イヌ
-3-
その翌日から、隆哉は言った通りに、夏樹がくすぐったくなるほど甲斐甲斐しく面倒を見てくれるようになった。
最初は戸惑い、止めるようにも言ったが、隆哉は笑うばかりで一向に止めようとしない、その内に夏樹の方でも慣れてきて、当たり前のように隆哉に面倒を見てもらうようになった。
「今日、弁当か?夏樹。飲みもん買って来ようか?」
「あ、うん。じゃあ、オレンジ」
「分かった」
いつも通り隆哉が一人で購買へ向かうと、それを見ていたクラスメートの友永が呆れたように言った。
「おまえらって、女王様と下僕?」
「え?なんだよ、それ」
少しムッとして夏樹が聞き返すと、友永はニヤニヤと笑いながら言った。
「だって、そうじゃん?リキのヤツ、いっつも夏樹の後をくっ付いて歩いて、まるでおまえのパシリみたいに何でもやってやってさー。おまえ、リキの弱味でも握ってんじゃネエの?」
「そ、そんなんじゃねえよッ」
大体、夏樹の方でそう仕向けている訳では無い。言うなれば、隆哉が勝手にやっている事だ。
なんだか夏樹は、段々腹が立ってきた。
まだ広げていなかった弁当の包みを掴んで教室を出ると、夏樹は屋上に上がって行った。
日差しが強くなってきたこの頃では、フライパン状態の屋上で弁当を広げる生徒も居なくなった。
その無人の屋上で、夏樹はほんの少し出来ている日陰に腰を下ろすと、後ろの壁に寄り掛かった。
別に、隆哉に面倒を見てもらいたいと思っている訳じゃ無い。 それなのに、隆哉の弱みを握っているんだろうなんて、心外もいい所だ。
多分、成績優秀で、カッコよくて、女の子にだってモテモテの隆哉が、自分のような凡人の言うなりになっているのが不思議なのだろう。
「俺だって不思議だよッ」
忌々しげにそう言うと、夏樹は立てていた脚を乱暴に投げ出した。
「リキが、なんで俺なんか好きなのか、……分かんねえもん」
不貞腐れたような口調で独り言を言って、夏樹は口を尖らせた。
そこへ、教室に居なかった夏樹を探して隆哉が顔を出した。
「こんな所に居た。暑くないのか?夏樹」
笑みを見せて近づいて来た隆哉を、日差しに目を細めて夏樹は眩しそうに見上げた。
「暑い……」
不機嫌にそう答えると、隆哉はまた笑って夏樹の前に腰を下ろした。
「じゃあ、何でこんなとこに?……ほら、オレンジ」
差し出されたオレンジジュースを受取り、夏樹はすぐにストローを差して口をつけた。
それを見ていた隆哉は、持っていた自分の弁当の包みと烏龍茶を膝から下ろした。辺りを見て、自分達以外に人が居ないのを確かめると、夏樹の方に顔を近づけてきた。
「夏樹、……キスしてもいい?」
「え…?」
驚いて夏樹がストローから口を離すと、隆哉がその両肩を掴んだ。
「い、嫌だッ」
隆哉の唇が近付くと、夏樹は顔を背けた。
「なんで…?キスならしてもいいって言ったろ?」
咎めるような口調でそう言われ、夏樹はカッと頭に血を上らせた。
「なんだよっ?まさか、俺にいつもくっ付き回ってんのって、そうやって隙を狙ってる訳?優しくしてくれんのってさ、俺を懐柔してなんかしようとか、考えてる訳かよっ?」
「な、夏樹……?」
さっきの友永の言葉が、まだ夏樹の中で蟠っていた。
やつあたりだとは分かっていても、夏樹の怒りは隆哉へ向けられてしまった。
「俺、別に、リキに面倒見てもらわなくたって自分でやれるしッ。その代わりになんかしようとか考えてるなら迷惑だからッ…」
言うだけ言うと、夏樹はサッと立ち上がってドアを開けた。
隆哉が後ろで呼ぶのが聞こえたが、夏樹は振り返りもせずに階段を駆け下りてしまった。
本当は、夏樹だって、隆哉が見返りを求めて自分に優しくしてくれるのだと思っていた訳では無い。だが、友永に言われた“弱みを握っている”というひと言が、何だか無性に夏樹を苛つかせた。
隆哉は自分が同性愛者だという事を知られたから、あんな事を言ったのではないだろうか。
本当は、自分の事など好きでもなんでもないのかも知れない。言い触らされたりするのが嫌だったから秘密を共有させようとして、あんなことをしたのかも知れない。
早脚で闇雲に歩いていた夏樹は、そこで立ち止まって激しく首を振った。
(違うッ。リキはそんな姑息な事するヤツじゃねえもんっ……)
気がつくと、そこは丁度、階段の踊り場だった。
フッと顔を上げると、そこには等身大の鏡があった。
夏樹は、そこに映ったチビで平凡な自分を見た。
小さいというだけで、別段、可愛い訳でもない。
色が黒くて、髪も真っ黒。 おまけに硬くてごわごわしている。美少年とは程遠い自分を、夏樹はじっと見つめた。
(やっぱり、好きだなんて嘘なのかな……?)
