イヌー市川と吉岡の場合ー


-2-

だが、今日の出来事はそんな市川の心を激しく揺さぶった。
無意識に心の中で隆哉たちの性行為を反芻しながら、いつの間にか隆哉と自分を、そして、夏樹と吉岡を入れ替えていた。
泣きながら、それでも懸命に自分の身体を受け入れ腰を振る吉岡の姿。
「詠慈ぃッ…」
夏樹がそうしたように、甘ったるい声で吉岡は自分を呼んだ。
(止せッ…)
心の中で自分を叱り飛ばし、市川は激しく首を振った。
バンッ、と勢い良く閉めたロッカーの音が余りに激しくて、自分でやって置きながら市川はビクッと身体を震わせた。
「なにやってんだ?俺……」
自己嫌悪で激しく落ち込み、市川はロッカーの扉にガンと額を打ちつけた。
「詠慈?まだ居たのか?」
声を掛けられて、ギクリとして振り向くと、もう制服に着替えた吉岡が立っていた。
「お、おまえこそ。帰ったんじゃなかったのか?」
「ああ、途中まで行って、忘れ物したのに気が付いて…」
言いながら吉岡は、自分のロッカーを開けて何かを取り出した。
「そうだ詠慈、おまえ、今日暇か?久し振りに道場へ来ないか?叔父さんが会いたがってるんだ」
「え?い、いや、今日は…」
嫌らしい妄想をしてしまった罪悪感で吉岡の顔をちゃんと見る事が出来なかった。
市川が目を逸らすと、吉岡は怪訝そうに眉を寄せた。
「なんか用事があるのか?」
「い、いや、そうじゃないが…」
「なら、来いよ。明日休みだし、ウチで夕飯食べてったらいい」
腕を掴まれ、屈託のない顔で見上げられると市川は己を恥じて消えてしまいたくなった。
「嫌なのか?」
心配そうに吉岡の眉間に皺が寄る。
いつもなら二つ返事で答える筈の市川の躊躇いが吉岡を不安にさせているようだった。
「い、いや。そんなことない。行くよ」
何とか笑みを浮かべて答えると、吉岡は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、待ってるから、早く着替えろよ」
「うん…」
頷くと、市川は吉岡に背を向けて、胴着を脱ぎ始めた。
「詠慈、また、でっかくなったよな?」
背中から声を掛けられ、市川は振り返った。
すると、ちょっと拗ねたような顔の吉岡と目が合った。
「背はもう、殆ど止まったぞ。伸びてても1、2センチだろ」
「そうか?でも体が一回りでっかくなった気がする。筋トレしてんだろ?」
「ああ、まあ。けど、走るのと、腹筋と腕立てぐらいだ」
答えると、吉岡はつまらなそうに口を尖らせた。
「ずるいよな、おまえばっかりどんどん育って」
言われて市川は苦笑した。
身体が小さい事を吉岡は気にしているようだったが、彼が自分のような体になった所を想像するのは難しかった。
「肩の上のとこ、スゲエな。盛り上がってる。なあ…、触っていい?」
「え…?」
ドキン、と市川の胸が鳴った。
吉岡が近付いて来て、市川は慌てて後ろを向いた。
ドクドクと、煩いほどに血管の中を流れる血の音を感じる。
吉岡の手が触れた時、カーッと体中が熱くなるのが分かった。
「詠慈の身体って好きだ。リキもいい身体してるけど、でもやっぱり詠慈の方が出来上がってるよな。男として、羨ましいよ」
言いながら、指が肩の上を滑る。
ぞわぞわと、首筋が粟立つのが分かった。
(くそっ…)
本人は、然程意味を持たせて言っている訳では無いのだろう。それは分かっている。
だが、市川にとって、吉岡のこの行為も、そして言葉も、容易く若い身体を興奮させてしまうものだった。
股間にどんどん血が集まるのを感じ、市川は焦った。
「潤也、着替えられねえ…」
ボソッと市川が言うと、吉岡の手が肩から離れた。
「ごめん…」
何とか平常心を保ち、市川は手早く制服を身に着けた。


