無月宵


その晩は、空に月は無かった。

夜梟丸(やきょうまる)は、その身に“墨流し”と呼ばれる黒布を纏い、闇と一体になって杜の中を移動していた。
真の闇のように見えても、訓練を積み重ねた彼の目には闇を見透かす力があった。
それだけではない。
風を読み、匂いを知る。
一種の獣のように研ぎ澄まされた感覚が、闇の中でも辺りの地形を彼に教えてくれるのだ。

杜に入って随分の時が経つ。

もう、追って来た人間はとっくに夜梟丸を見失っているだろう。
ふと立ち止まり、夜梟丸は前方に目を凝らした。
大分離れてはいるが、遠くに人家らしき灯りが見えた。
(あれか…?)
目的地を確認して、夜梟丸はまた歩き出した。



まさか御落胤が、こんな辺鄙な場所に隠れ住んでいようとは思いも寄らなかった。
もっとも、相手があの多加子様とあっては、殿様も必要以上に用心したのだろう。
現に、刺客を差し向けたとの情報で、こうして夜梟丸達が動き始めているのだ。だが、今はまだ、敵にこの場所が知られていることは無いだろう。
この山寺に、妾腹の子である虎太郎(とらたろう)君が隠れ住んでいる事を知っているのは、殿様の他には、里の長老と自分達だけの筈だった。


三月ほど前から、若殿である長慶君が床に伏せるようになった。
幼少の頃より、余り丈夫ではなかった若君だったが、元服を過ぎた頃から胸を病み、寝たり起きたりの日々が続いていた。
御匙でも埒が明かぬと、名医と呼ばれる医者を何人も頼み、随分と手を尽くしてみたが、一向に良くなる気配もない。
弱っていくばかりの息子を見て、殿も他に世継を考え初めていた。
だが、正室である多加子がそれを許す筈も無かった。
元々が、公家から嫁いで来ただけあって、異常に気位が高い。他の女に産ませた子になど、位を譲る気は毛頭無かった。
我が腹を痛めた男子は長慶一人だけだったが、他にも姫が二人居る。そのどちらかに婿を立てお家を継がせるつもりだった。
だが、そうなると、側室に生ませた虎太郎が俄然邪魔になってくる。
「側室などと、大層な。たかが、女中風情の産んだ子に、お家を継がせる訳も無い」
殿のお手付きとなった女中を、多加子は奥へ入れる事を許さなかった。
女中は実家に戻されて虎太郎を生み、その身の危険を察知していた殿様の命で、里の長老が秘密裏にその存在を何処かへ隠したのだ。
だが、執念深い多加子は諦めてはいなかった。
自分の手足となって働く者共に命じ、長年に渡って虎太郎の行方を探していたらしい。
此の度、いよいよもって長慶の容態も悪くなり、多加子の方でも焦り始めている。
今の隠れ場所も、何れは知れてしまうだろう。
長老は夜梟丸を呼んで、虎太郎の身を他へ移すように命じた。


「少し前から、虎太郎様を御守りする者を近くに侍らせておる。その者には、おまえが行くことを知らせてあるゆえ」
長老の言葉に夜梟丸は些か眉を顰めた。
里に居る上忍の数は揃っている。
遣わした者というのは、勿論手練れだろうが、里に居る以外で夜梟丸の知っている誰が居ると言うのだろうか。
それに答えるように長老はにやりと笑った。
「朧じゃ」
「なんと…?」
“朧”とは里でもその存在を知る者は限られている、長老の懐刀であった。
正確な歳も容姿も誰も知らず、時々によって変幻自在にその姿を変えると言われていた。
勿論、妖怪ではなし、実際に変幻自在に姿を変えられる訳ではないだろう。だが、朧は男であるにも拘らず、女忍が良く用いるように自分の体重を短期間に調整すること出来るのだ。
勿論、上背を変えるのは不可能だが、痩せたり太ったりして印象を変え、加えてその類稀な変装の技術を駆使してまったく違った人間に成り済ますのを得意としていた。
元々の体躯は小柄らしく、化けるのは少年や女、または老人や老女が多いと言われていた。
「では、朧が何かに化けてお傍へ?」
「多分、寺小姓にでも姿を変えておる筈じゃ。おまえのことは見知っておる筈じゃから、力を合わせて事を運んでくれ。よいな?」
こちらは一度も会った覚えが無いのに向こうが知っているというのは些か気持ちが悪かった。
だが、今はそんなことを言っている場合でもないだろう。
夜梟丸はその日の内に里を出立した。


