39.夜中の電話


「ちッ…」
潜り込んで聞こえない振りをしようと試みてはみたが、一向に鳴り止まない電話に、下原は舌打ちと共に仕方なく布団の中から手を伸ばした。
手探りで畳の上から携帯電話を見つけ出すと、それを耳に当てた。
ディスプレイに表示された名前を見なくても、相手は誰だか分かっていた。
「もしもし…」
不機嫌な声でそう言うと、明らかに酔った相手の声が耳元で聞こえた。
「せんせぇ、迎えに来てー」
また舌打ちをすると、下原は布団から這い出して、枕元に置いてあったタバコの箱を探り当て、一本出して銜えた。
「てめえ、二朗、いい加減にしろよ。俺はもう、おまえの担任じゃねえぞ」
タバコに火をつけながら喋った為、下原はいささか不明瞭な口調で言った。
「けど、先生は先生だろー?迎えに来てよ。俺、歩けねえーし」
「歩けなきゃ、朝までそこにいりゃいいだろ?大体、もう大人なんだ。てめえの面倒くらい、てめえで見やがれッ」
少々きつい口調でそう言うと、相手は少しの間、黙ったままでいた。
だが、やがてさっきの間延びした口調とは違って、静かな低い声が下原の耳に届いた。
「分かった。来てくれないなら、ここから飛び降りるからいい」
「てッ…、こらッ、飛び降りるって、おまえ何処にいるんだッ?」
半分は脅しだろうと思ったが、時折、相手が見せる捨て鉢な態度が冗談とは思えないことがある。それが、下原を不安にさせた。
「知らねえ……。どっかの橋の上ぇー」
歌うようにそう言って、二朗は電話を切った。
「こらっ、じろっ…」
切れた電話に3度舌打ちをすると、下原は大袈裟な溜息をついて布団から這い出した。


そう遠くには、いないだろうと思った。
二朗から真夜中に掛かって来る電話は、決まって下原のアパートの近くからだった。
近くにある橋は藤見橋しかない。
歩いて行くには少し遠いそこへ、下原は自転車を漕いで向かった。


素面だろうと酔っていようと、二朗が自分から下原の部屋へ来る事はなかった。
何が憚れるのか、何が二朗を躊躇わせるのか、下原の部屋へ来たくなると、必ずへべれけに酔ってはこうして真夜中に電話してくる。
迎えに来てくれ。
必ずそう言い、そしてそんな時は、下原のことをいつも“先生”と呼んだ。



下原が高校で遊佐二朗を担任したのは、もう7年も前になる。
在学時から変わった少年で、頭脳明晰で黙っていれば惚れ惚れするような美形だったが、何を考えているのか掴み所のない生徒だった。
1、2年は不登校気味で出席日数はギリギリだったし、下原が担任になった3年の時も、最初は殆ど出て来なかった。
仕方なく家に行ってみると、3DKの立派なマンションに二朗が1人で住んでいた。
聞いてみると、もう中学の時から殆ど1人だったと言う。
5年前に両親は離婚して、母親は妹だけを連れて出て行き、仕事の忙しい父親は滅多に顔を見せることもなく、やがて恋人が出来てここには戻らなくなったと言う。
「先生、腹減った…」
抑揚のない声でそう言った二朗に下原は眉を顰めた。
「飯も食ってねえのか?」
すると、コクッと頷き、ソファの上でクッションを抱えるようにして寝そべった。
「食いに行くのも、買いに行くのも面倒臭せえし…。夕べから食ってねえ」
それを聞いて下原は呆れたように溜息をついた。
「何が食いてえ?」
「炒飯」
「待ってろ」
立ち上がって台所へ入ったが、思った通り冷蔵庫の中には清涼飲料水のボトルしか入っていなかった。
台所は殆ど使われた形跡がない。
ただ、大きなゴミ袋にコンビニ弁当などの容器が投げ込まれているだけだった。
下原は仕方なく近くのマーケットへ材料を買いに出かけた。
多分、下原が来なければ二朗は何も食べずに今日一日を過ごしたのだろう。
二朗からは生きようとする意力のようなものが感じられない。
下原はそう思った。
“面倒だから”このまま死んでもいい。 そんな風に思っているのではないだろうか。
そう感じて怖くなる。
だが、下原の作った炒飯を二朗は旨そうに食べた。
「先生、料理上手いんだ」
嬉しそうにそう言って笑うと、やはりまだ、どこか子供じみて可愛かった。
「寡だからな。仕方がねえ、覚えるしかねえさ」
「何で結婚しねえの?」
来年37になる下原には聞き飽きた質問だった。 その度に理由を探すことにも、もう飽き飽きしていたのかも知れない。
「ホモだからな。したくても無理だ」
何故、打ち明ける気になったのか分からなかった。
多分、一番言ってはならない種類の相手だった筈だった。 だが、人には其々、苦しみもあるのだと二朗に教えたかったのだろうか。
「ふ…ん…」
だが二朗は、然して驚きもせず、頷いただけで食事を続けた。
「おまえ、学校に来いよ。折角3年になれたんだ、ちゃんと卒業しろや」
「先生がまた、飯食わしてくれるなら行ってもいい」
その答えに下原は苦笑した。
こんな状態を見て、幾らなんでも突き放す事は出来ないだろう。
「飯くらい食わしてやるよ。だから、ちゃんと学校へ来い」
そう答えると、二朗は嬉しそうに笑顔を見せた。


