塵、積もりゆく


マフラーをぐるっと撒き直し、寒風に身を縮めると、壱里(いちり)はポケットに手を突っ込んだまま店先から中を覗いた。
奥にはいつもの仏頂面が鎮座している。
前に置いた長テーブルにも山程の本が積まれている為、見えるのは顔だけだ。
その顔を眺めて、壱里はクスリと笑った。
ツイッと中に入って、目の前の棚から古びた本を手に取る。 分類分けもされず、大きさも区々に棚に収まっていたが、本の上には関心にも塵ひとつ無かった。
「これ幾ら?」
振り向かずに本を眺めながら訊くと、 ”1200円”という、無愛想な答えが返って来た。
奥からでは録に本の種類も分からない筈だったが、裏を見ると確かに1200円の値札が貼ってあった。
いつもの事ながら感心し、壱里は本を書棚に戻した。
ここ、“古書・栄林堂”の店主・安浦は、脈絡もなく乱雑に並んだ古本を一目見ただけで、その値段から題名、そして内容までをちゃんと言い当てた。
安浦は独身で、店の裏に二間ほどの部屋があり、そこに独りで住んでいる。年は45になる筈だった。
無口で無愛想。そして、商売っ気もない。
だが、案外レアな本があると、古書収集家の間では結構有名な店らしかった。
「学さん、寒い…」
言いながら、壱里はL字型に置いた長テーブルの後ろに回り込んだ。
「冬だからな」
読んでいた本から顔も上げず、安浦は素っ気無く答えた。
丸椅子を引き寄せてその隣に座ると、足元にあるガスストーブに手を翳す。長テーブルの隅に置いてあるコーヒーメーカーを見ると、まだサイフォンの中にコーヒーが残っていた。
壱里は勝手にそれに手を伸ばすと、安浦が使っていたらしいカップに注ぎ、口に運んだ。
「おまえ、休みだってのに他に行くとこぐらい無いのか?」
呆れたような言葉に、壱里は安浦を見た。
子供の頃から、それこそ嫌になるほど通っているが、安浦が笑ってくれた事は殆ど無かった。
それでも壱里は、この店と、そして安浦が好きだった。
先週、長年の想いを告げたが、思った通り安浦は取り合ってはくれなかった。


近所のお兄さんだった安浦に、恋をしたのは幾つの時だろうか。兎に角、安浦がまだ学生服を着ていた頃だった。
すらりと背が高く細身で、長い脚を組んで店先に座っている姿が綺麗だった。そんな安浦を見たくて、用も無いのに何度も店の前を行き来したものだった。
だが、その頃は高いと思っていた安浦の身長も、今自分が大人になってみると、そう大きく無かったのだと分かる。
今では、並んで見ると安浦の頭は壱里の肩に届かなかった。
「図体ばっか大きくなりやがって」
想いを告げた壱里を、安浦はそう言って笑った。
中味は、いつまでも子供だと言いたかったのだろう。


「見合い、するんか?」
訊かれて顔を上げると、やっと本から視線を外して安浦が此方を見た。
「なんで知ってんの?」
「昨日、信治さんが来て言ってたから」
「そう。……来たんだ、親父…」
「ああ。暦を買いにな。日取りを決めるのにでも必要だったんだろ?」
グッと、コーヒーを飲み干し、壱里はそこにカップを置いた。
「しないよ。見合いなんて」
「けど、もう決まってんだろ?それに、おまえだって、もう35だし…」
「言ったろッ?俺は……ッ」
安浦の言葉を遮って、壱里はギュッと彼の袖を掴んだ。
「よせ…。そんな馬鹿な理由なんか、誰も聞きゃしない」
冷たくいなされ、壱里はカッとなった。
「俺は、本気だよ。冗談だとか、気の迷いだとか思ってんなら違うからッ。俺はマジで学さんのことッ…」
「止めろッ。店先で…」
振り解こうとした安浦の手を、壱里は別の手で掴んだ。
「なら、奥に行こうッ」
「壱里ッ」
「ちゃんと聞いてよ」
後ろのガラス戸を開けると、壱里は靴を脱いで座敷に上がった。
引っ張られて、安浦も仕方なく後に続く。
壱里は安浦を座卓の前に座らせると、膝がくっ付くほどの距離に自分も正座した。
「学さんにとってはガキの戯言に思えるかも知れないけど、俺だって何も悩まずにこの年まで生きてきた訳じゃないよ。10も年上の、それも男の学さんに恋してるだなんて、何かの間違いだって何度も思おうとしたさ。彼女だって作ったし、他の男と付き合ってみようとしたこともある。けど…、どうしたって満たされなかった。結局は、学さん以外、誰も欲しくなかった」
険しい目つきで壱里の言う事を聞いていた安浦だったが、言葉が途切れるとフッと溜息をついて目を逸らした。
「俺は……、駄目だよ」
グッと、鳩尾の辺りまで何かが込み上げて来た。
それを飲み込むようにして喉を鳴らすと、壱里は低い声で言った。
「俺が…、親父の息子だから?」
ビクッと、安浦の身体が揺れた。
そして、悲しげな、諦めたような目で、ゆっくりと壱里を見た。
「知ってるなら、何も言う事は無い」
安浦が同性愛者だという事は知っていた。何度か、恋人らしい男が出入りしているのを見かけた事があったからだ。
そして、安浦の初恋が父親の信治だということも壱里には分かっていた。


