イヌ


-7-

電話の音が遠くで聞こえ、夏樹は目を覚ました。
階下でずっと電話が鳴っているようだ。
だが、やがて留守番電話に切り替わった。
ガンガンと頭の中で何かが鳴っているようだった。体中が痛み、ぐったりと重い。そして、喉がカラカラだった。
重い身体を何とか起こし、ベッドから足を下ろしたが力が入らなかった。だが、ベッドの支柱に掴まって漸く立ち上がった。
壁伝いにノロノロと階段を下り、トイレまで行った。
用を足して出て来ると、居間に入って留守電のテープを聞く。 そこに入っていたメッセージは母親からのものだった。
行った先でいい温泉があったので今夜は泊まるという。そして、携帯にも電話したが出なかったので、念の為家電にも電話したこと、こんな時間まで何処で遊んでいるのかと少し怒った口調で付け加えた。
時計を見ると7時半を回っていた。
夏樹は、今にも萎えて崩れ落ちそうな脚を励まし、キッチンへ入ると冷蔵庫を開けて飲み物を取り出した。
それを一気に飲み干し、また部屋へ戻ろうとした。だが、階段の途中で蹲ってしまった。
もう、どうでもいいと思った。このまま、ここで寝てしまおう。身体が重くて動かすのが億劫だった。
夏樹は腕の上に頭を乗せて目を閉じた。


うとうとと眠りに落ちかけた時だった。
「夏樹ッ」
玄関が開いて、誰かが叫ぶ声がした。
重い頭を起こして見ると、顔色を変えて隆哉が駆け寄って来た。
「リキ…?」
「こんな所で何やってんだよッ?」
抱き起こされて、夏樹は隆哉の服に掴まった。
「リキ……、なんで?」
「さっき、何回電話しても誰も出ないから、おばさんたち、まだ帰って来ないのかと思って…。それより、何でこんなトコに居るんだよ?」
「トイレに起きたら、途中で疲れちゃって…」
「熱、全然下がってないじゃないか。薬も飲んでないのか?」
「うん…」
「おばさんたちは?」
「今夜は泊まるって…」
それを聞いて、隆哉は溜め息をついた。
「来て良かったよ。まったく、大丈夫だなんて、意地ばっかり張って…」
呆れたようにそう言うと、隆哉は夏樹の身体を抱き上げた。
そのまま部屋まで運び、ベッドの上に下ろすと、勝手にクローゼットを開けて下着とパジャマを出した。
「着替えた方がいい。汗で湿ってるから」
「うん…」
返事をしたが体を動かすのが億劫で、夏樹は着替えを受け取ったまま、ぐったりとベッドの支柱に凭れていた。
それを見て、隆哉が夏樹のパジャマのボタンに手を掛けた。
「いいよ。自分で…」
「いいから。早く着替えないと身体が冷える」
隆哉は遮ろうとした夏樹に構わず、彼のパジャマを脱がせた。
「ごめん。リキ…」
「なに謝ってんだよ。具合が悪いんだから仕方ないだろ?」
「でも俺…、我侭ばっかり言って……」
それなのに、隆哉は自分を見捨てずに心配してこうして来てくれた。
何処までも優しい隆哉。
こんな彼に、本当の意味で好きになってもらえたら、どんなに嬉しいだろうか。
「我侭は平気だけど…」
