イヌ・2
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武道場での稽古が殆どだろうが、ランニングなどで日に焼けたのだろう、隆哉の顔は3日前に見た時よりも黒くなっていた。 そして、激しい稽古の所為で幾らか痩せたのか、精悍さが増したように見えた。
益々、男らしく逞しくなった隆哉が、夏樹にとっては眩しくて堪らなかった。
自分に無いものを全て持っている隆哉。
その顔に見惚れながら、夏樹はまた少し不安になった。
「ん?」
視線を感じたのか、隆哉は夏樹を見て首を傾げた。
「ううん…」
夏樹は目を逸らすと、アイスキャンディから流れ出した部分を、急いで舌を出して舐め取った。
「夏樹…」
回りを見回した後、隆哉が身体を寄せてきた。
「や……」
唇が押し付けられそうになり、夏樹は慌てて首を振った。
「平気だよ。誰も見てない」
「でも…」
「会いたかった…」
そう言われて、夏樹もすぐに隆哉の身体に腕を回した。
会いたかった……。
3日も我慢して、やっと会えたのだ。
夏樹だって、本当はすぐにでもこうしてキスして欲しかった。
「ふぅ…ん」
熱い身体。
汗の匂い。
男臭い隆哉の体臭に、夏樹はすぐにぼうっと頬を染めて酔ったようになると、そのまま彼にしがみ付いた。
アイスキャンディが溶けて、指を濡らす。
ボタボタと甘い汁が指を滑らせた。
とうとう、棒を持っている手が滑り、夏樹はそこにアイスを落としてしまった。
だが、そんな事はどうでも良かった。
夏樹は夢中になって隆哉のキスに酔いしれた。
パイナップルの味がする隆哉の舌は冷たかった。それを夢中で舐め、夏樹は彼の口の中に舌を差し入れた。
チュッと吸い上げられて目が眩む。
夏樹はもう、ここが学校だという事を忘れてしまっていた。
「やッ…」
唇を離されて、名残惜しさに夏樹は首を振ろうとした。
だが、やっとここが何処だか思い出し、ハッとして身体を離した。
「ごめん。アイス、落としちゃったの?」
すぐに気付いて、隆哉が言った。
「あ、うん…」
夏樹は頷くと、アイスの入っていたセロファンの袋に落としたアイスを拾って入れた。
すると隆哉は、溶けたアイスでベタベタになった夏樹の手を取り、その指を躊躇いもなく口に含んだ。
「リ、リキッ」
カーッと夏樹の頬が染まった。 だが、隆哉は気にする様子もなく、夏樹の指を綺麗に舐め取った。
見ると、隆哉のアイスも、無残にも溶け出してしまっていた。それを差し出しながら隆哉が言った。
「俺の食べる?」
「ううん、いい。リキが食べなよ」
隆哉は頷くと、溶け出した汁を舐め取り、カリッと先を噛んで口の中へ入れた。
そして、また夏樹の方へ差し出した。
「半分食べない?」
「あ、うん…。ありがと」
夏樹は頷くと、隆哉の食べ掛けのアイスキャンディを口の中に入れて噛んだ。
さっき本当のキスをしたばかりだと言うのに、こんな行為が何故か気恥ずかしい。夏樹はアイスを素早く噛み取ると、すぐに目を逸らした。
「来てくれて嬉しいよ。ありがとう」
「別に、わざわざ来た訳じゃないし、図書館まで来たから…」
照れ臭くて素直になれず、夏樹は少し不機嫌そうにそう言った。
「それに、なんか邪魔したみたいで悪かったし…」
「え?さっきの女子たちのこと言ってるのか?」
少々困った顔で、隆哉は言った。
「ああいうの、俺にとっては迷惑でしかないって、夏樹だって知ってるだろ?」
夏樹は答えなかった。
勿論、隆哉が異性に興味を持っていないことはちゃんと知っている。だが、心配なのは女の子の事ではない。
「吉岡さんのこと、あんなに間近で見たの初めてだった。やっぱ、スゲエ綺麗…」