それから、本当に二朗はちゃんと学校へ来るようになった。
来たからと言って、別段楽しそうではなかったが、それでもちゃんと最後まで授業を受け、そして放課後は下原が顧問をしている柔道部の道場へ入り浸って、稽古が終わるまで見学するのが日課になった。
毎日のことで、最初は迷惑そうだった柔道部の生徒たちも慣れてしまい、やがて二朗と言葉を交わすようにもなった。
滅多に学校に来ないし、社交性も皆無の二朗だったから、これまでに友達と話をしている所など殆ど見たことがなかったが、こうして同じ年頃の少年達の中に混じると、やはりそれが自然な姿だと感じた。
下原の仕事が終わるのを待ち、二朗は毎日のようにアパートまで着いて来た。
そして、下原の作った夕飯を食べ、追い出されるまで帰ろうとはしなかった。
寂しいのだろうと、分かってはいるつもりだった。
だが、幾ら担任教師だからと言って、いつまでも面倒を見てやれる訳ではない。
いつかは離れなくてはならない時が来るなら、今から余り深入りしない方がいいと下原は思っていた。
「まあ、もう十分深入りしてるか…」
窓から、帰って行く二朗の後姿を見つめながら、下原はそう呟いて苦笑した。


結局、卒業までそんな日々が続き、二朗は下原の勧めもあって大学へ進んだ。
大学へ行ってからも、度々下原のアパートへ訪れたが、やがて、ぱったりと姿を見せなくなった。
多分、下原に男が出来たのを感じたからだろう。
その男とは半年も続かずに別れたが、二朗はそれきり大学を卒業する年まで連絡を寄越さなかった。
だが、大学を卒業した3月、ひょっこりとアパートに姿を見せた。
「先生、久し振り。俺、ちゃんと就職決めたよ」
律儀に報告に来たのかと思い、下原も喜んだ。 もしかすると、また、元の木阿弥で無気力に陥っているのではないかと心配していたのだ。
だが、二朗は大学を好成績で卒業し、競争率の激しいIT関連の企業に無事就職したらしい。
「そうか。良かったな」
下原が笑みを見せてそう言うと、二朗は反対に口元に浮かべていた笑みを消した。
「俺、もう子供じゃないよ。ちゃんと社会人になった。だから、先生、俺と付き合ってよ」
「二朗…」
「教え子の内は絶対にうんって言ってくれないだろうと思った。卒業して大学へ行ったら、もういいかと思ったけど、先生、さっさと男作っちまうし…」
悔しげにそう言って、二朗は恨めしそうに下原を見た。
「相手はちゃんとした社会人だって知って、きっと、子供の内は相手にしてくれないだろうと思った。だから俺、退屈な大学へもちゃんと行って、卒業して就職したんだ。先生に認めてもらえるようになろうと思った」
まさか、二朗がこんな気持ちでいたとは思いも寄らなかった。
彼がここへ来なくなった時、下原はもう、自分の役目が終わったのだとそう思っていたのだ。 そしてそれが、無性に寂しくもあったのだ。
だが今、縋るように下原を見て二朗は言った。
「今、ひとりだろ?だったら、俺と付き合ってよ」
「……バーカ。就職したくらいで大人になったつもりかよ?」
呆れたようにそう言ったが、二朗の真剣な目がくすぐったくて下原は目を逸らした。
「大体、こんなゴツいオヤジ相手に言う台詞じゃねえ。冗談も大概にしろよ」
「冗談?」
「そうだろうが?俺がホモだからって、今更からかう気か?」
「からかってなんかいねえ。俺、マジだよ?先生が好きなんだ。高3のあの時からずっと…」
二朗の気持ちに嘘がないことぐらい下原にだって分かっていた。
だが、それを認める訳にはいかない。
認めてしまったら、自分は彼の手を掴んでしまうに違いなかった。

掴んだら、きっと離せなくなる…。

下原は苦笑しながら二朗の頭をポンと叩いた。
「馬鹿言ってねえで、今度彼女でも連れて来いよ。また、飯ぐらい奢ってやるし…」
「先生…」
そのまま黙り込み、やがて二朗は帰って行った。
「可愛過ぎんだよ、馬鹿」
独りになった部屋でこめかみを揉みながら、下原は呟いた。
ずっと好きだったのは二朗だけではない。
だからこそ、溺れてしまいそうで怖かった。
前の男と上手くいかなかったのも、いつも心の何処かに二朗の影がちらついていたからだった。
自分が溺れてしまったら、困るのは二朗だろう。
「俺のことを、背負い切れるかよ?おまえに…」