腕枕
親方から自分の後を引き継ぐようにと言われた時、善次郎には些かの迷いがあった。
幼い頃から散々泥水を飲んで、人に言えないような暮らしもして来ただけに、善次郎にとって役人というものは煙たい存在だった。
役人を相手にして、いい思いなどした事がない。
蔑まれ、好奇の目で見られはしても、護ってもらった事も、慰めてもらった覚えも無かった。
そんな自分が、毎朝町方の役宅を回り、その役人たちを相手に商売することになろうとは皮肉なものだと思った。
だが、幾ら腕が良くても、親方の店はもう娘の代になり手が足りているし、置いてもらうのは難しい。
今のまま、廻り髪結いとして働くのならば、親方の後を継いでそっくりお客を譲ってもらえるのは有難いことだった。
道を歩けば、誰もが振り返るほどの美貌だったが、それだけでは女客のあしらいは難しいと分かっていた。
女相手では、愛嬌が大事だと善次郎だって分からないではない。お世辞の一つも言えなくては、お得意を掴むのは難しかった。
それは、今までの商売で十分に分かっている。だが、何が割り切れないのか、どうしてもお客に愛敬を振り撒くことは出来なかった。
「まったくねえ、そんなに綺麗なんだから、ちょいとにっこりと笑って見せりゃ、いいお客さんが沢山付くだろうに…」
親方の娘が、呆れたようにそう言って笑ったが、善次郎は自分でも笑顔など忘れてしまったのだろうと思っていた。
だから、考えようによっては、善次郎にとって役人相手の商売は合っているのかも知れなかった。
相手は男だし、無闇矢鱈ににこにこと笑って見せる必要も無いだろう。口が重いのも却って喜ばれるかも知れない。
親方にもそう言われ、善次郎は有難く後を引き受ける事にしたのだ。
最初は、髪結いにしておくには余りに勿体無い善次郎の器量に、誰もが感心して息を呑んだ。
なにやかやと水を向けては、善次郎の過去などを詮索する者もあったが、善次郎は殆ど何も答えなかった。
それどころか、挨拶や返事こそするものの、にこりとも笑みを見せない。そんな、余りの愛想の無さに呆れたような事を言う役人も少なくなかった。
善次郎の器量に関心を持ち、好色からか何かと構ってくる相手もいた。だが、それを柳に風と受け流し、善次郎は淡々と仕事をするだけだった。
中には、奥方の目を盗んで善次郎の身体に触れてくる者も居た。
逆らったら碌な目に合わないと知っていたから咎めもしなかったが、まるで無反応なのがつまらなかったのだろう。やがて、そんな悪戯をする者も居なくなってしまった。
「綺麗だが、まるで口を利かぬ人形のようだの」
つまらなそうにそんな事を嘯く者も、どうせ陰間上がりだろうに、と聞えよがしに悪口を言う者もあったが、善次郎は一向に気にしなかった。
そんな風に言われるのは慣れている。今更、腹も立たなければ、気に病む事も無かった。
(どうせ、役人なんざ、そんなもんだろう…)
向こうが此方を馬鹿にするように、善次郎の方でも心の中では彼らを馬鹿にしていたのだ。
だが、そんな役人たちの中にあって、高倉だけは違っていた。
親方に連れられて挨拶に行った日、丁度非番だったらしく、高倉は縁側で爪を切っていた。
剣の修行も良くしているのだろう、そうやってのんびりと縁側に座っていてもどこか隙がない。だが、精悍な面立ちをふと上げると、その目は穢れを知らぬ少年のようだった。
他に家族も居ないのか、家の中はひっそりとしていた。
挨拶をして頭を下げた善次郎を、高倉は真っ直ぐな目で見つめた。
「ふぅん…、綺麗だなぁ…」
その言葉を聞いて、善次郎は驚いた。
“綺麗だ”と言われる事には慣れている。
だが、その言葉の裏に何の含みも無い。そんな事は初めてだった。
じっと見つめられて、善次郎は顔に血が上るのが分かった。
この真っ直ぐな目に見られる事が、無性に恥ずかしくなった。
(高倉…結之進様…)
誰よりも先に、善次郎は高倉の名を覚えた。
役宅を廻る日々を過ごし、仕事にも慣れて、相手の髪の癖も結い方の好みもほぼ把握した。
だが、役人を好きになれないことには変わり無く、相変わらず誰の話を聞くのも、それに答えるのも億劫だった。
そんな中で、高倉の家に行くことだけが善次郎にとって唯一の楽しみになっていた。
面白い事を言ってくれる訳でもない。それどころか、余り口の滑る方でもない高倉だったから、日によっては挨拶の他は口を開かないことさえあった。
だが、それでも善次郎は高倉に会う事が楽しかった。
