イヌ
-6-
隣でガタガタと震えられては、隆哉だって気付かない訳がなかった。
「夏樹ッ?」
慌てて夏樹の額に手を当てその熱を確かめると、隆哉は驚いて夏樹の耳元に口を寄せた。
「熱があるんじゃないか?なんで黙ってるんだよッ」
「へ、平気だよ。大丈夫だって……」
「何言ってるんだ?大丈夫な訳ないだろ?すぐに出よう。帰って寝ないと」
「嫌だ…ッ」
首を振った夏樹を見て隆哉は眉を顰めた。
「夏樹…?」
「……最後まで見る。帰らない…」
「馬鹿言うなッ」
腹立たしげにそう言うと、隆哉は立ち上がって夏樹の手を取った。
グイッと力強く引っ張られ、夏樹は思わず立ち上がった。
周りの迷惑そうな声にも動じず、隆哉は強引に夏樹を席から通路へと引っ張って行った。
ドアを開けて外へ出ると、夏樹は隆哉を睨み付けた。
「帰らないって言ってるだろッ?」
すると、さすがの隆哉も声を荒げて言った。
「どうしてだよっ?そんな青い顔して、ブルブル震えてる癖にッ。かなり熱が上がってきてるに決まってる。なんで大丈夫だなんて、嘘ついたんだ?」
答えずにただ自分を睨む夏樹に、隆哉は大きく息を吐いてから言葉を続けた。
「大体、家を出る時から分かってたんだろ?具合が悪いなら、何も無理して今日来なくたって良かったんだ」
腹立たしげにそう言われ、夏樹は不本意にも泣きそうな顔をしてしまった。
(きっと、嫌われた…)
そう思ったからだった。
嫌われる為に我侭を言い続けてきたのに、いざ本当に嫌われたのかと思うと、酷く悲しかった。
「分かった…。帰る…ッ」
そう言い棄てるなり、夏樹は隆哉を残して歩き出した。
「な、夏樹ッ…」
慌てて後を追って来た隆哉を見ようともせず、夏樹はどんどん歩き続けた。だが、熱のある身体で早足で歩くのは所詮無理だった。
すぐに身体がふらついて、夏樹は映画館の壁に捕まって額を預けた。
「大丈夫か?夏樹」
肩を捕まれて振り解こうとしたが、隆哉が抱き抱える方が早かった。
首筋に片手を当てて、隆哉は夏樹の頭を自分の胸へ押し付けた。
「すげえ熱…」
驚いて思わず呟き、隆哉は夏樹の身体を支えるようにして歩き出した。
「タクシーで帰ろう。通りで拾えるといいけど…」
もう振り解く気力も無く、夏樹は隆哉に支えられたまま映画館の外まで出た。
すると、そこで黄色い声と出合った。
「隆哉君じゃないー?」
「ほんとだぁー」
ハッとして、夏樹はすぐに隆哉から離れた。
すると、昨日夏樹に水を掛けた女子の内の3人が、嬉しそうに隆哉に近づいて来た。
「なにー?映画?隆哉君」
「あ、うん…、まあ」
いつもの如く困惑した顔で曖昧に隆哉は頷いた。
「私達も、これ見に来たんだよ。ね?一緒に見よう?」
「あ、いや、俺は…」
そこに居る事を分かっている癖に、女子達は完全に夏樹を無視していた。腹が立ったが、今の夏樹には怒る気力も無かった。
困った顔で自分を見た隆哉からフイッと視線を外し、夏樹はボソッと呟いた。
「帰る……」
「えっ?おい、待てよ、夏樹ッ」
慌てた隆哉に女子達が絡みついた。
「いいじゃん、帰るって言ってるんだから、ほっときなよー」
「そうだよ。私達と映画見よう?ね?」
「よせよっ、夏樹は熱が有るんだ」
女子達を振り払って、隆哉は少し強い口調で言った。
すると、怯むかと思った彼女らの一人が夏樹を横目で見ながら言った。
「仮病じゃないの?隆哉君の気を惹こうとしてさぁー」
