イヌ
-5-
コンビニまで走って行ってきたのか、帰って来た隆哉は息を切らしていた。
「ほら、たらスパ。暖めてもらったからすぐに食べなよ」
「うん…」
「あと、おにぎりとかも買ってきたし…」
言いながら、隆哉はテーブルの上に、おにぎりや飲み物のペットボトルを置いた。
「頂きます」
容器のセロファンを剥がし、蓋を開けると、夏樹はフォークでパスタを巻き取って口に運んだ。
隆哉は飲み物のペットボトルをひとつ取ると蓋を開けてそれを飲んだ。
見ると、彼の額やこめかみが汗で濡れて光っていた。
自分の為に、隆哉はよほど急いでコンビニまで往復してくれたのだ。これが、自分への好意からしてくれている事だったら、どんなに嬉しいだろうと夏樹は思った。
「リキ…」
「うん?旨くない?」
訊かれて夏樹は首を振った。
「いや、結構旨いよ。…あのさ、明日の朝、迎えに来てくれよ。学校まで、リキと一緒に行きたい」
「え…?」
一瞬戸惑った顔をしたが、隆哉はすぐに笑顔になった。
「うん、いいよ。じゃあ、迎えに来るから一緒に行こう」
「毎日、迎えに来てくれる?」
「いいけど…。急にどうしたんだ?何かあったの?」
「何かないと、来てくれないのか?」
少し不機嫌そうに夏樹が言うと、隆哉は苦笑して言った。
「いや、そんなことないよ。じゃあ、明日から、朝はここに寄っていくから」
「うん…」
隆哉の家から学校まで行くのに、夏樹の家に寄るのはかなりの遠回りになる。それを知っていて、夏樹はわざとそう言った。
「それから、明後日の土曜日、どっか遊びに行こう?」
「あ…、でも、午前中は部活があるんだ」
「いいよ。じゃあ、午後から遊ぼう?迎えに来てくれよ」
「あの…、夏樹?ほんとに何かあったんじゃないのか?」
「別に……」
「そう?……でも、何だか変だよ」
夏樹は隆哉から目を逸らすと、パスタの容器に視線を移した。
グルグルと勢い良くパスタを巻き取りながら、また不機嫌そうな声で言った。
「俺と遊ぶの嫌なんだ?休みの日まで、俺に会いたくないってこと?」
「えっ?ち、違うよッ。そんな訳無いだろ?」
夏樹は答えなかった。苛々とした様子でパスタを巻き取り、乱暴に口に運ぶ。
「夏樹、本当にどうしたんだ?誰かに何か言われたのか?」
夏樹は黙って首を振り、またパスタを巻き取った。
「ほんと?」
疑わしそうにそう言った隆哉に、夏樹はやっと視線を戻した。
「ほんとだよ。誰にも、何にも言われて無い。俺は、リキと遊びに行きたいって思っただけ。でも、リキが嫌なら別にいいよ」
不覚にも、また泣きそうになり、夏樹は隆哉の顔から急いで視線を外した。
「嫌な訳ないよ。嬉しいよ。夏樹の方から誘ってくれるなんて、思ってもみなかったから、ほんとに嬉しい」
それは、嬉しそうだと言うより、まるで宥めるような口調だと夏樹は思った。
「土曜日、部活が終わったら真っ直ぐ来るから。ここで着替えていいだろ?」
夏樹は黙って頷くと、あと一巻きになったパスタをフォークに絡め取った。
翌朝、隆哉は本当に夏樹を迎えに家まで来てくれた。
一緒に学校まで行き、夏樹はその後も、事ある毎に隆哉に我侭を言った。
だが、そのどれにも隆哉は笑って応えてくれる。
夏樹の心の中に罪悪感がどんどん膨れ上がっていった。
「今日はちゃんと待ってるから、一緒に帰ろ?」
部活に行く為に教室を出ようとした隆哉を呼び止めて夏樹が言うと、隆哉は初めて困った顔を見せた。
「ごめん。今日は約束があるんだ」
「へえ…?」
言いながら、夏樹の口元が嫌な形に歪んだ。
「デート?」
「ま、まさかッ。そんな訳ないだろ?」
慌てた隆哉から、夏樹はツイッと視線を外した。
頭の中に、吉岡の綺麗な顔が浮かんだ。
「なんで?リキってモテるしさ。男相手だってそうなんじゃねえの?俺なんかに構ってるの、時間の無駄だよな」
そう言うなり、夏樹は隆哉の脇をすり抜けて教室を出ると、昇降口に向かって歩き出した。
「ま、待てよッ…、夏樹ッ」
隆哉が慌てて追って来て夏樹の肩を掴んだ。
「今日は、合宿の準備で1年は買い出しに行くんだ。俺一人の事じゃ無いから、どうしても抜けられないんだよ」
「ふ…ん。そう…」
隆哉の顔も見ずに、わざと気の無い風に夏樹は答えた。
