35.笑って許して
少し身体を動かしただけで、キィキィと音を立てる。
古ぼけた安楽椅子に深々と腰を下ろし、寺原は目の前の男をじっと見上げた。
唇には僅かに笑みが浮かんでいる。
目の前に立つ男は、その笑みの浮かんだ顔を忌々しげに睨みつけていた。
息を切らし、まだ肩が上下に揺れている。何か恨み言を言いたそうだったが、余りに急いで走ってきた為に、言葉を発する余裕が無いのだろう。
すると、寺原の方が先に言葉を掛けた。
「良くここが分かったな?由魚」
由魚と呼ばれた若い男は、まだ喋る事が出来ないらしくただ首を振った。
そして、ヨロヨロと寺原に近付くと、その前に膝を突いて寺原の膝の上に頬を擦りつけた。
ギュッと脚を抱かれ、寺原は彼を見下ろした。
額から吹き出した汗が前髪を濡らしている。
その汗が、寺原のズボンにじんわりとシミを広げていた。
寺原は胸ポケットから煙草の箱とライターを取り出すと、1本出して火を点けた。
ゆっくりと灰に煙を吸い込み、そして、またゆっくりと吐き出した。
「おまえも、諦めが悪いなぁ」
呆れたように言ったが、その声色は温かかった。
必ず追いかけて来ると分かっていた。
そして、追いかけてきて欲しいと願っていた。
「何処へ…逃げたって…、必ず捕まえる…ッ」
ギュッと、腕に力を込め、由魚はやっと途切れ途切れに言葉を繰り出した。
こんな“追いかけっこ”が始まったのは2年前からだった。
首藤由魚(すどうゆな)は、寺原にとって所謂“昔の男”の息子だった。
元々、余り人と関わらずに生きてきて、必要以上に他人に興味を持たない性質だったが、由魚の父親とは腐れ縁で、着かず離れずの関係を続けながらいつの間にか同棲していたのだ。
一緒に暮らした3年の間に彼の離婚した元妻が死に、由魚が妻の実家へ引き取られて行くまでの2ヶ月間を3人で暮らした。
その時、由魚はまだ高校生だったが、妙に達観した所があったのか、父親の“男”である寺原に対して嫌悪感を示すこともなかった。
それは、奇妙な共同生活だったが、寺原は最初から由魚が嫌いではなかった。
複雑な環境で育った割りには、擦れてもいないし案外素直だった。
顔立ちは父親には余り似ていなかったが、背の高い肩幅の広い体付きはよく似ていた。それに、顔はどちらかと言うと、父親よりも寺原の好みだった。
お互いに必要以上に干渉せず、3人はそれなりに仲良く暮らした。
由魚の父親は、息子がひとつ屋根の下に居ても気にもせずに寺原を抱いたし、寺原の方でも悪びれもしなかった。
激しいセックスで、部屋の外に声が漏れたかも知れないと思っても、翌朝顔を合わせた由魚に眉を顰められることもなかった。
(変わったガキだな…)
何度も心の中で苦笑しながら、寺原は朝食のトーストを食べる由魚にコーヒーを入れて出したものだった。
由魚の父親は、元々が風来坊のような男だったが、時たまふっと消えて、2、3日帰って来ない事が良くあった。
その日も、帰らなくなって2日程経った日だった。
寺原は、夜中に身体を触られる感覚で目を覚ました。
最初は、何時ものようにふらりと帰って来た男がそんな気分になり、求めてきたのかと思った。
眠かったし面倒臭かったが、何時ものように腕を回して引き寄せると、唇を受けてキスを交わした。
だが、寺原はそれが父親の方ではないと、すぐに気付いた。
(由魚……)
一瞬、離そうとした手を、寺原はまたその身体に回した。
そしてそのまま、寺原は黙って由魚に抱かれた。
翌朝、見ると、自分の隣には父親の方が寝ていた。
いつ帰って来たのか分からなかったが、昨夜の相手はこの男ではなかった筈だ。それは、この男の抱き方に慣れた自分の身体が1番良く知っていた。
起きて居間に行ったが、いつも先に起きている由魚の姿は無かった。
そして、確かめると使っていた部屋から荷物も消えていた。
どうやら、今朝早くに迎えが来たらしい。
「最後だからってか?」
綺麗さっぱり由魚の気配の消えた部屋に佇み、寺原はそう呟いて笑った。
「まさか、筆下ろしじゃなかったよなぁ?」
もしそうだったとしたら、嬉しいような、それでいて迷惑なような気もする。
ボリボリと頭を掻き、寺原は部屋を出ると、シャワーを浴びる為にバスルームへ向かった。
由魚と再会したのは、それから6年も経ってからだった。
別れる前に父親が残して行った借金を寺原が肩代わりしたと知り、律儀に探し当てて、それを返すと言って来たのだ。
父親は疾うに行方不明で生死も分からない。寺原の方では、今更、返して貰おうとも思っていなかった。
「俺も自立したし、いっぺんには無理ですが少しずつでも返します」
そう言う由魚に、寺原は笑って首を振った。
「いいって。あの金は死んだ親父が残したもんだったし、俺は生活にも困っちゃいねえ。最初から無かったもんだと思ってるから、返さなくてもいいよ」
由魚と暮らした頃は会社員だったが、今はその会社が早期退職者を募った時に辞めてしまって、まだ残っている父親の遺産と上乗せされて額の増えた退職金で気ままに暮らしていた。
