37.デスクの上


「課長、本当にいらっしゃらないんですか?」
もう帰り支度を終えた女子社員の一人が、デスクに座っていた嘉川の元へ寄って来て、残念そうにそう言った。
「ああ、悪いね。どうしてもこれだけは今日中に終わらせないと…」
「でも、もう後1週間で依田さんともお別れだし・・・。幾ら来週、正式な送別会があるってっ言っても寂しいですよ」
同じ課の依田隆史が家の都合で急に会社を辞める事に決まった。
明るくて気さくで人気者だっただけに、誰もが彼の退職を惜しんで、この所、毎夜のように食事会やら飲み会が続いていた。
そして、そのどれにも、嘉川はまだ1度も出席してはいなかった。
普段は面倒見のいい課長である嘉川が、幾ら仕事があるとは言え1度も顔を出さない事を、もう部下達は不審に思い始めているだろう。
当の依田も、皆と一緒に出て行く時に、必ず何か言いたげに嘉川を振り返った。
他の社員よりも可愛がられていたと自負しているだけに、嘉川の態度が解せないに違いなかった。
だが、嘉川には皆と一緒に行けない事情があったのだ。
「じゃあ、もし早く終わったら来て下さいよ。ね?課長」
女子社員に念を押されて嘉川は笑いながら頷いた。
「ああ、分かった」
そう答えたが、嘉川には行くつもりはなかった。
依田も、それを分かっているのか、戸口でまた振り返り、寂しそうな目で嘉川を見ると軽く頭を下げて出て行った。


皆が出て行った後、妙に静まり返った部屋の中で、嘉川はすっと自分の席から立ち上がった。
仕事があると言ったのは嘘では無い。
だが、今日中にやらなければならないと言うのは嘘だった。


ゆっくりと自分のデスクを周り、嘉川は依田のデスクへ近付いた。
余り整頓されているとは言えないデスクの上には、依田の私物もチラホラと見える。
嘉川はズボンのポケットに手を入れると、中から何かを掴み出した。
握り拳を出して、ゆっくりとそれを前に突き出す。
それに目を落とすと、嘉川はまたゆっくりと拳を開いた。

その、無骨な手の中には小さなマスコット人形が載っていた。
黒いプラスティック製のその猫は、清涼飲料水のオマケででもあったのだろう。頭の上の所にボールチェーンが付いていて吊り下げられるようになっていた。
それを、嘉川は依田の使っているパソコンの隣に置いた。 ちゃんと座ってこちらを見た猫にチラリと笑みを見せると、嘉川は人差し指を伸ばしてその頭を撫でた。


この猫は、元々依田の物だった。
それを嘉川は、彼のデスクの上から盗んだのだ。
勿論、依田の方では、その猫に対して執着があった訳でもなかっただろう。
コンビニででも買って来た清涼飲料水に付いていたオマケだ。飲む時に開けては見たが、それきり忘れていたに違いない。
現に嘉川がそれを見つけた時も、書類の下に埋まっていた。
依田の方では、これが無くなった事さえ気付いていなかったに違いない。
そんなつまらない物を、勿論いい歳をした嘉川が欲しがる訳も無かった。
では、何故それを黙ってポケットに入れたのか。
それは、その猫が、依田の猫だったからだ。


去年配属になって自分の課に来た依田を、実は、嘉川は前から良く知っていた。
何故だか分からないが、いつも目に付いて、彼が居ると自然と目が追ってしまうのだ。
その朗らかな笑い方の所為だろうか。
それとも、いつも陽だまりに居るような温かさの所為だろうか。
気が付くと、いつも視線は依田を追っていた。
そして、そうして見ている内に、嘉川は自分にも信じられないような感情が、その胸に宿っている事に気が付いたのだ。