近所だけに、家同士の付き合いもある。
特に母親が早く死んで女手の無い安浦の家を気遣って、同居していた祖母が良く安浦家の面倒を見てやっていた。
家が商売をやっていて両親とも共働きで帰りが遅かったので、壱里は祖母と妹の3人で夕飯を食べる事が多かった。
そこに時折、安浦も夕飯を食べに来た。
当時から無口で、余り口を利く事は無かったが、壱里は安浦が家に来る事が嬉しくて堪らなかった。
だがある日、食事を終えて帰ろうとした安浦が、玄関の壁に掛かっていた父の上着に頬を摺り寄せているのを見てしまった。
その意味を、幼いながら壱里はすぐに理解したのだ。
そして、それを見た瞬間、自分の中にある安浦への気持ちも同じなのだと気付いた。
「今でも親父を?」
訊くと、安浦はフッと笑った。
「まさか…。もう、何十年も前のことだ」
「なら、なんで駄目なんだッ?」
「壱里…」
困らせるなと言いたげに、安浦は壱里を見た。
「そんなに俺、親父に似てる?」
「……ああ。益々似てきた」
カッとして壱里は安浦の肩を掴んだ。
自分にはどうにもならない事を理由に拒絶されるのかと思うと、腹立たしくて堪らなかった。


足掻いて、足掻いて、足掻き切った。
それでも尚、少しもこの感情から逃れる事は出来なかったのだ。


「なら、それでもいいッ」
叫んで、壱里は安浦を押し倒した。
ギュッと力を込めて両肩を押さえつけて馬乗りになると、上から安浦の顔をじっと見つめた。
「もう、なんでもいい。親父の身代わりでも、慰み者でも。何でもいいから俺を受け入れてくれよ。ただ、この場所から俺を解放して……」
「壱里…」
最初は一目惚れだったのかも知れない。
淡い憧れだったのかも知れない。
だが、段々に、何かが降り積もっていくように、その想いは自分の中で満ちていったのだ。
そしてもう、溢れ出て止まらないのだ。
それでも振り向いてもらえないのかと思うと、情けなくて泣けてくる。
「ほんとに、いつまで経ってもガキだな、おまえ…」
妙に優しい声でそう言われ、壱里は顔を上げた。
すると、珍しく安浦の唇には笑みが浮かんでいた。
片手を上げて、壱里の額に掛かる髪を撫で上げると安浦は言った。
「けど、ガキの一念ってのは怖い」
「学さん…」
フッと、また安浦の唇が緩んだ。
「似てねえよ。親父さんは、もっと大人で、それに……こんなに熱い人じゃなかった」
じっと見上げられ、壱里はフッと唇を落としかけた。
だが、寸前で思い直し、また安浦を見下ろした。
そんな壱里の頬を、安浦は両手で包んだ。
「どうした?勢いつけてくれねえと、最後まで行かれないぞ」
その言葉で、箍が外れた。
壱里は貪るようにして安浦の唇に唇を押し付けた。
だが、ズボンのベルトに掛けた壱里の手を、安浦は振り払った。
「こらっ、駄目だ」
「なんで?勢いつけろって学さんが言ったんだろ?」
「そうだけど、真昼間っから出来るかッ」
そう言って壱里を押し退け、安浦は起き上がった。
「夜だ、夜。……鍋でもして、酒飲んで…、おまえとゆっくり……。20年以上待ったんだ。それぐらいいいだろうが?」
「学さん…?」
待ったのは自分のような口振りだった。
壱里が驚くと、赤くなった顔を隠すように安浦は壱里を抱きしめて肩に顔を埋めた。
「自分のことしか見えてねえんだからな、まったく…」
その言葉で全てが分かった。
「いつから?いつから、親父じゃ無くて俺に…?」
「信治さんは、ただの憧れだ。俺だってあの頃はガキで、何も分かっちゃいなかった」
「けど、先週、俺が告った時、何も言ってくれなかった……」
「そう簡単に、嬉しがってなんかやれるか。俺を幾つだと思ってやがる」
込み上げる熱い想いを胸に、壱里は安浦の身体を抱きしめた。
「意地っ張り」
詰ると、肩の上で甘えるように頬が動いた。
「煩せえ…」
クスッと笑って、壱里は真っ赤に染まった耳に唇を押し付けた。
「店、早く閉めようよ」
「駄目だ」
「どうせ客なんか来ないって」
「なんだと?」
腹立たし気に言って顔を上げた安浦に、壱里はすかさずキスをした。
「んっ…」
不意を突かれて安浦の身体が一瞬強張った。
だが、すぐに力を抜くと両腕を壱里の首に回した。 熱い舌を何度も舐め上げ、壱里は安浦を味わった。
唇を離すと、気だるげに寄り掛かってくる身体が無性に愛しくて、また熱いものが込み上げてくる。
「なあ、やっぱり店閉めよう」
「駄目だ」
「いいじゃん、なあ……」
「駄目だって」
だが、そう言いながらも自分から離れようとしない。
そんな安浦を、壱里は嬉しそうにまた抱き寄せた。