16.嫉妬と独占欲
「いっ…いた……っ」
背中に回された腕をギリッと掴まれ、江端は痛みに顔を歪めた。
幾ら言い訳しても、相手は少しも聞こうとはしない。 それは、何時ものことだった。
嫉妬深い年下の恋人は、江端が会社で誰かと親しげに笑い合っただけで不機嫌になる。
そして夜になると、その怒りを江端の身体にぶつけるのだ。
「彰人ッ…、痛いッ……」
もがこうとすると、彰人が覆い被さってきた。
そして、江端の肩に顔を近づけると首筋に思いきり歯を当てた。
「あうッ…」
江端の顔がまた苦痛に歪んだ。
血が滲んだのではないかと思う程に噛まれた後で、彰人の唇が今度はそこを癒すようにそっと吸った。
「彰人、何度言えば分かるんだ。部長とは来週の接待の話をしてただけだ」
呆れたように江端が言うと、彰人の腕の力が緩んだ。
やっとホッと息をついて、江端は身体を捻ると自分の上に乗ったままの彰人を見上げた。
学生時代、柔道で鍛えた逞しい身体。 一見厳つく見えるが、案外童顔で愛嬌のある顔立ち。
笑うと真っ白な歯が覗き好感度が上がる。女子社員にも人気があるのは一緒の職場にいる江端も良く知っていた。
その、愛嬌のある顔が、今は少々凶悪な表情を浮かべていた。
「聡史さんは気付いて無いだけだ。部長がいつも、あんたをどんな目で見るか」
言いながら今度は江端の両手首を掴むと、彰人はそれをグイと持ち上げて江端の頭上に縫いつけた。
江端にしても、それほど華奢と言う訳でも無い。だが、彰人にかかるとまるで子供を扱うように自由にされてしまった。
目を瞑ってハーッと溜息をつくと、江端は再び目を開いて彰人の顔を見上げた。
「そんなの、おまえの思い過ごしだよ。若い女の子なら兎も角、自分と大して年も変わらないこんなオヤジなんかに、部長が興味を持つ訳無いだろ?」
「なら、なんでわざわざ昼食に誘ったりするんだよ?仕事の話なら、会社ですればいいだろう?」
「だから、それは…」
少々うんざりしながら江端が何度もしている説明を繰り返そうとすると、彰人の乱暴な唇が落ちてきた。
「ぅんッ…」
塞がれて少々喘ぎ、江端は眉を寄せて目を瞑った。
余りの嫉妬深さに、辟易する事も度々だった。
だが、すぐにそんな所も愛しいと思ってしまうのだから、自分の恋煩いも重症だと江端は思った。
獣のように、舌や唇に歯を立ててくる彰人から顔を背けて逃げながら、それでもすぐにまた、その唇に引き寄せられて江端は喘ぎながらしがみ付いてしまう。
開けられた胸に彰人の熱い掌が吸い付くと、もう体中が熱を帯びて開いていく。
「んふッ…いたっ……」
ギリッと勃起した乳首を指に挟んで捻られたが、その痛みを訴える声も甘えるような声になってしまう。
この年下の恋人に、自分は溺れきっているのだと江端は思った。
「許さない。絶対に、俺以外の男を見たら駄目だからね?」
こんな台詞も、独占欲も、ただ嬉しいと思えるのだから自分でも呆れる。
「見てないだろ?彰人だけだ。知ってるくせに…」
言いながら彰人の手を取ると、江端は愛撫を促してそれを導いた。
江端と彰人の関係は、勿論職場では秘密だった。
いや、江端の昔からのゲイ仲間数人と、2人で良く行く店の主人と常連客ぐらいしか知らないことだった。
彰人もノーマルではなかったが、江端の前には恋人らしい恋人はいなかったらしい。
大学時代の男子寮で、それらしい経験があったのと、それから行きずりで何度か寝た相手が居ただけだと江端は聞いていた。
職場は一緒だったが、お互いにその性癖は知らずにいたのだ。
もっとも、ぺらぺらと喋る事でも無いし、お互いに秘密にしていることだったから、切欠さえなければ知ることもなかっただろう。
半年前、何時もの店で仲間と飲んだ時、ふらりと現れた青年に江端は声を掛けられた。
年は30前だろうか。感じのいい礼儀正しい青年で、顔も江端の好みだった。
普段は、初めて会った相手に誘われても付いて行ったりなどしないのだが、その時は3ヵ月ほど付き合った恋人と別れたばかりで、江端も少々寂しい思いをしていた。
相手にはとても好感が持てたし、静かな店で飲みたいと誘われ、江端もうんと言ってしまった。
だが、付いて行くと、行った先は飲み屋街の裏路地だった。
その奥へ連れ込まれ、相手は嫌がる江端に奉仕を強要しようとした。
「やめろっ…」
髪を掴まれ江端が振り払おうとすると、いきなり頬を打たれた。
猛烈な痛みに一瞬眩暈がし、江端はよろめいて後ろの壁にぶつかった。
