イヌ


-4-

放課後、約束通りに図書館で時間を潰し、夏樹は剣道部が終わるのを待った。
窓から見ていると、胴着を着た生徒達が武道場から出てくるのが見えた。その中に、勿論隆哉の姿もあった。
すると、やはり稽古の終わるのを待っていたのだろう。数人の女子生徒が隆哉に近寄って行った。
勿論、ここからでは何を話しているのか分からなかったが、隆哉はいつものように余り嬉しそうには見えなかった。
「無駄だよ。リキに幾ら告ったって…」
小さく呟くと、夏樹は図書室を出た。
武道場の前まで行くと、まだ女の子達は隆哉の傍を離れていなかった。
「リキー、帰ろうー」
女子達に当てつけるように、わざと大きな声で夏樹は隆哉に呼び掛けた。
「あ、うん。ちょっと待ってて、すぐ着替えて来るから」
夏樹の顔を見て、隆哉はホッとした様子を見せた。
その表情を見て、夏樹は女子達に対して優越感を覚えている自分を感じた。
(キモい。俺……)
突然、そう思った。 そんな感情が許せないと思った。
一体、自分は何を望んでいるのだろう。
そう思うと、突然怖くなって、部室の方へ走って行った隆哉に、夏樹はくるりと背を向けた。
そして、隆哉を待たずに校門へ向かって歩き出した。
「ちょっとッ、そこのチビッ。あんた、なに帰ってんのよっ」
後ろから、隆哉に群がっていた女子が叫んだ。
「そうだよっ、隆哉君、待っててって言っただろッ」
だが、夏樹は振り向かなかった。
脚を早めて、どんどんそこから離れて行った。