そんな事を言うつもりはなかったのだが、心の何処かで吉岡に嫉妬しているのか、夏樹は思わず呟くようにして口にしてしまった。
「夏樹?」
名前を呼ばれてハッとして顔を上げると、夏樹は急いで首を振った。
「べ、別に変な意味じゃないからッ。た、ただ、ホントに綺麗だって、そう思っただけで」
隆哉は夏樹の言葉に対しては何も言わなかった。
「吉岡先輩と主将の市川先輩、付き合い始めたんだよ」
「え?そうなの?」
「うん。主将は私立の大学へ推薦で入れそうだったんだけど、それを止めて一緒の大学へ行くんだって。勿論、付き合ってることは俺以外の誰も知らないけどね」
「そう…」
夏樹が頷くと、隆哉はまた彼の肩を掴んだ。
「俺はホントに夏樹だけだよ。女子達が色々言ってるみたいだけど関係ない。吉岡先輩のことは綺麗だとは思うけど、それ以上の感情は何も無い。夏樹以外の誰にも興味なんか無い。ホントだよ?」
「リキ…」
嘘ではないと思う。 隆哉は、本当に自分だけを想っていてくれるのだ。
問題は、自分の心の中にだけあるのだ。不安なのは自分に自信が持てない所為なのだ。
「そ、そんな事訊いてないだろ?恥ずかしいこと言うなッ」
「あ、ごめん…」
照れたように笑い、隆哉は夏樹の肩を離した。
「俺が嫉妬してるみたいなこと言うなっ。そんなんじゃないんだからな。そう言っただろっ?」
吉岡に嫉妬したのだと隆哉に思われているのかと思うと、恥ずかしくて、そして惨めな気がした。
嫉妬するなどおこがましい。それほどの魅力など、自分にはない。隆哉もきっと、そう思っているのではないだろうか。
優しい隆哉がそんな風に考えたりしないことは分かっている。でも、夏樹の卑屈な心が、どうしてもそう思わせてしまうのだ。
「ごめん。そんなつもりじゃないよ。ただ俺は、夏樹に俺の気持ちを分かって欲しいから…」
困惑した隆哉の顔を見て夏樹は口篭った。
こんな事を言うつもりじゃなかった。
ただ、隆哉に会いたくて、少しでもいいから話をしたくて、それでやって来た筈なのに、何故自分は素直になれないのだろう。
謝ろうと、口を開き掛けた時、向こうで休憩終了を告げる声が聞こえた。
「あ、時間だ…」
名残惜しそうにそう言うと、隆哉は食べ終えたアイスキャンディのゴミと夏樹の溶けてしまった分を持って立ち上がった。
「来てくれて、ホントにありがとう。じゃ…」
「うん。残りも頑張れよ」
手を上げた隆哉に応え、夏樹も軽く手を上げてそう言った。
もう1度頷き、走って行く隆哉の後ろ姿を夏樹は暫くの間見送った。
また、わざと嫌われるような事を言ってしまったと後悔した。
自分が隆哉の事を信じさえすればいい事なのに、それが出来ない。そして、どんどん自分が嫌な人間になっていくような気がして、夏樹は堪らなかった。
出掛ける時とは裏腹に、夏樹は落ち込んだまま家に帰ると、真っ直ぐ部屋に入った。
父も母も仕事で多忙なので、家には誰も居ない。
締め切ってあった窓を一旦全部開けて風を通した後、夏樹はエアコンのスイッチを入れてまた窓を閉めた。そして、ベッドに横になると天井を見上げた。
隆哉は夏樹が何を言っても怒ったりしない。 だが、心の中では呆れているのかも知れないと思った。
急に悲しくなり、夏樹は溜息をつくと目を閉じた。
すると、さっきのキスを思い出して少し身体が熱くなった。
溶けたアイスでべとついた指を舐める、隆哉の舌の感触が蘇る。
ドキドキして、夏樹は寝返りを打ちながら、ギュッと枕を抱き締めた。
このベッドで、いつも自分は隆哉に抱かれている。
1人で寝ていても、夏樹は不意にその事を思い出してしまうのだ。
「リキ……」
枕に顔を押し付けたまま、夏樹はくぐもった声で隆哉を呼んだ。
後4日も隆哉に会えないのかと思うと、さっき顔を見て来たばかりだと言うのに寂しくて堪らなかった。