「そうそ。凝りないんだから……」
その言葉に、隆哉は驚いて彼女達を見た。
「まさか…、夏樹に何かしたのか?」
そう訊かれて一瞬黙ったが、すぐに一人がしらばくれて首を振った。
「知らなーい。私達は別になんにも…」
次々に首を振る彼女らを睨み付けると、隆哉は黙ったままそこを離れて夏樹の後を追った。
「夏樹ッ…」
「触んな……」
振り払おうと上げた夏樹の手を捕まえ、隆哉はもう一方の腕をその身体に回した。
「やだッ。触んなよっ。一人で帰る…ッ」
「こんなにフラフラしてる癖にッ。強情張るのもいい加減にしろよっ」
怒鳴りつけられて、夏樹は黙った。
夏樹が抵抗するのを止めると、隆哉は黙ったままその身体を抱えて歩き出した。
チラリと見上げると、隆哉が怒りを必死で抑えようとしているのが分かった。夏樹は泣き出しそうになるのを堪えて唇を噛んだ。
とうとう、本当に怒らせてしまった。きっともう、完全に呆れているだろう。
これで明日からは、もう自分とは口も利かなくなるかも知れない。
気付くと寒気はもう通り越していた。 そして、熱が上がった証拠に、頭がぼうっとして来た。
夏樹の身体がぐったりしたのに気付いたのか、隆哉は立ち止まって顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「平気……」
まだ虚勢を張って夏樹は答えたが、もう隆哉は少しも信じてはいないようだった。
「さっきより熱い…」
夏樹の額に手を当てて、隆哉はそう呟いた。
「あ、タクシーだ」
ホッとしたようにそう言って、通りを走ってきたタクシーに合図して停めると、隆哉は夏樹を助けて車に乗り込んだ。
並んで座り運転手に行き先を告げると、隆哉はまた夏樹の顔を覗き込んで額に手を当てた。
「夏樹、あの女の子達に何かされたんだろ?」
心配そうにそう訊いてきた隆哉に、夏樹は弱々しく首を振った。
「別に…。何もされてない」
「嘘つくな。本当の事言えよ」
ギュッと膝の上に置いた手を握られて、夏樹はビクッとして隆哉を見上げた。
本気で心配してくれている事はその表情を見れば分かった。
まだ嫌われていなかったのだ。そう思うと、素直に嬉しいと感じた。
「水……」
「え?」
「水、掛けられた…。ちょっと来いって言われて、校舎裏に行ったら、7~8人が待ってて、皆でペットボトルから俺に水を……」
悔しさが蘇り、夏樹は言葉を切って俯いた。
「そんな、なんて酷い事を…ッ」
隆哉の声には明らかに怒りが篭っていた。
「じゃあ、その所為で熱が出たんじゃないのか?」
「うん。多分…」
頷くと、手を掴んだままだった隆哉の手に更に力が篭った。
「夏樹…。何で言わなかったんだ?」
「だって…、女にやられたなんて、カッコ悪い……」
泣きそうな声で、夏樹は答えた。
これ以上、隆哉と差をつけられたくない。カッコ悪い自分を知られたくない。
それなのに、結局はこうして全部見られてしまった。
「夏樹……」
隆哉はそれきり何も言わなかった。 きっと彼も、夏樹の事を不甲斐無いと思ったのだろう。
呆れてしまったに違いないと夏樹は思った。
タクシーが家につく頃には、夏樹はもう一人で歩けないほど高熱を出していた。
隆哉に支えられて家の中へ入り、最後は負ぶってもらって部屋まで行った。
夏樹をパジャマに着替えさせてベッドに入れると、隆哉はすぐに部屋を出て行った。
