光
シロは今日も下界を眺めていた。
誰に止められても、神のお叱りを受けようとも、シロは毎日下界へ降りるのを止めなかった。
神の加護で守られていない身を穢れた地上に晒せば、それは分かりきったことだった。
その汚れが、どんどんシロの身を侵していく。
その名の通り、純白だった羽は、今やもう灰色に穢れ見る影も無かった。
「馬鹿め。今に羽が腐って落ちる。そうなれば、もうここへは戻れぬのに」
他の天使たちは、強情に下界通いを止めようとしないシロを見限り、穢れたものとして傍へ寄ることも無かった。
ただひとり、ジウを除いては。
立ち上がって下界への扉へ渡ろうとすると、シロを呼止める者があった。
神々しいまでの白い身体。
真っ白な大きな羽。
真っ白な裾まで届く髪。
そして白い衣。
ジウは滑るようにシロに近づいた。
「シロ」
立ち止まり、彼が近づくのを待ったが、シロは呼びかけに答えはしなかった。
澄んだ水を湛えたような美しいその瞳は、僅かな光さえも捉えることはない。
生じた時より、ジウの目は何も映すことは無かった。
だが、手に持った杖がジウにその方向を教える。
迷うこと無く、ジウはシロの前に立った。
「行くんじゃない」
自分の目は大きなジウの肩の高さまで届かない。
シロは顔を上げ、仰ぎ見るようにしてジウの美しい瞳を見つめた。
「もう、止すんだ、シロ。何故、それ程下界に拘る。一体なにがあるというのだ?」
シロは答えなかった。
誰にも、自分が下界に降りる訳を決して話そうとはしない。
今日も答えを得られず、ジウは悲しげな表情を浮かべた。
「シロ…、おまえが滅してしまったら私は悲しい。どうか私の為にも、無謀なことをするのは止めてくれ」
だがシロは、黙って首を振った。
「行かなくちゃ…」
静かにそう言うと、シロはジウに背を向けた。
「シロッ…」
伸びたジウの手を、シロは必死に避けた。
穢れた自分の身に触れれば、ジウもまた穢れを生じる。
純白のジウを、シロは汚したくなかった。
以前は、その大きな懐で何度も休ませてもらった。
ジウの腕の中に居ることが、神の前に立つよりもシロにとっては喜びだった。
だが、今はもう、それも叶わぬことになった。
自分に伸ばされた腕を悲しげに見つめ、シロは踵を返すと扉へと渡り始めた。
胸が痛い。
もう随分と蝕まれてしまった。
それでも、シロは諦める事は出来なかった。
汚れた羽は動きも鈍っていたが、まだ翔べないことも無い。
街を見下ろす丘の高い木の枝に降り、シロは少し身体を休めた。
ここにあるとすれば、光が教えてくれる筈だった。
何度も、何度も、数え切れぬほど見た光だ。自分に分からない訳は無い。
目を凝らし、シロは街の澱んだ空気を読もうとした。
翔べなくなる前に、この身が腐ってしまう前に、何とか見つけ出したい。
息をするのが苦しかった。
だが、シロは枝から降りようと立ち上がった。
その時、街の外れの方にシロはあの懐かしい光を感じた。
降り立ったのは、この薄汚れた街の中でもさらに汚れた地区だった。
だが、シロは構わず、塵が散乱する道を進み、光を感じる方へと足を進めた。
細い路地の奥に、その光が存在するのを感じた。
鼠の這い回る路地の中に足を踏み入れ、シロは進んだ。
崩れかけた煉瓦の廃屋。
光はそこにあった。
汚れきった塵だらけの部屋の中にあって、その光は少しも穢れてはいなかった。
懐かしい光。
ジウの目である光だった。
「あった…」
知らず、シロの目は涙で溢れた。
生じた時、ジウと一緒に生れ落ちたその珠は、見えない目の代わりに様々なものを映し出しては教えた。
ジウはその珠で未来を読み、預言者の一員となっていたのだ。
だが、ある日、その珠が消えた。
大天使の下で働いている悪戯ものの子天使たちがこっそりと持ち出して、遊んでいる内に無くしてしまったのだ。
何処を探しても、珠は二度と現れなかった。
下界へ落ちてしまったのだろうと、誰かが言った。
「済まぬ」
子天使たちの飼い主である大天使は、一言そう言っただけで子天使を罰することも無かった。
それきり、ジウは唯一の光を失った。
シロは、それを取り戻したかった。
どうしても、もう一度ジウの手に、それを取り戻してやりたかった。
例え、自分の身が腐って消えようとも。
やっと見つけた喜びに涙を零した瞬間、シロはそこに崩れるように膝を突いた。
もう、殆ど力は残っていなかった。
これを持って、ジウの下へ帰れるだけの力はもう無い。
シロはその珠を掬い取るようにして掌に載せた。
やんわりと、清浄な空気がそこから感じられる。
ほのかな暖かさが、掌の上から広がっていった。
この珠だけなら、送れるかも知れない。
シロはゆっくりと掲げるようにして珠を頭上へと運んだ。
最後の力をすべて使い、シロはジウの光を彼の元へと送った。
煌きながらゆっくりと珠はその姿を消し、シロを照らしていた光も徐々に消えていった。
やがて、すべての光が消えると、薄暗い廃屋の中にシロだけが残った。
「羽が…」
はらはらと、汚れた羽が音も無く抜け落ちていく。
そこに膝を突いたまま、シロは胸の前で指を組んだ。
もう、二度と戻れない。
もう二度と、ジウの姿を見ることは出来ない。
何よりも大切なジウ。
シロは後悔していなかった。
無数に散乱した羽の上に、シロは崩れるように身を横たえた。
もう、起き上がる力も残ってはいない。
荒みきった廃屋の中で、今、自分は朽ちていくのだ。
静かに目を閉じる。
光に満ち溢れたあの場所に暮らす、純白のジウの姿が瞼の裏に浮かんだ。
「ああ…」
その手に、光が戻ったのを、シロは確かに見た。
すべての光を失ったシロの唇に笑みが浮かぶ。
以前のように、シロはジウの暖かい懐に抱かれていた。