手の内・3


社長、榊英介のマンションへ僕が正式に引っ越した日、持って行った荷物はボストンバッグひとつだけだった。
中身は殆どが教科書類で、衣類などは1枚も入っていなかった。
何故なら、身の回りの必要なものの殆どを、社長が用意してくれたからだ。
勿論、買いに行ったのは彼では無いが、下着類から靴下の果てまで、僕のサイズに合ったものを全部用意してくれた。
それらが詰まったクローゼットを見て、僕が息を呑んだのは言うまでも無い。
寝室は社長と一緒だったが、一応僕にも1部屋が与えられた。
ベッドは無かったが、そこには勉強用のデスクと本棚、ソファにテーブル、それから、ノート型のパソコンまで用意されていた。
何もかもが至れり尽くせりで、僕は喜びよりも戸惑いが先に立った。
こんなにまで大事にされる程、榊社長は一体、僕の何を気に入ってくれたのだろうか。
そもそも、僕を採用する時、ただ僕の顔を見ただけで、その能力ひとつ確かめはしなかった。
僕は、一目で人を魅了するような美貌の持ち主では無いし、例えば、榊社長のような人を惹き付けて止まない魅力を持っている訳でもない。
男にしては少々華奢で色も白い方かも知れないが、特別美形という訳でもないし、人から容姿を褒められた覚えもなかった。
だから、何故僕があの榊英介の目に止まったのか、僕自身が1番理解出来ていなかったのだ。
それを、あの前島豊は”何と無く、分かった”と言った。
僕の、あの時の“声”を聞いて……。
クローゼットの鏡に映った自分を、僕はマジマジと見つめた。
確かに僕は、自分でも知らなかった顔が自分の中にあることを知った。
シャツのボタンを外し、前を広げると、そこに映った自分の身体を見る。
所々、社長に吸われた赤い痕が艶かしく残っていた。
首筋…、鎖骨…、それから乳首の下……。
連日のセックスで、それは消える事はなく、ただ、新しいものと古いものが僕の肌の上で入れ替わっていくだけだった。
だが、その印を刻まれる事が嫌では無い。
他の誰にも肌を見せられはしないが、自分の体中に刻まれた社長のものである印を、僕は愛しく思えるほどだったのだ。
見る度、肌が、社長の愛撫の感覚を反芻する。
それを指で辿っている内に乳首が勃起した。
人に触れられる事など無かったそこが、どんなに敏感か、榊英介が僕に教えた。
人差し指と中指で緩く挟み、そっと擦ってみると、忽ちズクンッと股間に痺れが走る。
僕の中に潜んでいたもうひとつの顔は、自分でも呆れるほどに淫らだった。
それを、榊社長は見抜いたと言うのだろうか。
たった一目、僕を見ただけで……。
だったら、彼が僕を選んだ理由は……。
「やっぱり…、セックスだけ…?」
呟くと無性に怖くなった。
両腕で自分の身体を抱き、僕はギュッと力を込めて抱きしめた。
「おまえしか抱かん」
そう、社長は言ってくれた。
あの言葉を貰った時、僕は泣き出しそうになるほど嬉しかった。
他のすべてをかなぐり棄てて、その言葉に縋ってしまおうと思えるほどに、僕にとっては大切な言葉だった。
だが、その言葉は僕が思っているほど、社長にとっては重要では無いのかも知れない。
(もっと、もっと、自分を磨かなくては……)
顔を上げてもう一度鏡を見ると、僕はそう決意した。
榊英介の傍にいる事が相応しい男になりたい。もっと、必要とされる存在になりたい。
そうすれば、もう誰にも文句は言われなくなるだろう。セックスだけのダッチワイフだなどと、もう2度と言われたくなかった。
その為には、僕自身が努力する他は無いのだ。
僕を家に入れ、夜の時間に自由に抱けるようになった所為か、社長が社内で無理を言う事は無くなった。
それに、言った通り、僕の仕事を増やした所為で、今まで以上に時間が無くなったからでもあった。
今までの雑用の他に僕が言い渡された仕事は、それでもまだ前島などに言わせると雑用の域を出ていないのかも知れない。だが、纏めるように言われた資料の束を受取り、僕は意気込んでパソコンの前に座った。
「明日、1泊で出かける用が出来た。鍵を預けるから、独りで帰れ」
「あ、はい」
さっき秘書の1人が飛行機の予約が取れたと報告に来ていたので、社長が出掛けるらしいことは分かっていた。
誰もいないマンションに独りで帰るのは何と無く嫌だったが仕方がない。大体、そんな子供じみた事を社長に言える訳もなかった。

