びパソコンの脇に置いた。
未練がましく依田を思い出させるものを手元に置いておくのは、ただ自分を苦しめるだけだと知っている。
自分のデスクの上を片付け、抽斗から通勤鞄を出すと、嘉川はそれをデスクの上に置き、後ろの窓に近付いた。
まだ、何処のビルにも灯りが燈っている。
そのひとつひとつに、誰かが居るのだと思うと、無性に人恋しくなった。
1人の家へ帰る自分が、切ないと思う。
今頃、部下達は依田を囲んで飲んでいるのだろう。
だが、その賑やかな席に、こんな思いを抱えた自分が行くのはやはり相応しくないと思った。
報われないと、どうにもならないと知っていて、何故恋などするのだろうか。
人が人を好きになるのは余りにも簡単だ。 だが決して、思い通りにはならないものだ。
そして、その想いを諦めるのは、どうしてこれ程までに難しいのだろうか。
嘉川は窓ガラスに額を付けると、目を瞑った。
ひんやりと、硝子の冷たさが肌に沁みる。
その冷たさが、自分の心も冷やしてくれたらと思う。
後1週間、依田の上司として、ただそれだけの存在として、振舞う事が出来るのか、嘉川には自信が無かった。
もう会えなくなるのだ。
そう思う度に、心の中の想いが溢れて来そうになる。
それを無視し続ける事が、日に日に辛くなるばかりだった。
「帰るか……」
低く呟いて、嘉川はやっと目を開けた。
さっきまではっきりと見えていた灯りが、やけに滲む。
だが、滲んで見えると余計に美しくもあった。
会社を出ると、真っ直ぐに駅へ向かった。
本当は、何か腹に入れて帰るつもりだったが、1人で店へ入るのも億劫になってしまった。
自宅へ行く途中のコンビニででも、何か買って帰ろうと思った。
駅の入り口まで行くと、嘉川はそこで足を止めた。
入り口の脇に、壁に寄り掛かって依田が立っていた。
「課長…」
嘉川に気付くと、依田はすぐに壁から離れて此方に向かって来た。
「何してる?皆と行ったんじゃ…?」
急に早くなった鼓動を意識しながら、嘉川は精一杯平静を装った。
「行ったんですけど、今日は早めにお開きにしてもらったんです。この所毎晩の事だし、嬉しいけど、体もきついですから」
「そうか…」
人気者の依田だけに、別れを惜しむ気持ちはみな同じなのだろうが、やはり連日の飲み会となると依田の方でも疲れるのかも知れなかった。
「それに……。きっと課長は、待ってても来てくれないだろうと思って…」
仕事が終わったら行くと言ったが、それが嘘だという事を、やはり依田は見抜いていたらしい。
「済まん…」
「いえ…」
その後の言葉を、依田は探しているようだった。
だが、見つからなかったのか、曖昧に笑うと言った。
「課長、飯、食いましたか?俺、なんか奢りますから、行きませんか?」
「いや、そんな…」
嘉川が首を振ると、依田は忽ち悲しそうな表情を浮かべた。
どういう気持ちからかは分からないが、皆との酒宴を早めに切り上げてまで、何時来るかも分からない嘉川の事をここで待っていたのだ。何か話しておきたい事でもあるのかも知れない。
上司として、嘉川はそれを聞くべきだろうと思った。
「行くなら私が奢るよ。まさか、おまえに奢らせる訳にもいかないだろ?」
笑って見せると、依田もホッとしたように笑顔になった。
この顔が見たくて、毎日会社に来ていたような気がする。
そう思うと、嘉川はまた切ない思いに囚われた。
良く行く居酒屋に入り、向かい合って座ると、それぞれに酒と料理を頼んだ。
依田はもう、皆と一緒に何か食べていた筈だったが、嘉川に1人で食べさせるのも悪いと思ったのだろう、2品ほどのつまみを注文した。
ビールが来てそれを持ち上げると、どちらからとも無くグラスを合わせた。
だが、笑みを見せただけでお互いに何も言わなかった。