何度も、何度も、馬鹿馬鹿しいと振り切ろうとした。
だが、自分の意思とは別に、その想いは膨らんでいくばかりだった。
だから、依田が自分の下に配属になった時、嘉川は酷く困惑したのだ。
これで、近づかない訳にはいかなくなってしまった。
当然、毎日のように話もする。皆と一緒に、食事に行ったり、飲みに行ったりもする。 時には、依田の方が嘉川を誘い、二人きりで退社後を過ごす事さえあった。
5年前に妻に先立たれた後、寡を通している嘉川だったから、部下も誘い易いのだろう。依田だけではなく、嘉川は部下と一緒に出かける事が多かった。
「課長、再婚しないんですか?」
一緒に居酒屋で晩飯を食べている時、依田がそう訊いてきた。
寡暮らしも5年を過ぎると世話をしてくれる人が無い訳ではなかった。 だが、何と無くその気にならず、やがて一人の暮らしにも慣れてしまっていた。
「この歳になると、相手も子持ちとかが多くてね。自分の子供も持った事が無いから、どうも父親になる自信が無くて…」
そう答えた嘉川に、依田はいつもの笑顔を見せて言った。
「そんなことないっすよ。課長なら絶対いいお父さんになれますって」
「そうかな…」
依田にそんな事を言われると何だかくすぐったくて嘉川は笑った。
だが、一方で酷く傷付いたような気持ちにもなるのだった。
「そうですよ。俺、課長みたいな親父が良かったなぁ」
何気ない依田の言葉に、嘉川は自分の息が止まったように感じた。
すぐに答えられなくて、急いでグラスに手を伸ばした。
ゴクッと音を立ててビールを飲むと、嘉川はやっと口元に笑みを貼り付けた。
「そんなお世辞言ったって、今夜は大して奢ってやれないなぁ。給料日前だし」
「あっ、そんなつもりで言ったんじゃないっすよ」
むきになって否定する依田に手を振ると、嘉川は残りのビールを飲み干した。


その晩、馬鹿に酔い、嘉川は家に戻るなり服も着替えずに眠ってしまった。
分かってはいても、辛くて堪らない。 いい上司でいるのも、父親のような存在と言われるのも、嘉川にとっては堪らなく辛いことだった。
ビールを飲む時の、依田の喉の動き。
箸を持つ手の、その爪の形。
髪を掻き上げた時の、指の動き。
そんなものばかりが目に付いてしまうというのに、何処まで行っても自分は、ただの上司でしかない。
それ以外のものになれない自分が、酷く惨めで切なかった。



その猫を見つけたのは、やはり嘉川一人で残業をしている時だった。
依田が持って行った筈の資料を探して彼のデスクの上を見ると、書類の下からコロリと転がり出て来たのだ。
その猫を、嘉川は何故か自分のポケットの中に入れてしまった。
だが、すぐにハッとして、手を戻そうとした。


デスクに置く前に、掌を開いて、もう一度猫を見る。
親指よりも小さな、黒い猫だった。
そして嘉川は、その手をギュッと握りこむと再びポケットの中へ入れた。


その肩に、気軽に触れる事さえ躊躇うほどだった。
他の部下にするように、肩をポンと叩くことさえ身構えなければ出来なかった。
父親の病気で、実家へ帰らなければならなくなったと聞いた時、何も言葉が出なかった。
別れる事が、もうその姿を見られなくなるということが、苦しい程に胸を締め付ける。
嘉川は、躊躇いがちに依田のデスクへ腰を下ろした。


いつも依田の指が触れていたキーボードを指で辿り、そしてゆっくりと、マウスを掌で包んだ。
そこにはもう、依田の体温が残っている筈も無かったが、それでも嘉川はその温もりを感じようとして、ゆっくりと指を滑らせた。
デスクの上の黒猫が、そんな嘉川をじっと見ていた。

マウスを離してまた猫を手に取ると、嘉川はそれを唇に当てた。

目を閉じる。

そして、ゆっくりと、嘉川の頬を涙が伝った。