熱の所為で、すぐにうつらうつら眠ってしまった夏樹だったが、額に冷たい物があたって目を開けた。
「冷却シート…。この前の救急箱にあったから、摂り合えず。あと、すぐに氷枕も作ってくるから」
「……りがと」
殆ど聞き取れないほどの小さな声で夏樹が礼を言うと、隆哉は微笑んで頷いた。
「おじさんと、おばさん、今日は遅くなるのか?」
「分かんね…。遅くなる時は電話するって言ってたけど……」
「そうか…」
隆哉は、夏樹に氷枕の仕舞い場所を聞くと部屋を出て行った。
頭の下に氷枕を入れてもらうと、その冷たさで少し呼吸が楽になったような気がした。
コンビニまで行って来てくれたらしく、隆哉はその他にもアイソトニック飲料やフルーツゼリーなどを運んで来てくれた。
「薬飲むのに、無理してもちょっと食った方がいい。昼も何にも食わなかったし」
「うん…」
夏樹が起き上がろうとすると、隆哉がそれを抑えた。
「いいよ、寝てて。俺が食わしてやるから」
ゼリーのカップの蓋を開け、隆哉は一口掬うと慎重にそれを夏樹の口まで運んだ。
つるん、と口の中に滑り込んだそれは冷たくて心地良かった。すぐに溶けて、夏樹は飲み込んだ。
「旨い?」
訊かれて夏樹が頷くと、隆哉はまたスプーンをゼリーの中へ入れた。
人に何かを食べさせてもらった事など、子供の時以来だったろう。気恥ずかしかったが、隆哉の優しさが嬉しかった。
本当に、隆哉はいつでも自分に優しかった。
だからこそ、すっかり錯覚してしまったのだ。
隆哉の言葉を真に受けてしまったのだ。
そう思うと、また涙が出た。
ツッ、と夏樹の目尻を伝う涙を見て、隆哉は驚いて出したスプーンを引っ込めた。
「夏樹?どうした?」
「リキ、もう帰っていいよ」
「何言ってんだよ。おばさんたちが帰って来るまで居るよ。夏樹を置いて帰れる訳無いだろ?」
「風邪引いたのも、熱が出たのも俺が悪いんだ。リキが付き合うことなんか無いよ。これだけ面倒見てもらったら、もう大丈夫だから…」
傍に居て優しくされるのが、嬉しいよりも辛いと気付いた。
そして、幾ら嫌われようとして我侭を言っても、自分の胸が痛むだけだと分かった。
「そんなこと無いよ。夏樹は悪くない。俺がもっと気をつけてやれれば良かったんだ。それなのに、夏樹を酷い目に合わせた。……ごめんな?」
隆哉の手が躊躇いがちに夏樹の髪を撫でた。
(こんなのやだ。もう、やだよ……)
目を閉じた途端、また夏樹の頬を溢れた涙が伝った。
辛くて、辛くて、堪らない。
それは、自分が隆哉を好きだからなのだと気付いた。隆哉の方は方便でも、自分の方はいつの間にか本気で彼を好きになっていたのだ。
「夏樹?どうして泣くんだ?なあ……」
困惑した口調で言いながら、隆哉は尚も夏樹の髪を撫でる。
ごわごわした硬い髪は撫でてもきっと気持ち悪いだけだろう。そう思うと、余計に悲しくて夏樹は布団の端を掴むと額の上まで引き上げた。
「夏樹?」
「もう、帰れよッ。帰れ…」
「夏樹…」
「もういいよ。寝てれば治るから。帰れよ」
カタリ、と何かテーブルの上に置かれる音がした。
「分かった。じゃあ、お大事に……」
隆哉の低い声がして、彼が立ち上がって部屋を出て行く気配がした。
夏樹は、そのまま布団の中で泣き続けた。
熱の所為だけでなく泣いていることも加わって、目から頭にかけてがぼうっとする。
涙を止めることも出来ないまま、夏樹はいつしか眠りに落ちていた。