「夏樹だけだ」
と、隆哉は何度でも言ってくれる。
言われる度に少しだけ安心し、そしてすぐにまた不安になった。
「可愛い」
と、何度も何度も口にする。
だが、自分がちっとも可愛く無いことは、夏樹自身が1番良く知っているのだ。
「嘘つき…。俺の何処が可愛いんだよ?」
今日間近で見た吉岡の顔をまた思い出し、夏樹は泣きたくなってギュッと枕を顔に押し当てた。
だが、涙を堪えると起き上がって枕を離した。
ベッドから下り、クローゼットを開けると、扉の裏にある鏡で自分を映した。
何度見たって変わらない。
チビで痩せっぽっちで、見っとも無い何時もの自分だった。
顔は変えられないから仕方ない。急に吉岡のように綺麗になれる訳はない。
背だって、急に大きくなるのは無理だ。
だが、せめてこのゴワゴワした硬い髪だけは何とかならないものだろうか。
サラサラと指から零れ落ちて光に透けるような、そんな髪になれたらいいのに。
夏樹はハーッと溜息をつくと、バタンとクローゼットを閉じた。
リモコンを取ってエアコンを切り、バッグを掴んで部屋を出る。そして、帰って来たばかりだと言うのに、また玄関に鍵を掛けて外へ出て行った。
父と母は今日も残業らしい。
夏樹は、冷蔵庫にあった素麺とツユを出して夕食を済ませた。
居間に独りぼっちでいるのは嫌だったので、自分の部屋に上がりぼんやりとテレビを見ていた。
もう少しすると、隆哉からメールが来る筈だった。
机の上に携帯電話を置き、夏樹はそれを待っていた。
だが、いつもの時間になっても携帯は鳴らなかった。
今日は、昼間会ったからいいと思ってメールをくれないのだろうか。だがいつも、毎日学校で会っていても夜は必ずメールか電話をくれていたのだ。
今夜は独りになれる機会が無くて、メールを打てないのかも知れない。合宿だと、他の部員の目もあるだろうし、難しいのだろう。
それとも、と夏樹は思った。
今日学校で、隆哉が行ってしまった後、立ち上がろうとした所に彼の取り巻きの女子達が現れ、夏樹は思わず身を隠して蹲った。
そこで、夏樹は聞きたくも無い話を聞いてしまったのだ。
「あーあ、昼休み、終わっちゃったねえ」
「うん。折角差し入れ渡そうと思って来たのになぁ」
残念そうに2人が言うのに、他の1人が口惜しげに言うのが聞こえた。
「またあの、石橋夏樹だよ。ホント、邪魔、アイツ」
自分の名前が聞こえて、夏樹はドキンとした。
彼女らが自分を良く思っていないことは、身を持って知っている。だが、こうやって話題に上るのを直接聞くのは心臓に悪かった。
「ほんとにもう、なんで隆哉君、あんなチンチクリンとつるんでるんだろ?なんかアイツに弱みでも握られてんのかなぁ」
「ボランティアだよ、ボランティア」
「えー?」
「隆哉君、優しいからさぁ。余りにも自分とかけ離れて不出来な石橋が不憫で仕方ないんじゃないー?可哀想で、思わず世話を焼いちゃってんだよ。つまりさ、介護だよ、介護」
「そうかぁー、なるほどねぇ」
その後で、彼女達は一斉に笑うと、そこから立ち去って行った。
夏樹は暫くの間、そこにじっと蹲っていたが、やがてのろのろと立ち上がり歩き出した。
帰り際、剣道部が稽古を始めた武道場をチラリと覗いたが、一生懸命竹刀を振るっていた隆哉は此方に気付くことはなかった。
「ボランティアか…」
ポツリと呟き、夏樹はテーブルの上の携帯電話を取ると、それを開いて待ち受け画面を見た。
画面には勿論、着信の表示は出ていなかった。
やはり今夜、隆哉はメールをくれないつもりらしい。
ホッと悲しげに息を吐き、夏樹はテーブルの上に頬を乗せた。
「もう、エッチするの嫌だって言ったら、棄てられちゃうかなぁ…」
呟いて目を瞑った時、玄関からチャイムの音が聞こえた。