「気取るなよ、ジジィッ。どうせ男に飢えてんだろ?上手にしゃぶったら挿れてやっからよ」
さっきまでとは別人のように下卑た口調でそう言うと、男はまた江端の襟を掴もうとした。
だが、一瞬早くその脚を蹴り、江端は抜け道へ向かって走り出した。
「畜生ッ…」
相手はすぐに追って来たが、逃げる江端も必死だった。
掴まる前に何とか通りへ出ると、目の前にあった背中に必死でしがみ付いた。
「助けてくれッ…」
驚いて振り向いたのは、かなりの大男だった。
「どうしました?……あれ?江端さん?」
ハッとして見上げると、そこには目を見張った彰人の顔があった。
「ち、千葉君……」
今度は江端が驚愕し、その顔をまじまじと見つめた。
その時、路地から躍り出て来た男が、彰人の大きな身体を見て怯んで立ち止まった。
すると、彰人は驚いた事に、サッと江端を自分の後ろへ隠して男の前に立ちはだかったのだ。
「おまえ、この人をどうするつもりだ?」
静かな、だが威圧的な声で彰人は男に向かって言った。
「……別に。ちょっと話をしてただけだ。じゃあな、おっさん」
男は彰人の顔をまともに見ようともせず、忌々しげにそう言うと足早に去って行ってしまった。
すると、フッと息を吐き、彰人は振り返って江端を見下ろした。
その人懐っこい笑みを見た時、江端は心の底から安堵するのを感じた。
「大丈夫ですか?もしかして、殴られた?指の痕が真っ赤に残ってますよ」
心配そうにそう言う彰人から、江端は顔を隠すようにして言った。
「平気だよ。……助けてくれて、ありがとう」
多分もう、自分がどういう種類の人間か気付いてしまっただろう。
人に言いふらすようなタイプの男ではないが、それでも弱みを握られた事には変わりない。さっきの安堵感とは裏腹に、江端は焦りで鳩尾の辺りがチリチリと傷んでくるのを感じた。
「平気じゃないですよ。何処かで休んだ方がいい。冷やさないと、痣にでもなったら大変だ」
肩を抱くようにして言われ、江端は戸惑った。
「そこの大通りに出てタクシーを拾って帰るから。家までそう遠くないし、帰ったら冷やすよ。ありがとう」
そう言って、肩に掛かった手を振り解こうとすると、彰人の手は益々江端の肩を強く掴んだ。
「なら、俺、付いて行きます」
「え…?」
「俺、柔道やってたし、打ち身とかの手当て上手いんですよ。さ、行きましょう、江端さん」
「け、けど…ッ」
江端がまだ躊躇っていると、彰人はその顔を見て悪戯っぽく笑った。
「大丈夫です。俺も同じだから…。誰にも言ったりしませんよ。心配しないで」
「そ、そうだったのか……」
驚いた。 まさか、この千葉彰人が、自分と同じ種類の人間だなんて思いもしなかったのだ。
戸惑いながらも、そのまま肩を抱かれるようにして、江端は彰人と一緒に歩き出した。
お互いの秘密を知って親しみが湧いた所為もあり、それから2人はちょくちょく一緒に飲むようになった。
やがて、酔いに任せて江端が誘い、彰人を自分のマンションへ連れて行くとベッドへ誘った。
拒まれるのを覚悟した上でのことだったが、彰人はすんなりと服を脱いでベッドへ上がった。
本当は、前から密かに彰人に好意を持っていた江端だった。
まさか、同じ種類の人間とは知らなかったから遠くから眺めていただけだったが、相手も自分を悪く思っていないようだし、一か八か賭けてみる事にしたのだ。
「キスしても?」
訊かれて江端はすぐに頷くと、両腕を彰人の逞しい肩に回した。
久し振りの熱い想いが、江端の胸に訪れた。
彰人の方では今夜一晩きりのつもりだろうが、出来るなら江端は、彼との関係が続く事を強く願っていたのだ。
だが、それは贅沢と言うものだろう。
「んぁ…あ…、千葉く…ん……」
思いの外、熱いキスに江端は喘いだ。
「彰人でいいです」
そう言った彰人の囁きにも、昂ぶっている事が感じられる。
江端は期待感に胸が震えるのが分かった。
セックスは素晴らしかった。
彰人の逞しい身体は伊達ではなく、太いその両腕で腰を掴んで揺すられると、江端は思わず悲鳴を上げそうになった。
自分の中で逞しく律動し、萎えることなく何度も絶頂を味わわされ、最後には江端も、ぐったりと横たわるしかなかった。
「俺、良かったですか?」
悪びれもせず無邪気にそう訊かれ、江端は苦笑しながら頷いた。
「うん、こんなの初めてだったよ」
「ホント?お世辞じゃない?」
「ホントだよ。お世辞なんかじゃないさ」
「なら、また来てもいいでしょ?」
そう訊かれて、江端は目を丸くした。
