続・手の内
-3-
何とか気を取り直し、僕はその日の仕事を終えた。
前島との間にあった事を社長に気付かれるのが嫌だったからだ。
帰っていいと社長に言われ、僕は身支度をすると彼の前に立った。
「申し訳ないですが、やはり僕は貴方の家へは行けません」
僕の言葉に社長は目を上げた。
だが、ただじっと僕を見上げ、何も言葉を発しようとはしない。
理由を聞かれるとばかり思っていた僕は、却って怖くなって脚が震え出すのが分かった。
だが、これは僕の最後の意地だった。
それに、今、離れなければ、きっと僕はこの人の手の中から一生抜け出す事は出来ないと、頭の何処かでちゃんと分かっていたのだ。
「あの…っ…、今まで通り、家から通います。そ…、それが駄目なら首にしてくれて構いません…」
大学の授業料を融資してくれると言われたが、実際にはまだ金を貰った訳ではなかった。今なら、僕が大学へ行くのを諦めればそれで済む事だった。
その目の威力に、また負けそうになり、僕が視線を逸らそうとした時、社長の口元に薄っすらと笑みが浮かんだ。
「前島か?」
「い…いえっ…」
慌てて否定したが、信じていない事は明らかだった。
いきなり立ち上がると、社長はクローゼットから上着を掴み出した。
「来い。待つのは止めだ」
腕を掴まれ、僕は驚いて彼を見上げた。
「今日から家に来い。準備など必要ない」
「い…」
僕は必死で腕を取り戻そうとして引っ張った。
「嫌です。僕は、行かない…。行きませんッ…」
だが、僕の力など彼には通用しなかった。
グイッと引かれ、僕はその腕の中に絡め取られてしまった。
「来いと言った。拒絶は許さん」
じっと僕の目を覗きこみ、その深い部分までを視線で犯しながら、榊英介は低く静かにそう告げた。
「ぅう……」
僅かに首を振ったが、もう抗えない事を悟っていた僕は、何も言い返せないまま、ただ目に涙を浮かべるしか出来なかった。
「帰る。車を回せ」
携帯電話でそう運転手に告げると、社長は強引に僕の腕を引っ張って部屋の外へ出した。
結局、僕は彼の車に乗せられ、マンションへと運ばれてしまった。
少し意外だったのは、社長がマンションに1人暮らしだったということだ。
さぞや、豪奢な家に住んでいるものだとばかり思っていた。だが、高級ではあるが連れて行かれたのは4LDKのマンションだった。
僕が怪訝そうな顔をしているのに気付いたのだろう。社長が説明してくれた。
「自宅は別にあって親父達が住んでいる。俺は不便なんで、会社から近いここを買ったんだ」
なるほど、ここは車で10分と掛らない距離だった。
身の回りの事は、通いの家政婦がいるらしい。まるで生活観が感じられないほどに、部屋の中は何処も磨かれたように綺麗だった。
「来い」
部屋の中を見回していた僕を、社長は直ぐに寝室へ引っ張って行った。
ドサリとベッドの上に突き飛ばされ、僕は身体を起こすと彼を見上げた。
「前島に何を言われたのか知らんが、気にするなと言った筈だ」
そんな事を言われても、気にしないなんて無理だった。
僕が黙って目を逸らすと、社長はフッと溜め息をついた。
「一体、何を言われた…?」
その時の悔しさが蘇って、僕は一瞬、ギュッと目を瞑った。
だが、こうなっては答えない訳にはいかない。僕は諦めて目を開けた。
「……ダッチワイフと…」
すると、一瞬の間の後でクスッと笑う声が聞こえた。
僕が顔を上げると社長は事も無げに言った。
「違うのか?」
耳を疑った。
まさか…。
まさか…、そんな答えが帰って来るとは思わなかった。
まさか、彼までも僕をそんな風に思っていたなんて……。
「酷い……」
言葉と涙は同時だった。
同時に溢れて、僕の中から零れていった。
だが、僕を見る社長の目は、その信じられない言葉を発した後だとは思えないほど落ち着いていた。
「何故だ?ダッチワイフで何が悪い?」
言いながら社長の指が僕の頬から涙を拭い取った。
「おまえは俺に抱かれている。それは事実だ。……その事を恥じているのか?」
「え…?」
「俺に抱かれることが恥ずかしいか?」
恥ずかしい……?