何だかおかしい。

今日の昼から、自分は変な事ばかり考えている。
自分の感情が、何だかとても怖くて、夏樹はそれを振り切ろうと必死だった。
誰も居ない家に帰りつくと、夏樹はすぐに部屋に篭った。
この所、両親とも仕事が忙しくて残業続きだった。今日もまだ、帰って来られないらしい。
「リキの奴、怒ったかな?」
ベッドに突っ伏して枕を抱きしめると、夏樹はポツリと言った。
自分から待っていると言った癖に、置いて帰って来てしまったのだ。今度こそ、幾ら温厚な隆哉でも、きっと夏樹に腹を立てたに違いない。
怒って、嫌いになってくれればいいと思った。
いや、最初から好きだなんて嘘かも知れないし、今度こそ呆れてしまって、もう構ってくれなくなるかも知れない。
だが、その方がいい、と夏樹は思った。好きだなんて嘘を言われるより、知らん振りされた方がいい。
もう夏樹は、隆哉の言葉が嘘だったと自分の中で決めてしまっていた。
「そうだよ、嘘に決まってる…」
自分の性癖を知られてしまったから、きっと夏樹を牽制したのだ。
好きだと言えば、他の人間には話さないだろうと思ったのだ。
キスしたのだって、好きだからじゃ無い。
「そうすれば、俺だってもう、誰にも言えないもんな…」
言いながら夏樹は目を閉じた。
上唇がちょっと厚くて少し尖っている。小さい頃は、よくアヒルみたいだと言われた。
夏樹はそんな自分の唇を人差し指で押した。
触れたいとか、キスしたいとか、そんな事を思わせるような形の良さもセクシーさも無い。隆哉の唇のように綺麗な形をしている訳じゃ無い。
「あの先輩みたいに、綺麗じゃねえもん……」
呟いた後で、上唇の不恰好に出張った部分を夏樹は忌々しげにギュッと摘んだ。
考えれば考えるほど、自分には短所しか無いように思えてきた。
「くそっ…」
隆哉と自分の差が、無性に悔しい。せめて肩を並べられるような男だったら、隆哉の言葉も信じられたかも知れなかった。
大きな溜息をひとつ吐くと、夏樹はノロノロと起き上がって制服を脱いだ。タンクトップとハーフパンツを箪笥から出し、それに着替える。
その時、階下で玄関のチャイムが鳴るのが聞こえた。
(リキだ…)
何故かそう思って、夏樹の胸が鼓動を早めた。
すぐに部屋を出て玄関へ行くと、ドアの向こうに立っていたのは本当に隆哉だった。
「夏樹…」
怒っているに違いないと思った隆哉の顔に怒りの表情は無かった。
「ごめん…」
小さな声で夏樹が言うと、隆哉は首を振った。
「いいよ。あそこにいた女子達にまた何か言われたんだろ?きっと、また嫌な思いをしたんじゃないかと思って…」
夏樹は顔を上げて隆哉を見た。
何故、怒らないのだろう。
例え、本当に夏樹が女子に何かを言われたのだとしても、それが約束を破って先に帰って来てしまった理由になる訳が無い。
何故、許すのだろう。
(やっぱり、俺の事なんかなんとも思ってないんだ。だから、腹も立たないんだ)
悔しくて、夏樹は涙が出そうになった。
「リキ、脚が痛いんだ…」
「え?大丈夫か?病院へ行った方がいいんじゃ…」
「ううん。上がって、湿布、取り替えてくれよ」
「いいよ」
湿布の張替えくらい自分で幾らでも出来る。それなのに、夏樹の言葉に何の疑問も感じないのか、隆哉は気軽に頷いて玄関の中に入って来た。
「湿布、何処にあるんだ?」
「こっち……。救急箱にあると思う」
居間を指差して先に入ると、夏樹は棚から救急箱を持って来た。
隆哉はそれを受取ると、夏樹を促してソファに腰掛けさせた。そして、自分はその前の床に座り、胡坐を掻いた膝の上に夏樹の足を載せた。
本当に、今日、皆にからかわれた通り、まるで女王様のようだと夏樹は思った。
「やっぱり、少し腫れてるなぁ。可哀想に……」
湿布薬を抑えてあったネット包帯を外し、隆哉は眉を顰めてそう言った。
熱を吸ってすっかり温くなってしまった湿布薬を剥がすと、そこから紫色に変色した夏樹の肌が現れた。
「ああ、酷いな…」
心から気の毒そうにそう言い、隆哉は新しい湿布薬をそこへ貼り付けた。
「リキ……」
「うん?」
ネット包帯を元に戻しながら、隆哉は顔を上げた。
「チューしようよ」
「えっ…?」
「しよう?昼休みに、したいって言ったじゃん…」
驚いた隆哉に、夏樹は視線を合わせないままでそう言った。
すると隆哉は、フッと笑った。
「いいよ、夏樹、無理しなくて」
夏樹は答えなかった。
まだ、隆哉の顔を見ようとはしない。
「昼間は俺が悪かったよ。夏樹が嫌がる事はしないって約束したのに、あんな風に言って、ごめんな?」
やっぱり、と夏樹はそう思った。
やはり隆哉は、本当は自分とキスなんかしたくないのだ。
夏樹はやっと、目を上げて隆哉の顔を見た。
「無理なんかしてない。チューしよう?」
「夏樹…」
戸惑う隆哉に構わず、夏樹は目を瞑って顎を上げた。
すると、暫く間を置いてから、隆哉の息が顔に掛り、フッと柔らかく唇が唇で押された。
だが、それだけだった。
目を開くと、もう隆哉の顔は離れた所にあった。
「ありがと、夏樹…」
それは、まるで自分を慰めるような笑顔だと思った。
グッと、胸の奥から何かが込み上げそうだった。それを堪えて、夏樹は言った。
「脚に触ってよ」
「え…?」
また驚いて目を見張った隆哉に夏樹は言った。
「昼間したみたいに、脚に触って、撫でて…」
夏樹の態度が理解出来ないのだろう。隆哉は戸惑いを隠せないようだった。
だが、言われた通りに夏樹の脛に手を当てると、ゆっくりと包帯の上から擦った。
「これでいい?」
擦りながら夏樹の顔を見上げる。
夏樹はただ黙ってその目を見下ろした。
「夏樹…?」
「……ほんとに、何でもしてくれるんだね…」
掠れた声で夏樹が言うと、隆哉は笑みを見せた。
「言ったろ?夏樹が言うことなら何でも聞くよ」
昼間、友永に言われた事は本当なのだと夏樹は思った。
自分はそう思っていなくても、隆哉の方では夏樹に弱みを握られていると思っているのだ。だから優しくしてくれるのだ。何をしても、言っても、怒ったりしないのだ。
そして、それは隆哉が言うように夏樹を好きだからしている訳では無いのだ。
「じゃあ、なんか食いたい。昼からずっと何にも食って無いんだ」
「えっ、ホントか?」
驚いて、隆哉はすぐに立ち上がった。
「なんか買ってくる?何が食べたい?」
「たらこスパゲッティ」
「たらスパね。分かった、じゃ、ちょっと待ってて」
隆哉はそう言うと、鞄の中から財布を出して部屋を出て行った。
もう、言えるだけの我侭を隆哉に言ってやろうと夏樹は思った。
自分に関るのが嫌になるくらい、呆れられるぐらいの我侭を言ってやろうと思った。
「嘘つき…」
クッションを抱きしめて、夏樹はソファの上にゴロンと横になった。
「こんな酷い嘘なんかつかなくたって、俺、誰にも言ったりしないのに……」
呟くと、今まで我慢していたものが一気に込み上げた。
ギュッと目を瞑ると、その拍子に溢れかかっていた涙が夏樹の目尻を伝って落ちた。
すると、隆哉の鞄の中で携帯電話の着信音が聞こえてきた。
ビクッとして眼を開けると、夏樹は涙を拭いて起き上がった。
躊躇ったが、なんだか酷く気になり、夏樹は隆哉の鞄の中から携帯電話を取り出した。
開くと、そこには相手の名前が出ていた。
「吉岡潤也…」
それを見た途端、夏樹は急いで携帯を閉じて、それを鞄の中へ突っ込んだ。
むくむくと、嫌な考えが夏樹の頭に沸いてきた。
隆哉が本当に好きなのは、吉岡なのでは無いだろうか。
そして、自分に告白したのは……。
「カモフラージュ……?」
だが、何故そんなことをする必要があるのだろうか。
吉岡のことを隠しておきたいなら、ただ黙っていれば済む事だ。何故わざわざ、自分に嘘の告白なんかする必要があるのだろう。