道場は吉岡の家のすぐ近くにある。
2人は先ず、真っ直ぐに道場へ行き、吉岡の叔父に会って少し話をした。
3年になってからは、市川が道場へ顔を出す事はなくなっていた。それは、受験で忙しくなった所為もあったが、本当の理由は学校以外で吉岡と一緒に過ごすのが嫌だったからだ。
個人的に一緒にいる時間が多いと、それだけ心も揺らぐ。
耐えている事が辛くなる。
だから、市川は学校以外では自然と吉岡と行動を共にする事を避けるようになっていた。
だが、吉岡の叔父に部活の無い日にまた稽古に通うように言われ、市川は仕方なく承知した。
稽古料も取らずに、熱心に指導してもらった恩もある。自分の事を買って、可愛がってくれる叔父の言葉を無碍に断る事は出来なかった。
すると、市川の返事を聞いて吉岡も嬉しそうな顔をした。
「詠慈、この頃、俺の事避けてるみたいな気がして、気になってたんだ」
道場を出た所で、吉岡が言った。
「別に、避けてなんかいないよ」
内心焦りながら市川は答えた。
まさか、吉岡が気付いているとは思わなかったのだ。
「そっかな…。でも、遊びとか誘ってくれなくなったし、学校以外じゃ、殆ど会わなくなったろ?」
立ち止まると、吉岡は市川の顔を寂しげに見上げた。
「また、新しい彼女が出来たのかと思ったけど、違うみたいだし。なんか理由があるのかと思って…」
いけないと思いながら、市川は思わず目を逸らした。
こんな表情をされたら堪らなくなる。
吉岡の自分への好意が純粋なものだけに、己の薄汚れた感情が恥ずかしくて直視出来ないのだ。
「そんなことないって。潤也の思い過ごしだ」
「そうか。なら、いいんだ…」
納得していないのだろう。口元に寂しげな笑みを残し、吉岡は背を向けて歩き出した。
吉岡の家には何度も来ている。
休日に遊びに来ることもあったし、道場で稽古した後は、いつもここで夕飯をご馳走になっていた。
久し振り姿を見せた市川を見て、吉岡の母親も嬉しそうだった。
「いやぁ、また大きくなったんじゃない?市川君。潤也と並ぶと大人と子供みたいだわねえ」
「煩いな、母さん。余計なお世話」
言いながら玄関先の母親を押し退け、吉岡は靴を脱いで上がった。
「夕飯、詠慈の分もいいだろ?」
「勿論よ。市川君、久し振りなんだからゆっくりしてってね?」
「あ、はい。すんません。突然来たのに…」
恐縮して頭を下げた市川に、母親は“いいの、いいの”と言って、台所へ入って行った。
吉岡の部屋に入るのも、半年振りぐらいだった。
中は殆ど変わっていないが、真面目に勉強しているのだろう、机の上に参考書の類がかなり増えていた。
「潤也、勉強してるんだな」
「ああ、まあ、一応。詠慈はやっぱり、推薦で私大へ?」
「うん、そうなるかな。警察も考えたんだが、やっぱり普通の大学へ行くと思う」
「そっか…」
鞄を下ろし、吉岡はベッドへ腰を下ろした。
「一緒の大学へ行けるかと思ってたんだけどな。やっぱ、無理かな?」
「潤也…」
吉岡が一般受験で国立大を狙っているのは知っていた。
最初は市川も同じ大学へ行けたらと思っていた。だが、今はもう、吉岡と離れる事を望んでいたのだ。
「な?今晩、泊まっていけよ。明日は部活休みだし、叔父さんトコで稽古してもらわないか?それで、午後からさ、映画でも見に行こうよ。いいだろ?」
気分を変えるようにしてそう言い、吉岡は期待を込めた目で市川を見た 。
「いや、しかし…」
着替えが無いことなどを理由に断ろうと思った。
だが、忽ちに曇った吉岡の顔を見ると、市川はグッと言葉を飲み込んだ。
「うん、そうだな。じゃあ、そうさせてもらうよ」
市川が答えると、吉岡の顔がパァッと明るくなった。
答えてしまった事を後悔したが、吉岡を落胆させる事は出来なかった。
市川は、なんとか自分の理性が保たれる事を願うしかなかった。


吉岡の家族と一緒に食事をし、市川は吉岡の母に浴衣を持たされて風呂へ行った。
「市川君が着られるような服は、ウチにはないものねえ。浴衣なら丈はツンツルテンでも、合わさるから何とかなるでしょ」
笑いながらそう言い、浴衣と兵児帯、それから新しい下着を市川に渡した。
だが、風呂から出てきた市川の姿を見て、家族全員が吹き出して笑った。
浴衣は父親のものだったが、息子の潤也よりは大きいとは言え、市川から比べると10センチ以上小さい。<浴衣の裾からは脛がにょっきり出て、裄も短く肘の少し下までしか届いてなかった。
「なんだか、出来そこないの座敷わらしみたいだ」
吉岡の言葉にまたみんなが笑い、市川も思わず吹き出した。
母親に布団の仕舞い場所教えてもらい、市川は吉岡が風呂に入っている間に、彼の部屋に自分用の布団を敷いた。
そこにゴロリと寝そべり、天井を見上げると、深く溜息をつく。
吉岡と一緒の部屋に眠るのは合宿以来だった。 だが、あの時は、他に部員も居たし2人きりではなかった。
市川は頭を巡らし、吉岡が横になる筈のベッドを見上げた。
手を伸ばせば届く距離だ。
だが、自分にとってはこの距離が果てしなく遠いものに思える。
ふと、また、体育倉庫で見た夏樹の姿態が蘇った。
最初は嫌がって泣いていたが、最後は快感に抗えず、流す涙は別の意味を持っていた。
終わった後、拗ねて、無理やりに抱いた隆哉を詰っていたが、宥められてキスされると、隆哉の大きな身体にしがみ付くようにして応えていた。
その姿が、健気で可愛らしいと思った。
あんな風にして、自分も吉岡に想ってもらえたら、どんなに嬉しいだろうか。
「くそっ…」
両手で顔を覆い、市川は呻くように言った。
諦め掛けていたのに、夏樹と隆哉の行為を見たお蔭で、また心が激しくざわめいてしまった。
無理だと分かっているのに、また何処かで期待し始めている。


手に入れたい。
奪いたい。
身体ごと、勿論、その心も、全部欲しい。


「潤也…」
熱く火照り始めた体を持て余し、市川は乱暴に寝返りを打った。
「もう、限界だ…」
苦しげに呟いた時、ドアのノブが回る音がした。