途中、里への出入りを見張っていたらしい敵に後を付けられたが、難なく撒いて先を急いだ。
その後は、ここまで後を追ってくる者も無かった。
夜梟丸は木立の間を慎重に抜けると、彼方の明かりへと歩を進めた。



(なるほど。これは見事な……)
その褥の枕元に座り、夜梟丸は感心して寝顔を眺めた。
朧は、自分の物心がつく頃には、すでにその名を知られる忍びだった。それを考えても、十近くは年上の筈だ。
だが、ここに横たわっているのは、どう見ても十四、五の少年だった。
しかも、その初々しさ、美しさといったらどうだろう。
これが三十路を前にした人間の醸し出せるものだとしたら、正しく朧は化け物だ。
すでに自分が来ていることなど、表に立った時点で気付いている筈だったが、それでもふてぶてしく寝たふりを続けているあたりが厭らしい。
腹立ちもあって、夜梟丸は急に悪戯心を覚えた。

屈み込んで唇を軽く吸う。
だが、相手は身じろぎもしなかった。

夜梟丸は腰に挿していた刀を鞘ごと引き抜くと、それを脇に置き、布団を捲ってその中へ身体を滑り込ませた。
鬢の匂いがぷんと香る。
だが、それ以外は体臭も感じられなかった。
片手で扱きを解き、寝巻きの合わせ目を開くと、夜梟丸はそこへ手を滑り込ませた。
滑らかな肌は正しく少年のものだった。
(これが……?)
眉を顰め、もう一度寝顔を覗き込む。
手を動かして肌を弄ると、さすがに呻いて目を覚ました。
「なっ、何者ッ…」
今初めて、自分の寝間の中の男に気付いたかの如く、驚愕の表情を見せた朧に夜梟丸は笑った。
「もうそろそろ、戯れるのは止めたらどうだ?俺は夜梟丸。勿論知っていよう」
「夜梟丸?では、里の…?」
頷くと強張っていた身体から少々力が抜けた。
だがすぐに自分の姿に気付き、また身体が強張った。
「な、なにをするッ?」
これ以上の悪戯をするつもりも無かったが、思った以上の艶やかさに気持ちが変わった。
「これから共に務めを果たすのだ。もう少し、互いを知っても良いだろう」
「あっ、嫌じゃッ」
腕を掴まれて押さえつけられ、朧は叫んで身を捩った。
その様子は、腕に覚えのある人間とはとても思えなかった。
ここまでくればもう、さすがに夜梟丸も不審を覚えた。これが朧でないとすれば、答えはひとつしかない。
「虎太郎様?」
はっとして手を離すと、夜梟丸は寝間から飛び出した。
何故、朧の寝間に虎太郎が眠っていたのか。
その時、背後の襖の向こうから忍び笑いが聞こえた。
「里ではその名を知られた夜梟丸も、まだまだひよっ子のようだの…」
そこに人の気配があることにまるで気付かなかった。
朧の技が流石と言えば流石なのだが、此度は夜梟丸の方が油断していたと言うべきだろう。
(くそ…っ)
歯噛みをしながら振り返ると、襖が音も無く開き寺小姓姿の朧が初めて姿を現した。
少々妖艶過ぎるが、確かにそこに居るのは虎太郎と同じ年頃の少年だった。
胡蝶の柄の振袖に紫の袴をつけ、前髪も初々しい。
闇に目を凝らし、夜梟丸は感心して朧の姿を眺めた。
「何があるか分からぬので、夜は虎太郎様と寝間を取り替えて休んでいる。それぐらいのことは、察しが付くだろうと思うていたに」
笑われて夜梟丸は悔しげに顔を歪めた。
「したが…」
夜梟丸の顔を見て、朧はくすりと笑った。
「前に見た時より、随分と立派になられた。逞しゅうて、頼もしいの」
やはり、長老の言葉通り、朧の方では夜梟丸を見知っていたらしい。
「からかうのはそれ位にしてもらおう。朧殿、長老にはここで貴方と会うようにと言われただけで、何も聞いてはいない。すべては貴方が承知しておられるのだな?」
「左様。出立は明日の朝、日の昇る前に。行く先は知らぬとも良い。わしが案内するゆえ」
「承知」
「今宵は虎太郎様の枕元にて見張りを頼む」
「……分かりました」
少々躊躇った後で、夜梟丸は頷いた。
先ほどの無礼を虎太郎がなんと思っているのか気になるが、だからと言って自分の務めを投げ出す訳にもいかないだろう。
これから何処まで行くのかはまだ分からぬが、道中は虎太郎の傍に寄り添って行くことになるのだ。