そう思ったら、途轍もなく悲しくなった。
自分の姿から逃げるようにして、夏樹は残りの階段を駆け降りた。
通りかかった教室のドアの向こうで、自分の名前を聞き、夏樹はハッとして立ち止まった。
どうやら、ドア近くに座って弁当を食べながら話をしているのが聞こえたらしい。
「だからさー、なんで石橋夏樹なわけ?同じ小さくても、吉岡先輩とかなら絵になるのにさぁ」
やはり、自分と隆哉が一緒にいるのが気に入らないのだろう。その女子の言葉に、夏樹は唇を噛んだ。
だが、吉岡先輩とは誰だろう。
その疑問に、別の女子が答えた。
「吉岡さんって、やっぱり剣道部の3年でしょ?小さいけど、綺麗だよねえ。男にしとくの勿体無い感じ……」
「でしょ、でしょ?吉岡先輩となら、許せるよー」
(なにが、“許せる”だ……)
女子たちの勝手な言い草に腹を立て、夏樹は足早にそこを立ち去った。
だが、このまま教室に帰れば、間違いなく追いかけて来る筈の隆哉と顔を合わせなければならない。今は隆哉と話をする気にはなれなかった。
(どんな人だろ?)
さっき、女子たちが言っていた“吉岡先輩”が急に気になり出し、夏樹は今降りて来たのとは別の階段へ向かって走り出した。
3年の教室はこの上の階だ。吉岡がどのクラスかは分からなかったが、“小さい”と“綺麗”という言葉を頼りに探して見る事にした。
廊下に屯している生徒を眺めながらそれとなく教室を覗き、夏樹は吉岡らしき人を探した。
だが、チラリと見た限りでは該当する人間は見当たらなかった。
(やっぱ、分かんねえや…)
夏樹が落胆して教室から視線を戻した時、向こうから話をしながら歩いて来る2人に出会った。
片方は、かなり背の高い体格のいい生徒で、それが剣道部の主将の市川だとすぐに気付いた。
そして、その隣にいるのは市川とは対照的に小柄な生徒だった。
夏樹よりは10センチくらいは大きいだろうが、男にしてはかなり小さ目だろう。だが、その容貌は見とれるほどに綺麗だった。
(この人だ…)
すぐにそれが目当ての吉岡だと気付いた。
本当に、女子たちが噂していた通り、吉岡は美少年だった。
(すげえ…)
通り過ぎる吉岡に眼を奪われ、夏樹は呆然と彼を見送った。
確かに彼なら、隆哉と並んだらさぞ見栄えがするだろう。きっと誰もが振り向くに違いなかった。
じくん、と夏樹の胃の辺りが痛んだ。
さっき、鏡に映った自分の姿を思い出す。
こんな自分を、本当に隆哉は好きなのだろうか。
午後1番の授業は体育だった。
弁当を食べ損ねた夏樹は、空腹の所為で気分が悪かった。
だが、隆哉の手前、そんな事は言えない。着替えると、平気な振りをしてグラウンドへ出た。
今日の授業は、男子はサッカーで、クラスを二つに分けて試合をする事になった。
隆哉はA組みで、夏樹はB組に分かれた。
試合の途中、走っている内に夏樹の気分はどんどん悪くなっていった。
とうとう我慢出来なくなって、ボールを追う足が止まり、グラウンドの真ん中で立ち止まってしまった。
そこへ、ボールを追っていて夏樹に気が付かなかったのか、クラスメートが突っ込んで来た。
「うわっ…」
小さくて軽い夏樹は、大きなその生徒に見事に跳ね飛ばされてしまった。
「うう…ッ」
地面に身体を打ちつけ、夏樹は小さく呻いた。
「夏樹ッ」
叫んで、一番先に駆け寄って来たのは隆哉だった。
脚を抑えて転がっている夏樹の身体に手を掛けると、すぐに抱き起こした。
「大丈夫か?夏樹…」
「う…、脚……」
ぶつかった時に丁度脛を蹴られる形になり、その部分に激痛が走っていた。
「石橋、大丈夫か?保健室へ…」
体育教諭が覗き込んでそう言うと、隆哉はすぐに夏樹を抱き上げた。
「ばっ…や、止めろよ、リキッ」
驚いて痛さを忘れ、思わず夏樹が顔を上げると、周りに集まって来ていた生徒達からからかうような声が上がった。
「ヒュー、姫抱きかよーッ」
「やっぱ、女王様だぁー」
カーッと夏樹の顔に血が上った。