我ながら、なんて嫌な奴だろうと思う。だが、嫌われたくてしているのだから仕方が無い。
「いいよ、分かった。じゃ、明日、待ってるな?」
「うん。部活が終わったら、速攻で行くから」
その言葉に軽く頷くと、夏樹は隆哉を残して下駄箱へ向かった。
靴を履き変えて表へ出ると、そこに昨日の放課後隆哉を取り巻いていた女子達が立っていた。
「ちょっとあんた、話があるんだけど」
「……なんだよ?」
話の内容は薄々分かっていたが、夏樹は精一杯低い声を出して訊いた。
「兎に角、来なよ」
数人の女子に囲まれるようにして、夏樹は校舎の裏へ連れて行かれた。
そこには、更に数人の女子が待っていた。
「あんたさぁ、なんなの?いつもいつも、隆哉君に付き纏ってさ」
「付き纏ってなんかいねえよ」
「嘘つくなよ。部活終わるのまで待ってて、まるで彼女気取りじゃん」
夏樹はカッとなって、そう言った女子を睨み付けた。
だが、自分と体格の変わらない夏樹が相手では恐怖感も無いのだろう、その女子に怯む様子は見られなかった。それどころか、夏樹はぐるりと周りを囲まれて逃げ場を失ってしまった。
「あんた、隆哉君に気があるんじゃないの?」
「うげっ…、キモい。おまえ、ホモなん?」
1人が吐く真似をして、他の皆がゲラゲラと笑った。
(ホモなのは、俺じゃ無いッ)
だが、それは決して口に出す訳にはいかない。夏樹はただ黙って、言った相手を睨み付けた。
「チビザルのくせにさ、生意気なんだよ」
「隆哉君と一緒にいて、吊り合うとでも思ってんのー?」
「頭冷やせよ、チビッ…」
言うなり、1人がペットボトルを取り出して、中身を夏樹の頭からぶち撒けた。
「うわっ…」
思わず小さく叫んで、夏樹が両手で顔をガードすると、他の女子も一斉にペットボトルを取り出して中の水を夏樹に掛け始めた。
「やめろよっ」
逃げようとしたが、多勢に無勢で、おまけに周りを取り囲まれていて逃げ場が無かった。夏樹は、何本分もの水を浴び、全身がずぶ濡れになってしまった。
やるだけの事をやって気が済んだのか、女子達は濡れ鼠で蹲った夏樹を笑うと、さっさと引き上げて行った。
「くそッ…」
悔しくて涙が出た。
水を掛けられた事だけでは無い。隆哉と 吊り合わないと言われた事が、何よりも悔しかった。
(そんなの、俺が一番良く分かってるよッ)
ノロノロと立ち上がり、夏樹は放り出してしまった鞄を拾うと、体から落ちる雫を拭おうともせずに歩き出した。
途中、武道場の傍を通ると、開け放してある窓から中を覗いた。
柔道部の向こうで、隆哉達剣道部が稽古をしていた。
紺の胴着に袴。竹刀を正眼に構えて、一歩踏み込みながら振り下ろす隆哉の姿は、本当に凛々しくて惚れ惚れするようだった。
(カッコいい……)
そのすぐ傍に、白い胴着姿の吉岡が立っていた。
綺麗だったが決して女性的ではない。 凛々しい美少年剣士というのが相応しい姿だった。
“絵になる”とあの時、女子たちが言っていたが、それは本当だと夏樹は思った。2人並んだ姿は、本当に見惚れるように美しかったのだ。
それは、水に濡れてシャツが張り付き、髪からもポタポタと雫を垂らしている見っとも無い今の自分と、何とかけ離れているのだろうか。
夏樹は隆哉たちの姿から目を逸らすと、武道場に背を向けて歩き出した。
もしかしたら、こういうことなのだろうか。
自分の髪から落ちる雫が地面にシミを作るのを見て、夏樹は突然、悟ったような気持ちになった。
モテモテの隆哉の傍に居れば、どんな人間だろうとやっかまれる。こういう風に嫌がらせも受けるかも知れない。
そういう事から吉岡を守る為に、盾になる人間が必要だったのでは無いだろうか。
「違うッ…」
滲んできた涙をグイッと拭い、夏樹は激しく首を振った。
その拍子に、濡れた髪から雫が飛び散った。
(違う……。好きだって言ったのは嘘でも、リキはそんな卑怯なことするヤツじゃない。違うッ)
だが、幾ら否定しようとしても、夏樹の心に残った蟠りは消えようとはしなかった。
もうすぐ夏とは言え、この日は肌寒いくらいの天候だった。全身を濡らしたままで帰宅した所為か、夏樹は風邪を引いてしまったようだった。
夜中から寒気がし、朝には熱が上がっていた。
だが、出掛けると言う両親に、夏樹は熱がある事を言わなかった。