夏樹のパジャマを着せ終えて隆哉は言った。
「この頃、夏樹の様子が変だから気になってたんだ。やっぱり、俺が告ったの、嫌だったんじゃないかと思って…」
黙ったまま俯く夏樹を、隆哉は布団の中に入れた。
「無理させてたんだとしたら、悪かったよ。俺のことを気遣ってくれたんだろうけど、嫌ならそう言ってくれていいんだ。前の通り、ただの友達でもいいよ。もともと無理なのは分かってたし、告るつもりも無かったんだ。俺は、夏樹の傍にさえ居られるなら、それだけでいいんだ……」
やはり、本当は、自分のことなど最初から好きではなかったのだ、と夏樹は思った。
ただの友達。それが、隆哉の本音なのだろう。
だけど自分は、もうこんなにも好きになってしまった。それを隆哉に告げることは決して無いにしても。
「それに、俺の所為で夏樹がまた嫌がらせを受けたりしたらと思うと怖くなった。守ってやりたいけど、いつも俺の目が届くわけじゃないし…」
言いながら、隆哉の手が夏樹の布団を直した。
「今度みたいに、俺の知らない内に夏樹が酷い目に合ったらと思うと……」
夏樹は答えなかった。
罪悪感だろうかと思う。隆哉はまさか夏樹がこれほどの目に合わされるとは思っていなかったのだろう。
だが、理由は何にしろ、隆哉が決めた事に自分は従うしかない。
以前のように、ただの友達に戻ろうと言われるなら、そうする。
もう、傍に来るなと言われるなら、そうする。
どうせ、自分が望むような関係には決してなれないのだから。
「いいよ。俺は嫌がらせされるのなんか平気だし、リキに守ってもらおうとも思ってない。だから、リキの好きなようにすればいいよ。俺は、どっちでもいい」
最後の意地を張って、夏樹はそう言った。
「そっか……」
寂しそうに笑って隆哉は答えると、夏樹の頭を支えて下から氷枕を引き出した。
「取り替えてくるな?それから、なんか食べられそうなもの、買ってくるから」
「……ありがと」
小さな声でそう言った夏樹にまた頷いて見せると、隆哉は部屋を出て行った。
ホッと溜め息をついて夏樹は目を瞑った。
これで終わったのだ。
後は自分が、隆哉のことを諦めれば済むことだ。
それが、どんなに難しいことでも、これ以上自分が惨めになる前に諦めてしまわなければならない。
これ以上、自分を嫌いになる前に全部忘れてしまおう。女みたいに、鏡を見る度に溜め息をつくのなんかもう嫌だ。
もっと見た目が良かったらとか、もっと非凡な人間だったらとか、劣等感ばかりが膨らんでいくのが堪らないのだ。
チビなことは気にしていたが、隆哉を好きになる前は容姿のことなど考えたことも無かった。それなのに今日、ウィンドーに映る自分と、隆哉の余りに不釣合いな姿に泣き出しそうになっていた。
吉岡みたいに綺麗だったらと、そんなことばかりを考えている自分が情けなくて堪らない。
「でも……、友達でもいいよ。傍に居たい……」
それが本音だった。
だがそれは、決して、隆哉の前では言えない言葉でもあった。