高倉の方でも、善次郎に心を許してくれたのか、姿を見せると必ず嬉しそうに笑ってくれる。それがまた、善次郎の心を熱くさせた。
「一緒に酒でもどうだ」
そう言われた時は驚きもし、また嬉しくて、珍しく善次郎の頬に血の色が浮かんだ。
「俺なんかと呑んで、面白いですか」
だが、素直に喜びを口に出す事は出来なかった。
そんな憎まれ口に、高倉は苦笑して見せた。
「別段、おめえに面白い話なんぞ、期待しちゃいねえさ」
明日は非番だから家に来いと言われ、善次郎は承知した。
手土産に干物を買い、善次郎は高倉の家へ行った。
もう、家事をしてくれる通いの老婆がいるだけで、彼が家族も無い独り暮らしだという事は知っていた。
家人が居たなら、もしかしたら誘いを断っていたかも知れない。だが、高倉の事情は善次郎に余計な気を遣わせる事は無かった。
本当に、大した会話もなく二人は淡々と酒を組み交わした。
今までもそうだったが、高倉は他の役人たちのように善次郎の過去にも境遇にも余計な詮索をすることも無かった。
時折、ぽつぽつと口を開いては、他愛も無い話をする。
そんなひと時が、善次郎には途轍もなく幸せだった。
だが、ふっと自分を見る高倉の目になにやら寂しげな色を感じ、善次郎は気になった。
何故、そんな目で自分を見るのだろうか。
「毎日外を歩いてるってのに、おめえはちっとも日に焼けねえんだなぁ…」
善次郎の白い肌を、そう言って眩しそうに見る。
それは決して好色な目つきではなく、何かを思い出しているような目だった。
それが無性に気に掛かり、善次郎の胸を騒がせた。
だが、間も無く、善次郎はその理由を知る事となった。
その日も、高倉は非番で、善次郎は夕方から役宅へ呼ばれて酒を呑んでいた。
そこへ、やはり同じ定回り同心の花房新太郎がひょっこりと顔を見せたのだ。
勿論、花房も客の一人だったから善次郎も良く知っていた。
初めて役宅に訪れて花房に対面した時、その、匂い立つような美しさには、さすがの善次郎も目を見張ったものだった。
「善次郎…、来てたのか…」
庭の方から入り縁側に立った花房は、そこに居た善次郎を見て、些か眉を寄せた。
善次郎はそこに手を付いて頭を下げたが、何も言わなかった。
「高倉さん、母がこれをどうぞと」
持って来た鉢を縁側に出た高倉に示すと、花房は笑みを見せて掛かっていた布巾を取った。
「おお、筍か…、こりゃ旨そうだ」
そう言って花房の手から鉢を受け取る高倉を、善次郎はじっと見ていた。
(ああ、そうか…)
その“理由”を、その目が語っていた。
それを知ると、善次郎の口元にふっと諦めるような笑みが浮かんだ。
高倉の瞳に、不意に宿る翳りが花房への人知れぬ想いなのだと分かったからだ。
(知ってしまえば、なんのこたぁねえ…)
分かっていれば、傷つくことも無い。
自分の役目を、ちゃんと思い知っていればいいだけのことだった。
最初から、何かを期待していた訳ではない。
身分も違えば、立場も違う。元から、何も交わる部分などないのだ。
ただ、独りで酒を呑む寂しさを紛らわす相手に選ばれたというだけなのだから。
「おまえも一緒にどうだ?新太郎」
高倉が誘ったが、花房はちらりと善次郎に眼をやって首を振った。
「いえ。母が食さずに待っておりますので」
「そうか。では、母上にご馳走様でしたと伝えてくれ」
「はい。では…」
高倉に頭を下げると、花房はまた庭を通って帰って行った。
「俺が邪魔でしたら帰りましたのに…」
背中に向かって善次郎が言うと、花房の後ろ姿を見送ったまま動かなかった高倉が、驚いたような顔で振り返った。
「何を言う。そんなこたぁねえ」
その言葉に答えず、善次郎はただ黙って湯飲みを口へ運んだ。
「新太郎は、元々余り呑まんのだ」
言いながら善次郎の前に戻って座ると、高倉は持っていた鉢をそこへ置いた。
「肴が一品増えたな。筍は好きか?善…」
「…はい。これは、旨そうな煮つけですね」
「新太郎の母上は料理が上手い。さあ、おまえも食えよ」
「はい…、頂きます…」
言いながら目を上げ、善次郎は色良く焚きあがった筍に箸を伸ばす高倉を見た。
あの美しい同僚に、一体高倉はいつから想いを寄せているのだろうか。
その胸の内に、どれほどの嵐を隠しているのだろうか。
こうして幾度、その想いを酒で紛らわせているのだろうか。
「うん、旨い。善も、食え」
「はい…」
だが、返事をして箸を伸ばすと、その先からつるりと筍が逃げた。
それを見て、高倉がくすりと笑った。
「どうした?嫌われたか?」
善次郎は箸を戻すとそれを膝の上で握り直した。
