一壺天
郵便受けの中に、その葉書を見つけたのは疲れ切った週末の午後だった。
高校3年の時の同窓会の通知。
確か、3~4年前にも1度来たが、寿士は行かなかった。
「……行ってみるかな」
テーブルの上にだらしなく上半身を預け、ぼんやりとその葉書を見ながら寿士は独り言を言った。
上司の娘と見合いをし、先月、結納の日取りが決まった。
見合いと言っても、質の悪い男に引っ掛かり、妊娠した挙句中絶した娘を、体よく部下に押し付けただけだ。
出世も大して望んではいなかったし、断っても良かったが、将来の自分に対して希望も無かった寿士はどうでもいいと受けてしまった。
来月の末に結納をし、その3ヵ月後には式を挙げる。
昨日の土曜もデートしたが、お互いに余所余所しいままで、大して会話も弾まない。相手の方でもまだ前の男に未練があるらしかった。
だが、決めたのは自分だ。今更、止めるなんて言える訳がない。
だが、出来ることなら逃げ出したいと思っているのも事実だった。
女なんか、誰だろうと同じだ。
愛情なんかなくても、何とかなるだろうと思っていた。
だが、結婚が決まった途端、忘れていた筈の面影が寿士の脳裏を過ぎった。
そして、それ以来、消える事はなくなってしまったのだ。
平沢櫂人
高校3年の時の同級生であり、寿士の初恋の相手だった。
その頃の櫂人は、お世辞にも評判のいい男ではなかった。
タラシ、来る者拒まず、去る者追わず。
そんな事を言われ続け、やっかみもあってか男友達は殆どいなかった。
そして、卒業前に同じ高校生の女子を妊娠させて学校を辞めていった。
学校側が幾ら揉み消しても、そういう噂は何処からか流れて来るもので、櫂人が辞めた理由は学年中の人間が知っていた。
そして、あいつならそうなっても不思議じゃない、とか、いつかはそんな事になるんじゃないかと思った、とか誰もが口々にそう言った。
だが、寿士は知っていた。
櫂人は決してみんなが言うような人間ではなかったことを。
背が高く、綺麗な顔立ちで、優しくて、笑顔が魅力的だった。
だから勿論、女の子に人気があったのは確かだった。
だが、寿士の知る限りでは誰彼構わずに手を出していた訳ではない。
いつも女子が回りに居たから誤解されていたのだろうが、少なくとも、櫂人が自分からアプローチする事は殆ど無かっただろう。
だが、櫂人は何を言われても、ただ笑うだけで言い訳をしなかった。
まるで、それを肯定と取られてしまっても構わないと思っているようだった。
ある日、校舎裏で、櫂人が彼女を取ったと因縁をつけられ殴られているのを、偶然に見た事があった。
櫂人はいつも通り言い訳ひとつせず、碌な抵抗もせずに相手に殴られた。
殴った方は、やるだけやって気が済んだのか、傷ついた櫂人を残して行ってしまった。
すると、そこへ問題の女の子が来て、泣きながら櫂人に謝った。
「ごめんっ、櫂人、ごめんね…?」
「いいよ、平気だって」
顔に痣を作り、切れた唇から血を流していても櫂人は笑って彼女の頭を撫でた。
「だって、櫂人が悪いんじゃないのに…」
「いいって。美穂の彼氏、他人に知られたら困るような相手なんだろ?誤解させたままにしときなよ」
「櫂人…ッ」
身に覚えの無いことで殴られたらしかったが、櫂人は彼女を少しも責めなかった。
何度も謝り、彼女が行ってしまった後、櫂人は偶然か、それとも視線を感じたのか、寿士が居る2階の窓を見上げた。
驚いた風でもなく、櫂人は寿士を見上げるとばつの悪そうな顔をして笑った。
「変なとこ、見られたなぁ」
「…なんで、ちゃんとほんとの事言わなかった?」
寿士が言うと、櫂人はまた笑みを見せた。
「いいじゃん。面倒臭いし」
「…いつもそうなのか?」
訊くと、櫂人は肩を竦めた。
「なあ、鞄取りに行くの面倒だし、そっから放り投げてくれねえ?」
寿士は返事をせずに窓を閉めた。
そして、櫂人と自分の鞄を持つと、階段を降りた。
「ほら」
差し出すと、櫂人は嬉しそうに笑って鞄を受け取った。
「サンキュ…」
「動くなよ」
水に浸してきたハンカチで寿士が唇の血を拭ってやると、櫂人は最初驚いたように目を見張ったが、言われた通りにじっとして寿士を見下ろした。
「優しいな、遠藤…」
「そんなんじゃない」
内心を隠し、寿士はわざと素っ気無く言った。
本当は、櫂人が傷つけられた事が口惜しくて堪らなかった。
そっと、痛く無いように気を遣いながら、寿士は櫂人の血を丁寧に拭った。
「男はみんな、俺の事が嫌いなのかと思った」
笑いながら言った櫂人の言葉に、寿士は躊躇ったが本当の事を答えた。
「俺は…、女に興味ないから」
「え…?」
流石に驚いたらしく、櫂人は眼を見張った。
言ってはみたものの、返って来る言葉が怖くて、寿士は濡れたハンカチをグッと櫂人の傷に押し当てると、それを離した。
「あっ…」
慌てて櫂人がそれを押さえると、寿士は鞄を持ち直して櫂人に背を向けた。
「おまえこそ、もっと回りの目を気にしたらどうなんだ?」
「別にいいよ、俺は」
言いながら櫂人は後を追って寿士と肩を並べた。