これが、最初で最後かも知れない。だから、どうしても今日は隆哉と出掛けたかった。
熱がある事を知られたら、出掛けられなくなってしまう。隆哉が迎えに来るまでの間、薬を飲んで寝ていれば熱も下がるだろう思った。
だが、部活を終えた隆哉が家に来た時、夏樹の熱はまだ下がっていなかった。
「着替えたいんだけど…」
そう言う隆哉をバスルームへ連れて行きシャワーを浴びて着替えるように言うと、夏樹は洗面所で顔を洗って、また解熱剤を飲んだ。
熱の所為で顔が赤い。
それを冷やそうと、何度も冷水で顔を洗ったが無駄だった。
「サンキュ、さっぱりしたよ」
シャワーから出て来て私服に着替えた隆哉は、まだ幾らか湿った髪を手で撫でつけるようにしてそう言った。
「そ?じゃあ、行こうか」
熱がある事を悟られないようにと思うと、夏樹は隆哉の顔をまともに見る事が出来なかった。
バッグを斜めに背負って、すぐに玄関まで行くと靴を履いた。隆哉もすぐにそれを追って玄関へ下りた。
表に出て夏樹が玄関の鍵を掛けると、一緒に門を出て歩き出した。
「何処に行く?先ずはなんか食べて、それから映画でも見る?」
訊かれて夏樹はすぐに頷いた。
「うん、それでいい」
映画館なら座って居られる。動き回っているよりは身体が楽だろう。
「じゃ、映画にしようか」
隆哉がそう言った時、ポケットの中で携帯が鳴った。
「あ、ごめん…」
言いながら取り出し、隆哉はすぐに開くとそれを耳にあてた。
「あ、もしもし、お疲れ様です…」
口調から察するに、部の先輩だろう。
夏樹はすぐに吉岡の顔を思い浮かべ、胸が痛むのを覚えた。
「あ、はい。……いえ、今日はちょっと、……ホントに済みません。ええ、はい。……あ、分かりました。はい、……はい。失礼します」
電話を切ってポケットにしまう隆哉から目を逸らし、夏樹は不機嫌に言った。
「今日、ホントは予定があったんだ?ごめんな、無理言って」
少しも悪いとは思っていない口調で夏樹が言うと、隆哉は首を振った。
「そんなことないよ。俺、今度の合宿で部長の補佐をやることになっちゃってさ。だから、色々と仕事があるんだ。今日もちょっと買出しの残りがあったんだけど、明日にしてもらったから」
「補佐って、3年生がやるんじゃないんだ?」
「うん。各学年から1人ずつ補佐が付くんだ。3年は副部長の吉岡さんで、2年は佐野さん、それと1年は俺」
「……吉岡さんて、副部長なのか…」
「ああ。あの人、身体は小さいけど叔父さんが剣道の師範でさ、小さい頃から習ってるから凄いんだよ。腕前も部長と争うぐらいで…」
そう言った隆哉の表情は、なんだか眩しそうに見えた。
ズキン、ズキン、と夏樹の胸が痛む。
「吉岡さんて、綺麗だな……?」
低い声でぼそりと夏樹は言った。
すると、隆哉は嬉しそうに頷いた。
「ああ、そうだよな。俺も、初めて見た時は吃驚したよ。間違って女子部員が混じってるのかと思った」
ほんの少しだが、隆哉の頬に朱が差したように見えた。見ていられなくなって、夏樹は隆哉の顔から目を逸らした。
明るい店内で顔を見られると熱がある事がばれるのでは無いかと思い、夏樹は上映時間に託けて、昼食は売店で買って映画館の中で食べようと提案した。
隆哉も別段疑う事もなくそれを承知したので、夏樹は飲み物とホットドッグを買ってもらいトレイを持って上映室へ向かった。
上映室は程々の混み具合で、空席もチラホラ見えた。
二人は後ろから5番目くらいの中央の席に座り、映画が始まるのを待った。
部活帰りで腹が減っていたのだろう。隆哉はすぐに買って来たホットドッグを食べてしまったが、熱の所為で食欲がない夏樹は、飲み物を飲んだだけで何も食べなかった。
「夏樹、食べないのか?」
「うん。後で食べるよ」
ここまでは我慢していたが、さっきから寒気がして歯が鳴りそうだった。
多分、熱が上がってきているのだろう。
「夏樹?もしかして、具合が悪いんじゃないのか?」
震えるのが見えたのだろうか。隆哉が心配そうに訊いてきた。
「ううん、そんなことない。大丈夫だよ」
精一杯元気を装って答えると、隆哉も納得したのか頷いた。
だが、映画が中程まで進んだ頃には、夏樹はもう寒気を我慢していられなくなってしまった。