次の約束も出来たら良いと密かに思っていたが、まさか、彰人の方からこんな事を言ってくれるなんて思いもしなかったのだ。
すると、彰人はまだ寝転んだままの江端の胸に甘えるように頭を預けた。
「俺、江端さんに惚れたみたいだ…」
「あ、彰人くん…」
江端が絶句すると、彰人は顔を上げて不安そうな表情を見せた。
「迷惑ですか?」
「い、いやッ。そんなことないよっ……」
慌てて江端が答えると、彰人は嬉しそうにニンマリと笑った。
それから間もなくだった。
江端は彰人の嫉妬深さを知ることになったのだ。
兎に角、江端が会社で男子社員と話をするだけで、彰人は面白くない顔をする。
男性ファッション誌のグラビアモデルに見惚れるだけでも焼き餅を妬く。
だが、一瞬は呆れても、すぐに江端はそれを嬉しいと感じている事に気付いたのだ。
自分で思っていたのよりもずっと、江端は彰人に心を奪われてしまっていた。
「聡史さん、今夜は悪いけどパス。大学時代の悪友達が久々に集まる事になったんで、そっちへ行きます。ごめんね?」
昼休みに彰人からメールが届き、今夜の約束を反故にしてきた。
その文面を見て、江端は渋い顔をするとパタリと携帯電話を閉じた。
実は、この所、こんな事が続いているのだ。
約束を反故にされたのは、これで3度目だったし、その他にも、誘いを断られたことも何度かあった。
さすがに江端も、彰人の態度に不審を感じ初めていたのだ。
(とうとう飽きられたかな…?)
20近く年の違う相手だ。
そろそろ他の若い男にでも目移りし始めているのだろうか。
だが、それにしては、彰人の独占欲は相変わらずだった。
(久し振りに、独りで呑みに行くかな……)
そっと溜息をついて、江端は食べる気の失せた昼飯の残りに仕方なく手を伸ばした。
久し振りに昔馴染みの顔を見て、江端も少しは気分が晴れた。
軽く呑んで帰ろうとすると、雪村という同世代の男が、別の店へ行かないかと誘ってきた。
「最近見つけたお店でね、可愛い子が揃ってんのよ。行ってみない?」
外では大きな会社の部長を務める雪村だったが、仲間の前では途端にオネエ言葉になる。この世界ではそういう人間は少なくないし、もう慣れてしまっている江端は気にもならなかった。
「可愛い子ねえ。雪ちゃんの“可愛い”は当てにならないからなぁ」
からかうように江端が言うと、雪村はプッと頬を膨らました。
「あらっ、ホントよ。あのお店は粒が揃ってんだからぁ。ねえ、行きましょうよ、エバちゃん」
最初は抵抗があったが、“エバちゃん”と呼ばれる事にも、もう慣れてしまった。江端は苦笑しながら頷くと、奢ると言う雪村に勘定を任せて一足先に表へ出た。
間も無く、雪村も姿を現し、2人は通りからタクシーを拾うとそれに乗り込んだ。
雪村の案内する店は車で10分ほどの所にあった。
繁華街からは少し外れた、知らない人間なら訪れないだろう秘密クラブのような店だったが、会員制ではないらしく、入り口はフリーだった。
中は案外落ち着いた雰囲気で、バーテンのような若者が何人も働いていた。
確かに、雪村が言う通り粒が揃っている。男相手のホストクラブと言った所だろうか。
雪村が、出て来た青年に話し掛けている間に、江端はそれとなく店内を見回した。
そして、そこに見つけてしまったのだ。
隣に座った男とじゃれあい、キスをする彰人の事を。
(あいつめ…)
疑いはあった。
完全に信じていた訳でもなかった。
だが、半分以上は信じていた。 いや、信じたいと思っていたのだ。
「雪ちゃん、俺、悪いけど帰るわ」
そっと雪村の袖を引き、江端は柱の陰に入るとそう言った。
「えー?なんでー?折角来たのに…」
「うん、今度また付き合う。今日はちょっと、知った顔を見つけちゃったんで拙いんだ」
「あ、あらそうなの?」
雪村は急に小声になって江端に身を寄せた。
「分かったわ。じゃあ、また今度ね?約束よ?」
「うん、ごめんね。次は俺が奢るから」
そう言うと、江端は雪村を残して店を出た。
彰人はやはり自分に飽きてしまったのだろうか。 それとも、ただのつまみ食いのつもりなのだろうか。
だが、この店に来るのは今日が初めてではないのだろう。 きっと、あの青年を気に入って何度か通っているに違いなかった。
何とか通りを流しているタクシーを拾い、江端はマンションへ帰って来た。
空しくて堪らず、何度も溜息が出る。
風呂へ入る気力も失せて、江端はソファに横になったまま、ただ彰人の事を考えていた。