「実際、半分はホントだし。向こうが嫌じゃないなら、誰とでもエッチする奴だよ、俺は」
寿士が見上げると、櫂人は薄っすらと笑った。
「どっか…、ぶっ壊れてんのかな?俺。好きって感情が、イマイチ良く分かんねえの」
押さえていたハンカチを外すと、櫂人はそこに付いた血の痕を見つめた。
「それでもいいって言ってくれる子とは付き合う。でもさ、マジにはなれないって最初から断っても、やっぱり何処か期待してくれてるんだろうな。最後には呆れられて棄てられちまうんだわ」
何処か自虐めいた告白を、寿士は黙って聞いていたが、やがてふと立ち止まると櫂人を振り返った。
「ならさ、俺でもいいわけ?」
「え…?」
「俺のこともさ、他の女の子みたいに抱いてくれよ。一辺で…いいから」
「……遠藤、…なんで?」
クッと一瞬唇を噛んで俯くと、寿士は用意していた嘘を口から吐き出した。
「俺、ホモだけど、まだ経験ないし。踏ん切りがつかないって言うか…、このままだとただ独りで悩んでるだけで、なんか…、どうしていいか分からないし。だから…」
言いながら、酷く惨めな気持ちになって寿士は声を震わせた。
すると、櫂人の手が、その震える肩の上に乗った。
「いいよ。俺でいいなら…」
幾ら櫂人でも、こんな答えが返ってくるとは思っていなかった。
寿士は絶句したまま、ただ零れかけた涙をグッと手の甲で拭いた。
「俺んち来る?親父は帰り遅いし、誰もいないよ」
コクンと頷いた寿士の手を、櫂人は優しい笑みを浮かべたままで握った。
そのまま繋いで歩き出した櫂人の背中を、寿士は不思議なものを見るようにして見つめた。
櫂人は優しかった。
最後まで寿士の身体を気遣い、優しく抱いてくれた。
「後悔しねえの?遠藤…、最初が俺で」
「うん、しないよ。……ありがと」
ベッドの上で背を向けたまま、寿士はもう1度奇跡が起こるのを密かに待っていた。
このまま付き合おうと、もしかしたら櫂人が言ってくれるのではないかと期待した。
だが、櫂人は寿士の背中を撫でただけで、何も言わなかった。
その後間もなく、例の事件が発覚して櫂人は学校を辞めた。
何の前触れも無く突然学校に来なくなったし、寿士はもう、櫂人に会うことは無いのかと思った。
何度かこっそり、櫂人のマンションへ行ってみたが、部屋を訪ねる勇気は出なかった。
その内、誰も櫂人の噂をしなくなり、やがてみんなから忘れられていくのかと思うと、寿士は悲しかった。
数少ない、クラスで撮った写真の中に櫂人の姿を探し、何度もそれらを眺めた。
目を瞑って、抱かれた時の事を思い出しては泣いた。
このまま本心も告げられず、いつか忘れ去られていくのだ。
みんなが櫂人を忘れるように、櫂人もまた、寿士のことなど忘れてしまうのだろう。
卒業式の前日、真夜中に寿士の携帯電話が鳴った。
ディスプレイを見ると櫂人だった。
驚いて耳に当てると、聞こえて来たのは女の声だった。
それは、1学期が終わる前に学校を退学した、早苗と言う元クラスメートだった。
櫂人とも付き合っていた事があったらしいが、学校を辞めたときに付き合っていたのは違う男だった。
彼女の部屋で酔い潰れた櫂人を迎えに来て欲しいと言う。
「悪いけど、あたしこれから出掛けなきゃならなくて…。ここに居られちゃ困るのよ」
困惑した様子の早苗に場所を聞き、家をこっそり抜け出すと寿士はそのアパートへ行った。
だが、行ってみると、もう櫂人はいなかった。
「ごめん、一足遅かったわ」
苦笑して早苗は謝った。
櫂人は目を覚ますと、止めるのも聞かずに出て行って、通りでタクシーを拾って乗ってしまったと言う。
それを見送って戻った所に、寿士が来たという訳だった。
「でも、なんで俺に電話して来たの?」
聞くと、早苗はまた苦笑して見せた。
「だって、アドレスに載ってた男の名前、あんただけだったし」
それを聞いて、寿士は複雑な気持ちになった。
特別な関係にはなれなかったのだと思ったが、もしかして櫂人は自分の事を友達としては認めてくれていたのだろうか。
一体、どうして櫂人が早苗の部屋へ行ったのか、そして、どうして潰れるほど飲んだのか、寿士は何も訊かなかった。
多分、聞いても何も出来ないと分かっていたからだろう。それが、酷く空しかった。
「何処へ行ったのかな…」
なんとなくだが、櫂人が家に帰ったのだとは思えなかった。
呟くと、無性に泣きたくなり、寿士は自分を励ますようにブルッと身体を震わせると、落ちかけた涙を零さないように上を向いて歩き出した。
あれから10年、寿士はその後、1度も櫂人に会っていない。
多分、クラスのみんなにいい印象は持っていないだろうし、同窓会に櫂人が来るとは思えなかった。
だが、今度は行ってみようかと寿士は思った。
あの頃の自分に戻りたいような気がする。
例え、本当の事は言えなくても、本気で櫂人を好きだった。こんな偽りだらけの、打算的な人間ではなかった筈だった。
そんな自分を思い出したかった。
机の上に載ったペンを取ると、寿士は返信葉書の出席の文字に丸をつけた。