不思議な事に、振り返ってみても、僕はそんな自分を恥じてはいないと気がついた。
余りにも簡単に落ちてしまった自分が悔しいとは思ったが、彼に抱かれる自分を恥ずかしいとは思っていない。
じっと注がれた視線が、僕の心の奥から何かを溶かしていった。
そして、さっきの言葉が、僕に対しての蔑みから出たものでは無かったのだと、僕にはっきりと教えてくれたのだ。
「いいえ…。恥じてはいません」
「なら、何も気にする必要は無い。何を言われようと堂々としていろ」
「社長……」
僕がそう呼ぶと、社長は少し嫌な顔をした。
「家では社長と呼ぶな。興醒めだ」
そう言われて僕は戸惑った。
だったら何と呼べばいいのだろうか…。
だが、恐る恐る口を開いてその名前を呼んでみた。
「…英介さん…・・」
ちょっと首を傾げるようにすると、驚いた事に社長は悪く無いと言いた気な顔で肩を竦めた。
「ほら、さっさと脱いでしまえ。何の為にベッドの上に居るんだ」
「あ……」
気付くと、急に気恥ずかしくなって僕はカッと全身を火照らせた。
こんな風に、ちゃんとベッドの上で彼と抱き合うのは初めての事だったからだ。
そう。思えば彼の肌を見るのも、これが初めてだった。
仕事ばかりしているように思っていたが、ちゃんとジムにでも通っているのだろう。社長の身体は惚れ惚れするような均整の取れた美しい体型だった。
余りしてくれないキスを、今日は息苦しくなるほどに与えられ、僕はもうそれだけで体中を熱く火照らせた。
舌を撫でられただけで下半身が疼く。
自分が、誰かの所為でこんな感覚に陥るなんて、こんなにも濃密な熱い感情に揺さぶられるなんて、想像もしていなかった。
自分の中に、こんな自分が潜んでいた事を、僕は社長の所為で初めて知ったのだ。
「や……」
夢中になってしがみ付く僕の腕を、社長はその首から外させた。
「降りて、そこへ膝をつけ」
床を指差され、僕は従った。
その前に跪いた僕の顎に手を掛け、社長が見つめる。
何を命じられるのか、もう僕にも分かっていた。
「出来るか?」
そう訊かれて、僕は躊躇いも無く頷いた。
初めてだったし、夢中だった。
頭がぼうっとして、何をどうしたのか自分でも良く覚えていない。
ただ、嫌悪感は微塵も無かった。
そして、気付いた時には、奉仕しながら自分が床を汚していた。
「あ……」
その事実に愕然とし、余りの恥ずかしさで僕は思わず顔を覆ってしまった。
だが、社長はそれをからかったりする事も無く、僕の腕を引いた。
「こっちへ上がれ」
僕が再びベッドへ上がると、社長は脚を開くように命じた。
見られただけで、僕はまた股間を硬くし、そして促されるままに脚を抱えた。
クリームの付いた指がそこに届き、ゆっくりと侵入して来る。
それだけでまた、ざわざわと体中が騒いだ。
「は…ぁ…あっ……」
泣き出しそうになりながら首を上げると、さっきまで自分が奉仕していたものが、硬くそそり立って濡れているのが見えた。
「お願い……ッ」
思うより先に、僕は言った。
それが欲しいと、体中が求めていた。
「なんのことだ?」
だが、社長は意地悪くそう言って笑った。
「ここに……ください。…早く…」
もう羞恥心さえも無かった。
脚を開き、見上げると、社長がじっと僕を見下ろした。
「何故、欲しい?快感を得たいからか?」
訊かれて、僕は彼の鋭い視線を受け止めると、ゆっくりと首を振った。
「いいえ…。あなたが好きだからです…」
言いながら、彼の顔がぼやけていく。
やっと、僕にもすべてを受け入れる覚悟が出来ていた。
「あなたの事が好き。英介さん……、好きです…」
ふっと、社長の視線が緩んだ気がした。
「おまえは誰のものだ?」
躊躇いも無く、その答えが口を突いて出た。
「……あなたのものです」
ツッ…、と溢れた涙が目尻を伝い落ちて行った。
それを指で掬い取り、社長は唇に含んだ。
「俺のものである事が辛いか?」
静かにそう訊かれ、僕は両手を上げると彼の首に腕を回した。
「いいえ…。あなたのものでありたい……」
言った途端、また涙が溢れた。
もう、後戻り出来ない。
すべてを認め、僕は完全に彼に屈したのだ。
そんな僕をじっと見つめたまま、社長は僕の中にゆっくりと入って来た。
その快感に、唇から声を迸らせ、僕は大きく反り返った。
「由委…」
名前を呼ばれて目を上げると、僕は降りてきた唇を吐息と共に受けた。
「もう、おまえ以外は抱かん…」
「え…?」
意外な言葉に、僕は目を見開いた。
「だから、ずっと傍にいろよ」
「……はい」
返事をする声は涙と一緒だった。
“好きだ”でも、“愛している”でもない。
だが、それ以上の言葉だと僕には思えた。
決して貰えないと思っていた彼からの言葉を、僕はやっと聞く事が出来たのだ。
嬉しくて、また涙で彼の顔が滲んだ。
翌朝は起きるのが辛かった。
結局、空が白む頃、僕が気を失うようにして眠りに付いた時、僕はまだ社長の腕の中にいたのだ。
目覚めた時には、社長はベッドの中にいなかった。
起きて行くと、ダイニングのテーブルでコーヒーを飲みながら新聞に目を通していた。
「飯を食うなら、冷蔵庫の中にある」
新聞から目も上げずにそう言った彼の前には、食べ終えた朝食の食器が並んでいた。
前の日に家政婦が用意しておくのだろう、冷蔵庫の中にはサラダやサンドイッチなどが入っていた。
僕が戸惑っていると、やっと新聞から目を上げて社長が言った。
「先にシャワーを浴びて来い。予備のローブがバスルームにある筈だ」
「はい…」
初めて一緒に一晩を過ごし、昨夜の今朝で、気恥ずかしさが先に立っている僕に比べ、彼の態度は何時もとまったく変わらなかった。
僕がダイニングを出てバスルームに行こうとすると、その背中に声が掛かった。
「由委」
「はい…?」
「来週からおまえの仕事を増やす。そろそろ、時給に見合った仕事をしてもらうから、そのつもりでいろ」
「は…、はいっ…」
嬉しくて、思わず声が弾んだ。
彼に少しでも認められたい。それが僕の望みだったから。
「こっちに来い」
言われて、すぐに僕は彼の傍へ行った。
「ついて来られるな?」
「はい。どんなことがあっても…」
僕の答えに満足げに頷くと、社長はまた新聞に目を戻してしまった。
「飯はちゃんと食うことだな。これからキツイことになる。だが……」
また新聞から目を上げ、笑みの含んだ目で僕を見た。
「どんなに疲れていようと、俺の相手を休ませたりしないからな」
「はい…」
カッと頬を染めた僕を見てニヤリと笑うと、榊英介はまた新聞に目を戻してしまった。