手の内


先刻から、資料を棚に戻す僕の手はカタカタと小刻みに震えていた。
資料室の入り口に立って、ずっと僕の背中を刺すような視線で見つめている人がいるからだ。
それは、この会社の社長、榊英介。
ワンマンとも鬼とも言われるが、切れ者とも敏腕とも言われる人だった。
父上の死後、25歳の若さで会社を継ぎ、たった2年で業績を倍にまで伸ばしたやり手社長だ。
その彼の傍で、僕はもう2週間ほど働いている。
だが、いつまで経っても、僕がこの圧倒的な存在に慣れる事は無かった。


僕がこの会社にアルバイトに入ったのは、バイト募集の広告の好条件に惹かれてのことだった。
父が突然リストラされ、授業料もままならなくなってしまった。
だが、もう3年だった事もあり、今更大学を止めるのも嫌だったし、出来る事なら卒業したいと思った僕は、奨学金の不足分を何とか自分で稼ごうと思った。
だが、大学に通っている昼間はアルバイトをする訳にはいかない。かと言って、僕に夜の仕事が出来るとは思えなかった。
そんな時、夕方から夜(時には夜中までとあったが…)の時間帯に、オフィスで資料の整理その他の雑事をするだけで、高額なアルバイト料を払うという会社の広告を見つけた。
勿論、僕はすぐに飛びついた。
会社は立派なビルだった。余りに条件がいいので、まさか胡散臭い会社かとも思ったのだが、そうではなさそうだ。
書類審査を運良く通り、面接会場に行くと、さすがに条件がいいだけあって結構な競争率だった。
30人近くが集まっていたが、その中で採用はたった1人らしい。
優秀そうな面々を見て、僕は少し怖気付いてしまった。
集まった1人1人を個別に面接するのかとばかり思っていたが、大部屋のような所に集められたきり、幾ら待っても何の説明も始まる様子が無かった。
おかしいと、皆がざわつき始めた時、いきなりドアが開いて30前ぐらいの背の高い男が入って来た。
後ろに2人ばかり壮年の立派な紳士を従え、仕立ての良さそうなダークな色の三つ揃いに身を包んだその男は、鋭い視線で部屋の中の人間を見渡した。
すると、ぴたり、とざわつきが収まった。
一瞥で人を動かす何かが、その男の目にはあったのだ。
ゆっくりと、男は部屋の中の人間を1人1人眺めた。
そして、その視線がぴたり、と僕の上で止まった。
すると、すっと、男の指が僕を指した。
「おまえにする」
それだけを言うと、男は来た時と同じようにさっさと部屋を出て行った。
すると、彼が後ろに従えて来た2人の紳士が僕に近づいて来た。
「君が採用だよ。おめでとう」
「は、はいっ?」
「先ほど、いらしたのがウチの社長だ。社長が君に決定なさったんだよ」
「え……?」
驚いたのは僕だけではなかった。
集まった全員が、驚きと不服を唱えて口々に何か言い出した。
「済まないが」
紳士の1人が声を張り上げ、ざわつきが静まった。
「ウチの会社では、社長が絶対です。社長が決定されたからには、彼の採用は動きません。面接はこれで終了します。速やかにお引取り願いましょう」
有無を言わさぬ口調だった。
その場の全員から刺すような視線を浴び、僕はこれ以上ないほどに身を縮めたが、心の中では意外な幸運を喜んでいた。
何処が気に入られたのか分からないが、兎に角、驚くほど好条件の仕事を物凄い倍率で勝ち取った事には変わりなかった。
「君、付いて来なさい」
まだ、不服を唱える者がその場を立ち去りかねている中、紳士の1人が僕を誘って部屋から連れ出した。
付いていくと、着いたのは社長室の扉の前だった。
「中で社長が待ってらっしゃる。挨拶してきなさい」
「はい」
僕が返事をすると、紳士はその場から立ち去ってしまった。
一緒に中へ入ってくれるものだとばかり思っていた僕は些か不安になったが、別に、取って喰われる訳でもないだろうと思い、ドアのノブに手を掛けた。
もう一方の手でノックをすると、すぐに中から男の声がした。
「入れ」
「失礼します」
中は立派な部屋だった。
分厚いトルコ絨毯の敷き詰められた床。革張りのソファ。特注らしいキャビネット類やデスク。
そしてその向こうに大きな窓を背にして榊英介社長が座っていた。
「名前は?」
見ていた書類からチラリと目だけを上げて社長は言った。
「小野寺です。小野寺由委(ゆい)
「大学生だな?」
「はい、3回生です」
「明日から来い」
「は…、はい」
「帰っていい」
そう言ったきり、榊社長は口を開こうとはしなかった。
それどころか、最初にチラリと見たきりで僕の方を見ようともしない。そして、僕の履歴書さえ見ている様子はなかった。
「あ…、あの…?」
だが、僕が呼びかけると、面倒臭そうに顔を上げた。
「なんだ?」
「時間とかは…?何時に来ればいいんでしょうか?」
「学校が終わったら真っ直ぐに来い。寄り道は許さん」
その言葉に僕は驚いた。まさか、保護者でもないのに寄り道は許さないなどと言われるとは思わなかったのだ。
でも僕は、素直に頷いた。
このワンマンらしい社長の機嫌を最初から損ねるのは拙いだろう。
それきり、もう目さえ上げようとはしない。これで話は終わりらしかった。
僕は一礼して、部屋を出た。
ハンサムだがちょっと怖いなと、僕は思った。
だが、その有無を言わせぬ口調も、鋭く人を射抜くような目も、何処かしら魅力的ではある。
圧倒的な存在感と、そして、その時はまだ気付いていなかった何かを、僕は彼に感じていた。