その夜、僕がマンションに来て初めて、社長は僕を抱かなかった。
「お預けだ」
「え……?」
「明後日、帰って来たらたっぷり抱いてやる」
それにどんな意図があるのか僕には分からなかったが、ニヤリと笑ってそう言うなり、社長はベッドの中で背を向けた。
所在無げに横になると、僕は目の前の広い背中を見つめた。
このまま抱きついて頬を押し付けたら怒るだろうか…。
僕と彼が普通の恋人同士では無いことぐらい、僕にだって分かっている。だから、そんな甘えた行為を、彼が許してくれるという自信が無かった。
そっと手を伸ばしてみたが、僕はその指が彼の背中に触れる前に、また引っ込めてしまった。



翌日、僕が目を覚ました時には社長の姿はもう無かった。
テーブルの上に、ポツンとこの部屋の鍵だけが載っていた。
それを手に取り、僕はホッと溜め息をつくと、それをまたテーブルの上に戻した。
学校を終え、出社した僕が社長室へ行くとデスクの上に僕へのメッセージがあった。
それは、社長からの僕への指示だった。
ざっと内容を見た感じでは、そう簡単に終わりそうもない。自分がいなくても、社長は僕を休ませるつもりは無いようだった。
だが、僕もその方がいい。
僕だって彼との関係に甘えているだけでは駄目だと分かっている。そうでなければきっと、僕は社長にすぐに棄てられてしまうような気がした。
「よし…」
自分に気合を入れるようにそう言い、僕は指示にもう1度目を通した。



夢中になって仕事をしていて、僕はもうかなり夜が更けている事に気付かなかった。
ドアをノックする音に顔を上げるとシンと静まり返った空気に気付き、壁に掛った時計を見上げた。
「11時…?」
その時間を見て些か驚き、僕は立ち上がってドアを開けた。
「あ…、前島さん…」
そこには、秘書の前島豊が立っていた。
「まだ仕事?多分、もう社内には誰も残っていないですよ」
少々眉を顰めてそう言われ、僕は思わず前の廊下を見回した。
「由委君、夕飯食べたの?」
彼も、もう帰るつもりらしく手には通勤用のバッグを持っていた。
「あ、そう言えば…。忘れてました」
腹が減っているのにも気付かなかった事が恥ずかしくて、僕は少々小声になって答えた。
すると、前島はプッと吹き出した。
「熱心だなぁ…。でも、身体に悪いですよ。ほら、これ…」
そう言って前島は紙袋を差し出した。
「え?」
「サンドイッチ。…僕達も今日は全員で残業だったから、近くのカフェから出前を取ったんですけど、量が多過ぎてね。1人分くらい余ったのでラップして冷蔵庫に入れてあったんです。良かったらどうぞ」
「あ…、すみません…」
前島は、僕と社長の関係に気付き、僕を”ダッチワイフ”と馬鹿にした相手だった。
だが、あの後も、僕に対して以前と変わらぬ態度で接してくる。
彼に対しての警戒を解いた訳ではなかったが、社長との関係について以外は特別気を遣う必要もないだろうと思っていた。
袋を受取ると、前島は秘書室の方を指差した。
「冷蔵庫に、アイスコーヒーとかアイスティーとか入ってる筈ですから、良かったらどうぞ。じゃあ、僕はこれで帰りますので…。お先に失礼」
「あ、お疲れ様でした。ありがとうございました」
僕が頭を下げると、前島は軽く手を上げて帰って行った。
ドアを閉めて部屋に戻った途端、現金なもので僕の腹はグーッと音を立てた。
苦笑してそれを抑えると、僕は袋を置いて秘書室に向かい、前島の言葉に甘えて冷蔵を開けると、中からアイスコーヒーの入ったジャグを取り出してコップに注いだ。
戻って来て袋を開けると、中にはラップに包まれたクラブハウスサンドが2つ入っていた。
有り難くそれを空っぽの胃に収めると、もう0時に近くなっていた。
社長のいない部屋に帰るのは何と無く寂しかったが、僕は仕方なく帰る準備を始めた。
独りぼっちが嫌だからと言って、今更実家に帰るのも躊躇われた。それに、あの社長の事だ。多分、僕が外泊した事はすぐにバレてしまうに違いない。

部屋を片付け、PCの電源を切ると、僕はバッグを持って部屋を出ようとした。
すると、何だか身体がおかしい事に気がついた。
頭が急に、ぐらぐらと揺れる。
「え……?」
息が上がる。
苦しくて胸を押さえると、足が萎えて、立っていられなくなった。
その場に膝を突き、僕は自分の身体が恐ろしいほどに熱くなっている事に気がついた。
「な……に…?」
ハァハァと、抑えようとしても息が荒くなる。
体中が熱くて堪らなかった。
その時、静かにドアが開いた。
入って来たのは、帰った筈の前島だった。