最初に、沈黙を破ったのは嘉川だった。
「もう、引越しの準備は済んだのか?」
「ええ、まあ…。1人だし、大した荷物もないので」
「そうか…」
「部屋の中は段ボール箱だらけですよ。足の踏み場もない。空いてるのはベッドの上だけです」
「うん…」
返事をして頷くと、嘉川はまた黙り込んだ。
黙々とグラスを口に運び、つまみを突付いた。
依田の方でも、何か心にある事を言い出しかねているのか、所在無げにグラスを弄んでいた。
「お父さんの具合はどうだ?」
沈黙が苦しくて、嘉川はまた口を開いた。
「あんまり…。まあ、今すぐどうという訳でもないですが」
「そうか…。回復してくれるといいがな」
「ええ…」
もう、何を話していいのか分からなかった。
仕方なくグラスを取り上げ、嘉川はまたビールを口に流し込んだ。
「あの、課長…」
「…うん?」
何を言い出そうとしているのか分からなかったが、遂に決意したように口を開いた依田に、嘉川の心臓は鼓動を早めた。
「こんなこと、言ってどうなる訳でもないし、課長を困惑させるだけだと分かってはいるんですけど…。俺、課長のことホントに好きで、その…、前に課長みたいな人が親父だったらなんて言ったけど、あれは心底、本当の気持ちだったんです」
「依田…」
ビールのグラスを所在無げに手で弄びながら依田は話を続けた。
「勿論、親父のことが嫌いとかそう言う訳じゃなくて……。でも俺、上手く言えないけど、課長とは会社の中だけでなくもっと深い付き合いが出来たらいいって、いつもそう思ってました。だから、たまにこんな風に一緒に飲んだりするのが、凄く嬉しかったんです」
顔を上げた依田と視線が合った。 だが、嘉川はすぐにビールのグラスを持ち上げると、それを飲んで視線を逸らした。
期待してはいけない。
依田が言っているのは、決して、自分が欲している種類の感情ではないのだ。
依田の方でもまたグラスに視線を落とすと、話を続けた。
「今度、こんなことになって、もう課長との縁は切れるのかも知れません。もう部下じゃなくなるから、まるで俺を切り捨てたように付き合いを止めたんだって、……そんなこと言う奴もいるけど、俺は、課長は絶対にそんな人じゃないって、そう思いたくて……」
これも、愛だろうか。
嘉川はそう思った。
依田は決して、自分に対して恋愛感情を持っている訳ではない。
だが、これもひとつの愛ではないだろうか。
嘉川は初めてしっかりと目を上げて依田の顔を見た。
この青年が好きだった。
今も……。
そしてまた、彼も自分を好きだと言った。
それが例え、色恋のことではなくても、嘉川はそれでも十分に、自分の気持ちは救われたのではないかと感じた。
「寂しかったんだよ…」
呟く様に言うと、依田は顔を上げて嘉川を見た。
「おまえと別れるのが、あんまり寂しくて…。みんなと一緒に行って、年甲斐もなく泣いたりしたら笑われるだろう?」
「課長…」
「おまえのことは、俺だって特別可愛かったんだ。もう、こうして飲めなくなるのかと思うと、堪らなく寂しいよ」
本心を、ほんの少しだけ吐露しても悪くはないだろうと嘉川は思った。
多分、依田の方でも、自分から何か言葉が欲しかったのだろうと感じたからだ。
「また、いつか、2人で呑めたら嬉しいです」
期待を込めて言った依田に嘉川は笑って頷いた。
「そうだな…。いつかまた、そんな機会もあるかも知れない」
見ると、格子の嵌った窓の桟に黒い招き猫がぽつんと置いてあった。
それを見て、嘉川は依田のデスクの上に置いてきた黒猫を思い出した。
あれもまた、この福を招く猫のように何かを招いてくれたのかも知れない。
「いつか…、また呑めるといいな」
呟くように嘉川が言うと、依田は頷いて嘉川のグラスにそっとビールを注ぎ足した。