翌日、言われた通り、学校から真っ直ぐに会社に行くと、受付に伝言があった。
「すぐに社長室へ。社長がお待ちです」
「はい。分かりました」
言われた通り社長室へ行くと、すぐに仕事の指示が出た。
社長が目を通した後の膨大な資料その他の仕分けと、整理が主な仕事だった。
いくらキチンと整理されている資料室だとは言え、僕にとっては何もかもが初めてだし、要領を得るのにも時間が掛かった。
何度も資料室と社長室を往復して、僕がその日の仕事を終えたのは夜の9時を回った頃だった。
その間も、社長は目まぐるしく仕事をこなしていた。
こんなに忙しいのに、何故秘書を使わないのか僕は疑問に感じた。
だが勿論、そんな事を訊ける訳も無く、僕は仕事が終わった事を社長に告げると、帰っていいと言われるのを待った。
だが、社長は何も言わない。
学校から真っ直ぐに来て、勿論、昼から今まで何も食べていない僕は、腹が減って今にも音を立てそうだった。
もじもじと、デスクの前に立っていると、やっと社長が顔を上げた。
「そんなところに突っ立ってないで、そっちに座れ。今、飯が来る」
「え……?」
「腹が減ってるだろうが?」
「は、はい…ッ」
まさか、夕食までご馳走してくれるとは夢にも思わず、僕は驚いた。
大人しくソファに座って待つと、間も無く何処かの料理屋の者らしい配達人が、大きな岡持ちを持って現れた。
店屋物と言えば、精々、ラーメンかカツ丼くらいを想像していた僕は、目の前に並んだ塗りのお重に入った豪華な弁当をまじまじと見つめた。
しかも、その他に熱々の吸い物までが並び、僕は驚いて前に座った社長を見た。
「どうした?冷めないウチに喰え」
「は、はい。頂きます」
思わず深々と頭を下げ、僕は箸を取った。
「美味しい…」
ぼくが思わず口に出すと、社長が事も無げに言った。
「美善の弁当だ。不味い訳が無い」
その名前を聞いて、ぼくは喉を詰まらせそうになった。
美善といえば、高級なことで知られる料理屋だ。僕などは一生に1度だって脚を踏み入れる機会は無いだろう。
そんな高級店の弁当を、この人は日常的に口にしているのだろうか。
そう思って、僕は改めて社長の顔を見た。
だが彼は、僕の視線など気にも留めず、別段美味しくも無さそうに黙々と箸を口に運んでいるだけだった。
僕の方はと言えば、初めての高級料理に感激しながら味わって弁当を食べ終えると、社長に礼を言って立ち上がった。
「待て」
「はい?」
「こっちへ来い」
言われて僕は彼が座っている方へ近付いた。
すると、いきなり腕を掴まれてグイッと強く引っ張られた。
「あ……ッ」
突然の事で身構える暇も無く、短く声を上げると僕は社長の膝の上に倒れこんだ。
「おまえを気に入った」
「え……?」
その意味が分からず、顔を上げて確かめようとした時、社長の手が僕のズボンのファスナーに掛かった。
「なっ、なにをッ…?」
「脱げ」
有無を言わさぬ例の口調で、社長は言った。
「いや…ッ」
慌てて抵抗しようとした時、社長の手がクッと僕の顎を抑えた。
「拒絶は許さん」
その目に、じっと見つめられて、僕は最初に彼から感じたものが何だったのか、やっと分かった。

それは、圧倒的な雄の匂いだった。

女なら、多分、一瞥でやられてしまうだろうほどの、フェロモン。
そして、男の僕でも抗い切れるかどうか分からないほどの魅力が、彼の目にはあった。
「脱げと言っている」
言いながら、片手で僕のズボンを脱がせていく。
僕は泣きそうになりながら必死で首を振ったが、それ以上の抵抗は出来なかった。
まるで、ヘビに睨まれた蛙のように、身体が動かなくなってしまったのだ。
だが何故、僕にこんなことをするのだろうか。
確かに僕は余り男っぽいとは言えないかも知れないが、それでも同性からそんな対象として見られた経験などない。
とうとう下着まで下ろされ、僕はソファの上にうつ伏せに抑え付けられた。
「脚を開け」
「や……」
首を振ると、その首筋をグッと抑えつけられた。
「開けと言っている」
もう、彼が何をしようとしているのか僕にだって分かっていた。
だからこそ怖くて堪らず、僕は体中が萎縮していくのが分かった。
すると、苛々とした舌打ちと共に、動かなくなっていた僕の脚を持ち、社長がグイッと開かせた。
「う……」
そこに、指が当たり、すぐに抉じ開けようとして動いた。
(いや……)
心の中で何度もそう言ったが、恐怖の為か言葉にはならなかった。
「さすがに固いな…」
そう呟き、社長は指を戻した。
それで終わりかとホッとしたが、起き上がろうとした僕の背中に社長の一喝が飛んだ。
「動くな」
それでもう、僕は動けなくなっていた。
逃げ出せば済むことなのかも知れない。幾ら雇い主だからといって、こんな不当な仕打ちをしていい筈が無い。
拒絶して、部屋を出て来さえすれば済む事なのだ。
それなのに、何故か出来ない。
彼に動くなと言われただけで、僕の身体は金縛りにあったようにピクリとも動けなくなっていた。