間も無く、氷枕を持って隆哉が戻って来た。
「今日は俺、ここに泊まるから」
「え…?」
「こんな状態の夏樹を置いて帰れないよ。家には今、電話したから」
「ごめん…」
謝ると隆哉は笑った。
「だから、いいって。じゃ、俺、今からなんか買ってくる。自分の晩飯も必要だし」
「後で全部払うから言ってくれよな?」
「いいよ、そんなの」
「駄目だよ。ちゃんと、親に言って払ってもらうから、レシートくれよ?」
「うん、分かった。じゃあ、行ってくるな」
「うん…」
本当は何も要らないから傍に居て欲しかった。
もしかしたら、近くに居てもらえるのは今日が最後かも知れない。だったら、少しでも長く、夏樹は隆哉の傍に居たかった。
隆哉が帰って来るまでの間、熱の所為で意識が途切れそうになる度、夏樹はハッとして目覚めることを繰り返した。
眠ってしまうのが怖いような気がする。
自分が眠っている間、隆哉を傍に感じていられる時間が減るのが怖い。
身体が睡眠を要求しているのは分かっている、だが、夏樹は眠りたくなかった。



「ただいま」
階段に隆哉の足音が聞こえ、彼が顔を出すまで夏樹はじっとドアを見つめていた。
「おかえり…」
顔を見てホッとすると、夏樹は小さな声でそう言って目を逸らした。
「レトルトのおかゆがあったから買ってきた。コンビニで温めてもらったから食べなよ」
「うん…」
「俺も、一緒にここで食べてもいいだろ?」
「うん、勿論」
夏樹は起き上がると隆哉からおかゆの容器を受け取った。
隆哉も自分用のサンドイッチやおにぎりを袋から出してテーブルの上に置いた。
食べている間、二人は口を利かなかった。
夏樹は3分の1ほどをやっと食べ、それからアイソトニック飲料の半分ほどを飲み、解熱剤と風邪薬を飲んで横になった。
隆哉は食べ終わると、夏樹に聞いて納戸から客布団を運び、テーブルを片付けてベッドの下に布団を敷いた。
「風呂、借りていい?」
「うん。あ、パジャマ…」
言いかけて夏樹は苦笑した。
「俺のじゃ、着られる訳ないよな」
すると隆哉も困ったように笑った。
「いいよ。このまま寝るし…。じゃ、風呂借りるね」
「うん」
隆哉が出て行ってしまうと夏樹はヨロヨロと起き上がって、クローゼットの中を物色した。
確か、従兄弟がアメリカ土産に買ってきた馬鹿でかいTシャツと短パンがあった筈だった。貰ったはいいが夏樹にはどうしようもなくて、何処かに仕舞い込んでいた。
「あった…」
パジャマ代わりに着てもらおうと、それを探し出して夏樹は隆哉が寝る布団の上に置いた。
2人で一緒に一晩を過ごすのは初めてだった。
別段、何も起こる訳はなかったが、それでもそこに敷かれた布団に隆哉が横になるのかと思うと鼓動が早くなる。こんな状態で、今夜、とても自分が眠れるとは思えなかった。
それでも嬉しい。これが最初で最後でも、隆哉の隣で一晩を過ごせることが嬉しいと思った。
「リキ…」
隆哉が使う枕に顔を埋め、夏樹は深く息を吸い込んだ。
勿論、まだ使っていない枕から隆哉の匂いはしない。それでも、それを感じたような気がして熱のある身体が一層熱くなった。
重い頭を起こして顔を上げると、枕元に隆哉の携帯電話が置いてあった。夏樹は手を伸ばして、躊躇いがちにそれを開いた。
待ち受け画面は携帯電話にサービスで付いている画像のままだった。
だが、アルバムを開いて見ると、そこに吉岡の写真があった。
それも、1枚だけではない。色々な表情の吉岡が、そこには沢山写っていた。
「こんなにいっぱい……」
急に可笑しくなって、夏樹は笑い出した。
「酷いよ、リキ…」
心配してくれるのも、優しくしてくれるのも、ただの罪悪感だけなのだと知った。
これでもう、隆哉が自分を好きなのかも知れないという淡い期待は、夏樹の中で粉々に砕けてしまった。
「酷いよ、リキ…」
もう1度、震える声で呟くと、夏樹は隆哉の携帯電話を閉じた。
戻って来た隆哉は枕の上に乗せられた着替えを見つけて、驚いてベッドの中の夏樹を見た。
「それ、前にお土産に貰ったんだけど、俺にはでっかくて…。リキにやるからパジャマに着ろよ」
「いいのか?ありがと」
そう言うと、隆哉は着ていたジーンズとTシャツを脱いで着替えた。
夏樹にはどうしようもないほど大きかった服も、隆哉には丁度のサイズだった。
また、自分と彼の差を感じ夏樹は悲しくなった。
「ぴったりだな。似合うよ」
それでもそう言って笑って見せると、隆哉も嬉しそうな顔をした。


夏樹の氷枕を取り替えてくれた後、布団の中で持って来ていた本を読んでいた隆哉だったが、やがて明かりを消すと、まもなく静かに寝息を立て始めた。
だが、夏樹の方はやはり眠れなかった。
背中を向けてずっと寝た振りをしていたが、寝返りを打つと眠る隆哉の方を向いた。
じっと、闇の中で目を凝らし、隆哉のシルエットを見つめる。本当は、手を伸ばして触れたかったが怖くて出来なかった。
「リキ…」
殆ど聞き取れないほど小さな声で、夏樹はそっと隆哉を呼んだ。
勿論、答えてくれるのを期待していた訳ではない。相手が眠っているのを承知した上で、それでも呼んでみたかったのだ。
「リキ、大好きだよ。……ホントは大好き…」
言いながら、夏樹の頬を涙が伝った。
「嘘でも、俺のこと好きって言ってくれて嬉しかったよ。……ホントは、もう1回だけでいいから、キスして欲しい…ッ」
嗚咽が込み上げそうになり、夏樹は両手で目を覆った。