39.夜中の電話
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それから半年も経った頃だった。
酷く酔っているらしい二朗が、突然夜中に電話を寄越した。
「先生、迎えに来て」
場所は、下原のアパートからそれほど離れてない公園の中だった。
ぽつんと、辛うじて一つだけ街灯が燈った薄暗い公園で、二朗はブランコに揺られていた。
「二朗…」
声を掛けると安堵したような笑みを見せて下原を見上げた。
それからだった。
酷く酔うと、二朗は必ず電話をしてくるようになった。
そして必ず、“迎えに来てくれ”と言った。
そうしなければ下原の部屋に来られないと思っているのか、それとも、酒に飲まれると無性に寂しくなるのか、その理由は分からなかった。
部屋へ連れて行くと、絡みついて、眠るまで傍にいてくれと言う。
その癖、朝になって酒が冷めると、二朗はただ下原に礼を言って帰って行くだけだった。
だが、何度目かの時、二朗は下原の身体を求めてきた。
最初は拒もうとしたが、結局、下原は二朗に抱かれてしまった。
「先生…ッ」
自分の身体に入ってきた二朗を、下原は心から愛しいと思った。
「ばかやろ…、こんな時まで先生って呼ぶんじゃねえ」
苦笑して見せると、二朗は些か恥ずかしそうに、初めて
「宗之さん」
と、下原を呼んだ。
それから、また教え子だった時のように部屋に入り浸るのかと思った二朗だったが、とうとう現れる事はなかった。
自分を抱いたことで現実に戻ったのだろうと下原は思った。
一番寂しい時、傍にいた自分を、二朗は愛しているのだと錯覚しただけなのだ。
他には誰もいなかったから、自分が全てに見えたのかも知れない。
(そんなもんだろ?所詮は…)
そう思うしかなかった。
しかし、それから暫くして、また二朗から夜中に電話があった。
「せんせー、迎えに来て…」
もう電話はないと思っていた。
だが、二朗は相変わらず呂律の回らない口調でそう言った。
「もう、いい加減にしろよ」
下原はわざと冷めた口調で二朗に答えた。
「俺はもう、おまえのお守りは御免だ」
「迎えに来てよ…」
「駄目だ、二朗…。もう、俺に電話するな」
「……分かった」
二朗の口調も急速に冷める。
下原が電話を切ろうとすると、二朗は続けて言った。
「なら、もう死ぬからいい」
「二朗…?」
「俺、なんもないよ?先生。……先生がいるから生きてたんだ」
「おい、二朗ッ」
「さよなら…」
どうしても、下原にはそれが脅しだとは思えなかった。
「待てよッ、今行くから、待ってろッ」
叫びながら立ち上がり、下原は部屋を飛び出した。
捕まえたのは歩道橋の上だった。
欄干を背にして座り、二朗は歌を歌っていた。
何の歌かは声が低くて分からない。 だが、前に立った下原を見ても二朗は歌うのを止めなかった。
「俺を弄ぶのは止めろよ」
忌々しげに下原が言うと、二朗はふっと笑って歌うのを止めた。
立たせてくれと言わんばかりに両手を差し伸べる。
その手を掴んで下原はグッと引っ張り上げた。
部屋に戻ると、二朗はまた下原を押し倒して上に乗ってきた。
「慰めてよ」
何を理由に慰めて欲しいのか分からなかったが、二朗はそう言って下原の唇を吸った。
「宗之さん…」
何度も名前を呼び、二朗は下原を抱いた。
そして、それからは、夜中に電話してくる度、二朗は部屋に来て下原を抱いた。
思った通り、藤見橋の欄干に背中を預けて二朗は立っていた。
自転車を止めて橋を渡り、その前に下原は立った。
背は変わらなかったが、今は寄り掛かっている分、二朗の方が幾らか目線が低かった。
その目を見下ろし、下原は溜息をついた。
「お疲れ様」
酒で弛緩した顔にニヤニヤ笑われて下原はもう一度溜息をついた。
「さっさと来い」
忌々しげに言い、クルリと背を向けると、下原はまた橋を戻り始めた。
自転車の荷台に跨り、二朗は下原の大きな背中に頬を預けると、また何かを歌い出した。
それは、あの時と同じ歌のようだったが、また声が低くて良く分からなかった。
「せんせー」
やがて歌が止み二朗が背中で下原を呼んだ。
「あん?」
素っ気無く答えると、腰を掴んでいた手がぐるりと前まで回された。
「もういいだろ?俺のこと、好きって言ってくれよ…」
下原は答えなかった。
だが、もうとっくに、答えは出ている。
迷惑がって見せながら、自分はいつでも二朗の電話を待っていたのだ。
「宗之さん…」
甘えるように肩の上に頬を乗せてきた、二朗の温かい息が項に掛かった。
「なぁ。もう、電話してくるなよ、二朗…」
「せんせ…」
二朗が頭を上げたのが、肩の重みが無くなった事で分かった。
「一々面倒臭えってんだよ。来たいなら黙って部屋に来りゃいいだろ?」
一瞬の間の後、声を落として下原はボソリと言った。
「たまには、素面で抱いてくれって…」
腹に回された二朗の腕にグッと力が篭るのが分かった。
「うんっ」
嬉しげな声が頭の後ろで聞こえ、また下原の肩に、愛しい重みが加わった。