「下ろせよッ、リキッ」
だが、隆哉は一向に構う様子も見せずに、体育教諭に向かって言った。
「俺が運びます。先生は授業を続けてください」
「ああ。じゃあ、頼むな、力丸」
「はい」
隆哉には回りの野次など聞こえないらしく、グッと夏樹を抱きこむと、そのまま校舎へ向かって歩き出した。
だが夏樹の方は、もう泣きそうな顔で俯いたまま、隆哉の体育着をギュッと掴んでいた。
恥ずかしいだけではなかった。
軽々と抱えられて運ばれる自分は、運ぶ隆哉と男として天地ほどの差があるのだと思うと、悔しくて堪らなかった。
そして、ほんの少しだが、嬉しいと思ってしまった自分が、夏樹は悔しかったのだ。
昼休みに、あんな酷い態度を取ったのに、それでも隆哉は自分を心配して一番先に駆けつけてくれた。
それが、嬉しいと思った。
そして、嬉しいと思った事が、酷く悔しかった。
(まるで、大人と子供だ……)
隆哉の腕は太くて逞しくて、自分の体重など少しも苦にしていない様に見える。
「痛いか?夏樹…」
訊かれて夏樹は下を向いたままで首を振った。
誰が見たってカッコいい。こんな隆哉が、自分を選ぶ理由など無い。
胸の中がモヤモヤして、夏樹はまた気分が悪くなった。
結局、下駄箱の前で靴を履き替える時に下ろしてもらっただけで、夏樹はまた隆哉に抱えられて保健室まで行った。
だが、校医は居なかった。
「あれ、今日は先生、午前中で帰っちゃったのか…」
予定が書き込んであるホワイトボードを見て隆哉はそう言うと、夏樹をベッドの上に降ろした。
「見せて?夏樹…」
脚を下ろした夏樹の前に座り、隆哉は傷の具合を見た。
「肘は擦り剥けてるけど、脚の方は切れてはいないね。打撲だけだ。でも、酷い痣になりそうだな…」
そう言うと、隆哉は立ち上がって水道の所まで行き、タオルを絞って持って来た。
そして、また夏樹の前に膝を突くと、丁寧に傷の汚れを拭き始めた。
「リキ…、怒ってねえの?」
「ん?昼の時の事?」
見上げられて、夏樹は頷いた。
すると、隆哉は笑って首を振った。
「だって、俺が悪いんだから……。俺、ちょっと調子に乗ってた。夏樹の気持ち考えなくて、ごめんな?後で、ちゃんと謝ろうと思ってたんだ」
夏樹は何も言わなかった。
悪いのは、やはり自分だと思う。キスしていいと言った癖に、難癖をつけて拒絶したのだ。しかもまるで、隆哉を悪者のように罵って。
それなのに隆哉は、こうして謝ってくれた。そしてまた、変わらない優しさで接してくれている。
だけど、夏樹は素直になる事が出来なかった。
本当は、好きだなんて嘘かも知れない。
その思いが、どうしても頭の中から消えなかったからだ。
(一体、俺の何が好きなの?)
自分でさえ分からない長所が、何処かにあると言うのだろうか。
見ると、隆哉はさっきから、とても丁寧に夏樹の脚を拭っていた。
「俺の脚…、好き?」
心の中の疑問を、夏樹は上手く出せずに些かおかしな質問をしてしまった。
だが、隆哉は夏樹を見上げて、また笑みを見せた。
「好きだよ。脚だけじゃ無い、夏樹の事は全部好きだ」
言葉の後で、本当に遠慮がちに、隆哉は頬を夏樹の膝に付けた。
夏樹が驚いていると、すぐに両腕が抱えるようにして両脚に回された。
そのつもりは無くても、夏樹の身体に緊張が走った。
すると、夏樹の脚に力が入ったのを感じたのか、隆哉は慌てて腕を離した。
「ご、御免……。湿布、湿布しとこうな?」
言いながら立ち上がり、隆哉は湿布薬を探して棚を物色し始めた。
今の行為は、隆哉が自分を好きな証拠なのだろうか。本当に、演技では無いと言えるのだろうか。
夏樹は本当の事を教えて欲しいと思った。
「リキ…」
「うん?」
「今日、部活終わるの待ってるから。……一緒に帰ろ?」
すると、隆哉は手を止めて嬉しそうに振り返った。
「うん…」
笑みを返そうとしたが、なんだか上手くいかなかった。
夏樹は所在無げに目を伏せて、隆哉の視線から逃げるように俯いた。