「お武家の庭の筍は、俺みたいなもんに食われるのは嫌らしい」
呟くように善次郎が言うと、高倉の唇から笑みが消えた。
「馬鹿を言うねえ。こりゃ、葛西あたりの百姓が売りに来たもんだろう。役宅の庭に筍なんぞ生えやしねえ」
勿論、善次郎にだってそれ位の事は分かっていた。そして、そう言った高倉にも、善次郎がまさか本気で花房家の庭に筍が生えたと言ったのではないことぐらい分かっていたのだ。
だが、その皮肉に込められた善次郎の心情が胸を締めつけたのだろうか。
行儀悪く、ぐさりと箸の先で筍を刺すと、高倉はそれを善次郎の口元へ持っていった。
「ほれ、食えよ」
「なにを…」
余りに思いがけないことに、善次郎はかっと頬を染めた。
「ふん」
更にぐっと腕を伸ばし、高倉は意固地に善次郎の口に筍を突きつけた。
仕方なく、躊躇いがちに唇を開き、善次郎はシャクッと音を立てて筍を噛んだ。
「旨いか」
訊かれて、善次郎は咀嚼しながら頷いた。
自分には覚えも無い“お袋の味”が、口の中に広がる。
「そうか…」
笑みを浮かべて頷くと、高倉は食いかけの筍を躊躇いもせずに自分の口へ入れた。
その後、また碌な話もせずに酒を呑み、夜も更ける頃に善次郎は高倉の家を出た。
そうして何度か高倉と二人で酒を呑んだが、あれ以来、花房が姿を見せる事は無かった。
その日は高倉が珍しく酔い、いつもと様子が違っていた。
抱き寄せられた時、善次郎は逆らわなかった。
高倉が自分に何を求めているのか、分かっているつもりだった。
それさえ弁えていればいい。
この腕に抱かれても、何も変わる事などないのだ。
そう思いながら善次郎は、高倉の身体に己の熱い腕を絡みつけた。
目覚めると、眠る高倉の腕に自分の首が乗っていた。
はっとして身を起こそうとしたが、善次郎は思い直すとそっとまた頭を乗せ直し、高倉の顔を見つめた。
あれから、もう幾度この腕の中に入っただろうか。
抱かれる度に想いは増すばかりで、近頃では、気が緩むと涙が零れそうになる。
だが、その胸の内を表に出したら終わりだろう。
分かっているから、善次郎は決して何も言わず、黙って高倉の誘うままに流されてきたのだ。
じっとその顔を見つめ、善次郎は意外にあどけない高倉の寝顔にふっと口元を緩ませた。
何度抱かれた所で、何が起こる訳でもない。
何が変わる訳でもない。
高倉の胸には花房の面影があり、それが自分とすり替わる訳ではないのだ。
空しいが仕方がない。
それでも善次郎は、高倉が望んでくれる限り、この腕の中にいたかったのだ。
一瞬目を瞑り、その温もりを確かめると、善次郎は高倉を起こさないようにそっと起き上がった。
身支度を整えて高倉の家を出ると、提灯で足元を照らしながら闇の中を進んだ。
だが、ふと、気が変わって方向を変えた。
遠回りをして善次郎が向かったのは花房新太郎の家だった。
ぐるりと板塀に囲まれた役宅を、表から覗ける訳もなかったが、それでも善次郎は花房家の門の前に立った。
「おまえ、良く高倉さんの家へ呼ばれるのか」
あの翌朝、花房は善次郎が廻って行くとそう訊いてきた。
「へえ。非番の時に、たまに呼んで下さいます」
「おまえと高倉さんでは話も合うまい。どんな事を話題にするのだ」
その言い方に、少々棘がある事に気付いた。
だが、善次郎は表情を変えずに答えた。
「さあ…、これと言って何もありませんが…。旦那も余り、お話になる方じゃありませんで…」
「ふ…ん…」
頷いたが、その顔は面白く無さそうだった。
それが、自分に対する嫉妬なのかどうか、善次郎には良く分からなかった。
そして、そうだとするなら、高倉が花房の想いに気付いているのか、それも分からなかった。
だが、どちらにせよ、高倉が花房に己の想いを告げる気がない事は分かっていた。
高倉もまた、言ったところでどうなるものでも無いと分かっているのだ。
花房の想いがどうであろうと、その心を通じ合わせることなど無意味だった。
花房にも、そして高倉にも家がある。
その柵から離れる事など出来はしないのだ。
「お武家ってえのも、面倒なもんだの…」
哀しげに呟くと、善次郎は踵を返した。
高倉に激しく求められて、布団の上にあった枕が何処かへ転がって行ったのは覚えていた。
思い出して髷に手をやると、随分と崩れている。高倉の腕に乗っていた左側が、特に無残だった。
鬢付けの所為で、触るとひんやりとする。
そこには勿論、もう高倉の温もりは感じられない。
それが、善次郎にはなんだか無性に寂しい気がしてならなかった。