どうせ養う家族も無し、いつ死んでも構わないという思いもあるしで、寺原は余り先の事を考えていなかった。
今も、安いホテルに住んで、気が変われば他へ行くような生活をしていた。だから、由魚が自分の居場所をどうやって見つけたのか、寺原には驚くばかりだったのだ。
「いいえ。ちゃんと返します」
由魚は照れ臭くなるほど真っ直ぐに寺原を見て言った。
(いい男になりやがったな…)
前から好みの顔だったが、少年臭さが抜けた由魚はドキッとするほどいい男になっていた。
「なら、分割にしてやる代わりに利息をもらおうか」
そう言うと、由魚は素直に頷いた。
「ええ、勿論。…でも、あんまり高いと困るけど」
その答えを聞いて笑うと、寺原は立ち上がり、シャツのボタンを外しながら言った。
「利息は、由魚の身体で払ってくれ」
その言葉に、由魚は黙って寺原を見上げた。
「俺ももう、あの時のおまえの親父と同じ年だ。こんなオッサンになっちまった俺じゃ、もう抱く気にならねえか?」
皮肉な笑みを浮かべて、寺原は暗に、あの時の相手が誰だったのか知っていると、仄めかすように言った。
すると、由魚はスクッと立ち上がって上着を脱ぎ捨てた。
「いいえ。だったら、わざわざ探して来たりしない」
その言葉で、寺原は由魚が最初から自分とそうなるつもりで来たのだと知った。
そして、その事実に少なからず高揚したのは確かだった。
あの夜、殆ど眠らずに朝まで抱き合い、寺原は自分が由魚の若さと熱さにすっかり惚れてしまった事を知った。
だからこそ、彼が寝ている間に身支度し、黙ってホテルを後にしたのだ。
可愛いと思った。
愛しいと思った。
初めて、離したく無いと思った。
だからこそ、その手を掴んではいけないと思えた。
由魚が何故、自分になど執着するのか分からなかった。しかも、あれからもう、6年も経っているというのに。
だが、寺原は忘れたようでいて、自分が由魚の事を忘れていなかったのだと知った。
そして多分、もう一度会いたいと、心の何処かで願っていた事も。
父親の借金を払ってやったのも、もしかしたら自分の心が、由魚との繋がりを求めていた所為だったのかも知れない。
だが、実際にこうして成長した由魚を目の前にしてみると、自分との関わりが彼にとって良くない事は明白だった。
「オヤジになったなぁ、俺も……」
人気の無い早朝の駅のホームに佇み、寺原は独り言ちて笑った。
もう、若い由魚と気ままに恋を楽しむような冒険は出来なくなっていた。
自分ではなく、由魚の事を考えると怖くなってしまう。
自分が由魚を変えてしまうのだとしたら、余りに怖くて逃げ出す他は無かったのだ。
だが、由魚は追って来た。
逃げても、逃げても、由魚は必ず寺原を探し当てた。
その内、寺原の方でも本気で逃げる気がなくなった。
きっと、由魚はまた追って来てくれる。そう期待して、待っている自分に気付いたのだ。
一度も受け取った事はなかったが、由魚は必ず寺原に纏まった金を持ってきた。
それが、由魚としては寺原を追う為の口実だったのかも知れない。
「んっ…由魚ッ……」
自分の中に入ってきた由魚の身体を掻き抱き、寺原は愛しげにその名を呼んだ。
もう、どんなに飢えても、由魚以外の男と寝た事はない。
その身体は、いつも由魚だけを待ち、由魚だけの為に熱を帯びた。
だがきっと、夜が明ければまた、寺原は由魚から逃げるだろう。
憎まれる為に。
そして、また追って来て、許して貰う為に。
「ぅんっぅっ……あぁ……」
恍惚とした声を放ち、由魚に奥を突かれて寺原は何度目かの射精をした。
「こんな顔して、俺のでイク癖に…。ホントはもう、俺無しじゃいられない癖に…」
憎々しげにそう言うと、由魚は寺原の額に自分の額を押し付けた。
「もう、いい加減諦めて、掴まりなよ……」
答える代わりに、寺原は由魚の頬を両手で包むとその唇に口づけた。
「ん…、もっと…由魚…」
離れて行こうとする唇に縋り、舌を忍ばせる。
“何故、俺なんだ?”と訊けないまま、寺原は由魚が自分を見捨てない事を望み続けていた。
目覚めた時、由魚はまだ静かな寝息を立てていた。
それを起こさないよう、寺原はそっとベッドから抜け出した。
いつでも旅立てるように、いつも荷物は作ってある。
脱ぎ捨てた下着を拾い、身に着けようとした時、寺原は自分の指に気付いた。
ハッとして動きを止め、左手をマジマジと見る。
その薬指に光るリングに、寺原は暫し呆然となった。
そして、不意に笑いが込み上げてきた。
「くそ…ッ」
忌々しげに振り返り、寺原は眠る由魚を見た。
近付いて、その顔の傍に顎を乗せる。
「こんなモンで縛ろうってか?」
呟いて、リングの嵌った指で由魚の眉毛を撫でた。
「ちくしょう…。鎖より重いよ」
その呟きに、由魚の唇がニヤリと笑った。
そして、目を瞑ったまま手を伸ばし、寺原の指をしっかりと掴まえた。