続・手の内
「明日から俺の家に住め」
社長からそう言われて僕は承知した。
拒絶する事など勿論許されはしなかったし、僕自身、最初から逆らう気も無かった。
身も心も、榊英介の手の中にある。
僕はもう、そんな自分を諦めていた。
だが、“明日から”と言う言葉にだけは、条件をつけさせてもらった。
幾らなんでも、そう早く準備は出来ない。
「準備?何の準備だ?身の回りのものさえ持って来れば、それでいい」
「でも、家族にもちゃんと話をしなければなりませんし、すぐには無理です。来週まで待ってください」
そう言うと、社長はつまらなそうに僕を見ていたが、すぐに素っ気無く視線を外した。
「分かった。月曜に迎えをやる」
「はい…」
僕が返事をすると、社長はPC画面から目も上げずに素っ気無く言った。
「コーヒー」
「はい」
僕はもう1度返事をすると部屋を出た。
後から分かった事だが、使わないのが不思議だと思っていた社長の秘書は居ない訳ではなかったのだ。
社長室を出て左側に秘書室があり、そこに3人の秘書が居た。
2人は女性秘書で、1人は男だった。
前島豊と言い、歳は24歳。僕と同じく学生時代からこの会社でアルバイトをしていて、社長に気に入られてそのまま入社したらしい。
すらりと背が高く、上品な面立ちの中々の美形で、女子社員にも人気があるらしかった。
秘書室のドアをノックして中に入ると、もう女性達は帰宅したらしく、前島が1人で仕事をしていた。
「済みません…」
「コーヒーですか?」
僕が皆まで言う前に、前島はすぐに察して笑みを浮かべた。
「はい」
僕がここへ来る用事の7割が社長用のコーヒーを貰いに来る事だったので、自然、前島もそう訊いてきたのだ。
「小野寺君…、由委くんて呼んでもいいですか?」
にこやかにそう訊かれ、僕はすぐに頷いた。
「あ、はい。どうぞ…」
年下で、ただのアルバイトの僕に対しても、前島はいつも丁寧な言葉遣いを崩さなかった。
そんな所も好感の持てる人だった。
大体、学生時代からアルバイトをしていたとは言え、入社してすぐに社長秘書に抜擢されるくらいだから、相当優秀なのだろう。
その証拠に若い彼に比べ、2人の女性秘書は、どちらもかなりのベテランだった。
「由委君、今夜は忙しい?良かったら少し付き合いませんか?」
「あ…、はい…」
彼の誘いに、正直、僕は戸惑った。それまでは、余り親しく口を利いた事も無かったからだ。
それに、僕の身体は、この会社にいる限り、常に社長の都合次第だった。
しかし、今日はさっきの態度から見て、社長が僕に退社後も付き合えと言ってくるとは思えなかった。
「大丈夫だと思います…。ただ…」
「ああ、分かってますよ。何時に終われるか分からないんですよね?…いいですよ。それまで僕も、ここで仕事をして待ってますから。終わったら声を掛けてくれませんか?」
僕の仕事が終わるのは社長次第だと言う事を、勿論、秘書である彼には良く分かっていた。
「はい、分かりました。それじゃ…」
僕がコーヒーカップとサイフォンを載せたトレイを手に会釈すると、前島も笑みを浮かべて頷いた。
社長室に戻り、カップにコーヒーを注いで出すと、社長は目も上げずにそれに手を伸ばした。
僕は、仕事に戻り、いつものようにファイルを抱えて部屋を出た。
その日は思った通り、僕の言ったことで機嫌を損ねたのだろう。仕事を終えても社長からの誘いは無かった。
僕は挨拶して、9時過ぎに部屋を出ると、隣の秘書室のドアをノックした。
すぐに返事が聞こえ、僕がドアを開けると前島はPC画面から目を上げて僕に笑みを見せた。
「すぐに片付けるから、ちょっと待っててください」
「はい…」
僕がドアの前で待っていると、前島は何やら素早く打ち込んだ後でPCの電源を落とした。
「じゃあ、行きましょうか?」
「はい」
上着と鞄を持って僕に近づいて来た前島に頷き、僕は彼の後に着いて行った。
「お腹空いてるでしょう?何か美味しい物でも食べましょう」
「あの…、前島さん?」
「なんです?」
「どうして僕を誘って下さったんですか?」
僕は、最前から気になっていた事を前島に訊いた。
すると、前島は僕を見て、クスリと笑った。
「そりゃあ、君に興味があるからに決まっているでしょう?」
「興味…?」
「そう。興味…がね」
含みのあるその言い方が気になった。
だが、それ以上答えるつもりは無いらしく、前島はタクシーを拾うと僕を促してそれに乗り込んだ。
「僕に任せてくれますか?」
そう訊かれて僕は頷いた。
着いたのは、ビストロと呼ぶのが一番相応しいような店だった。
気取りがなく、それでいて料理が旨い。腹が減っていた僕は、勧められるままに料理を堪能し、酒も少し飲んだ。
「由委君は3回生でしたか?」
「そうです…」
「僕も、あの会社にアルバイトに入ったのは君と同じ年でした。そして、そのまま就職したんだけど…」
「はい、聞いてます。…社長に気に入られて、そのまま引っ張られたって……」
僕が躊躇いがちにそう言うと、前島の目が笑った。
「気に入られたって言ってもね、無試験だった訳じゃ無いんですよ。榊社長はそんなに甘い人じゃ無い…」
「そうなんですか…?」
自分が採用された時の事を思い描いていた僕は、前島の言葉が少し意外だった。
「無試験であの会社に入れたのは、君以外には独りも居ませんよ、由委君」
「え……?」
口に運びかけたフォークを止め、僕は前島を見た。
「社長はね、確かにワンマンな人です。でも、実力主義でも有名だ。例えそれが正社員じゃなくても、力も無い者を自分の下に置くなんて事は今までに1度だって有りません。分かりますか?……唯一、君だけが例外なんです」
「そ……」
僕は、思わずじっと見つめる前島の視線から目を逸らしてしまった。
僕だけが例外だったなんて、今の今まで知らなかった事だ。
榊社長のワンマン振りを見ていて、あれが、あの会社の採用方法なのだと勝手に思い込んでいたのだ。
「僕が、君に興味を持つのは当たり前でしょう?君がどうやって採用されたのかを知れば、他の社員だって全員、君に対して興味を持ちますよ」
「そんなことを言われても…」
戸惑いを隠せずに、僕は口篭った。
すると、前島が僕のグラスにワインを注ぎ足した。
「それに、もうひとつ謎がある…」
「え…?」
顔を上げた僕に、前島の視線が注がれた。
「君の法外なアルバイト料…」
僕が黙っていると、前島は面白がっているような目付きで僕を見つめながら言った。
「確かに、時間も不規則だし、社長次第で何時に帰れるか分からないような仕事ですが、だからと言って、そう難しい事をさせられている訳じゃ無い。はっきり言わせて貰えば、慣れれば誰にでも出来る仕事でしょう?君の仕事は…」
それは、確かにそうだった。
目の前の前島を含め社長付きの秘書が3人もいるのだから、難しい仕事は彼らがこなしている。だから、僕がしている事は本当に雑用と言える物だった。
ただ、前島の言うように社長の気分次第ですべてが決まるし、また、ランダムに読み散らかされた物を、すべて整理するには手間も掛かる。そう言った部分で大変だというだけだった。
言われれば、確かにその程度の仕事では僕の時給は貰い過ぎだ。
「あの…、僕の前にも同じようなアルバイトを雇っていたんでしょうか?」
「そう。社長の仕事振りを見ていれば分かるだろうけど、それを補佐している僕たちの仕事量も半端ではない。だから、雑用をして貰うアルバイトは、君の前にも雇ってましたよ。でも、時給は君のように払ってはいなかったね」
「でも、アルバイトの募集をかけた時点で今の時給は決まっていた筈です。…僕は、その高額なバイト料に釣られて面接を受けに行ったんですから…」
「それは知ってますよ…」
笑いながらそう言うと、前島はワインのグラスを口元に運び、一口飲んだ。
「でも、それだけ高額なバイト料を払うからには、それに見合った仕事をしてもらう筈だった。最初は雑用でも、慣れた頃には仕事を増やす筈。なのに……。僕が不思議がっているのは、もう2週間も経ったのに君の仕事が未だに雑用の域を出ていないという事なんですよ」
「僕が……、必要以上に社長に優遇されていると思ってらっしゃるんですか…?」
僕の言葉に、前島はまた笑った。
「僕が思っているのではなく、事実、そうでしょう?」
僕は言い返せなかった。
僕だけが他とは違うという事実を、前島から聞くまで知らなかった。
だが、それを知ってみると、確かに僕は社長から特別な待遇を与えられているように思える。
最初に聞いた時、彼ははっきりと否定したが、やはり僕のアルバイト料には”身体”の代金も含まれているのだろうか。
そう思うと、急に気分が悪くなった。
「それとも…、僕たちの知らない仕事を、君は社長の為にしているんでしょうか…?」
そのひと言と、そして彼の目付きに僕の体は凍りついた。
「そ…、そんな…。僕は何も……」
口の中がカラカラに渇き、僕は慌ててワインのグラスに手を伸ばした。
飲み干した僕のグラスに前島はゆっくりとワインを注いでくれた。
「僕が、君に興味を持つのも当たり前だと思いませんか?君の存在は、余りにも謎めいているんですよ」
僕はもう1度ワインのグラスに手を伸ばした。
その手が、震えているのを見て、前島の口元が薄っすらと笑みを浮かべた。
彼が僕に抱いているのは、本当にただの興味だけだろうか。
突然、僕を見る前島の目の中に狡猾な光を感じ、僕は急に恐ろしくなった。
だが、それ以上の詮索をしようとはせず、前島はその後、話題を切り替えた。
大学での事や、趣味の事など、僕は訊かれるままに答えた。
前島も、大学時代のサークルの話や、アルバイト時代の失敗談などを話してくれ、表面上は打ち解けた様に見えた。
だが、その目の奥には僕の計り知れない何かがあるようで、恐怖感を拭い去る事は出来なかった。