歩いていこう


-7-

次に目を覚ますと、伊関は居なかった。
弥が起き出してぼんやりと布団の上に座っていると、玄関のドアをノックする音が聞こえた。
弥は億劫そうに目を擦ると、立ち上がって玄関の鍵を開けた。
そこに立っていたのは、中森だった。
「弥……ッ」
強張った顔つきで、中森は弥を見下ろしていた。
「庸介さん……、どうして?」
不思議そうに見上げる弥に中森は苛々とした口調で言った。
「ここの部屋の、伊関と言う人が昨夜電話をくれた。君が無一文でここに居るって…」
「駿二さんが…?」
「一体、どういうつもりだ?」
中森の手が、弥の両肩を掴んだ。
「私に対するあてつけか?それは、あんまり酷いんじゃないか…?弥…ッ」
「な…に?庸介さん…?」
弥には庸介が言っている意味が分からなかった。 ただ、彼が自分に対して腹を立てているらしいということだけは分かった。
「私が一体、君に何をした?こんなことをされたら、私は君のご両親に顔向けが出来ない。それを分からない歳じゃ無いだろうっ?」
弥が謝ろうと口を開いた時、中森の後ろから伊関が姿を現した。
「おいッ、他人んちの玄関先で何やってる?」
手にコンビニエンスストアの袋を持っている所から見て、どうやら朝食を仕入れに出かけていたらしいと分かった。
「君が伊関君…?」
伊関は眉間に皺を寄せたままで頷くと、玄関の中に顎をしゃくって見せた。
「兎に角、中に入んな。…・・こんな処で、見っともねえぜ」
「す、済まない…」
伊関の出現で我に返ったのか、中森は素直に頭を下げた。
だが、玄関の中に入ろうとはしなかった。
「弥を保護してくれてありがとうございます。この子は、このまま連れて帰りますので…。後ほど、改めて、お詫びとお礼に伺いますから」
それを聞くと、伊関の眉が上がった。
「何言ってるんだ?誰もそんなことを頼んじゃいないぜ」
「え…?」
「俺が昨夜、あんたに電話したのは、こいつの親御さんが心配してるといけねえと思ったからだ。こいつを引き取って欲しかった訳じゃねえ」
「し、しかし…」
「弥だって帰る事を望んじゃいねえ。そうだよな?弥?」
弥は中森の顔を見て頷いた。
「な、何を言ってるんだ……」
中森の顔が怒りの為か幾らか赤らんだ。
それを見て、伊関は溜め息をつくと、中森の腕を取って玄関の方へ引っ張った。
「兎に角、中へ入んなよ。こんなトコじゃ、話も出来ねえ」
中森は仕方なく部屋の中へ脚を踏み入れた。
伊関は敷きっ放しになっていた布団を乱暴に畳んで脇へ寄せると座る場所を作った。 中森は部屋の様子を、眉を顰めて見ていたが、やがて座卓の前へ腰を下ろした。
「弥、一緒に帰るだろ?」
「ううん…。帰らない」
「弥ッ…」
「おいっ…」
声を荒げた中森を、伊関は牽制するように手を上げて抑えた。
その伊関をチラリと見ると、中森は肩の力を抜いてまた弥と向き合った。
「弥、どうして黙って出て行ったりしたんだい?私はちゃんと説明した筈だよね?それに、出て行くなら家に帰れば済むことだろう?何でわざわざ、まるで正反対の方向へなんか……」
「だって、遠くへ行かなくちゃ…。庸介さんの知らない所まで行かないと…」
それを聞いて中森は困惑しきった表情を浮かべた。
「どうして……?私に一体、どうしろって言うんだ……?」
「別に……。いいよ、庸介さんは…。僕が、行かなくちゃいけないんだ。だって…、そうしないとまた困らせるから……」
「私が困るのは、君が黙って出て行ったりすることだよ。私は君を、ご両親から預かっている責任があるんだ。それを、こんなことをされたら……」
それを聞いて、弥が答える前に伊関が口を出した。
「待ちなよ。あんた、弥の親御さんに頼まれてこいつを引き取ったのか?そうじゃねえんだろ?」
「…何が言いたいんだ?」
険しい顔をした中森に伊関も眉間に寄せた皺を崩さずに答えた。
「あんたが自分からこいつを引き取りたいって言ったんじゃねえのか?大学へやりたいって、あんたの方から言ったんだろ?」
中森は伊関の方へ向き直ると苛々とした表情で言った。
「だから何だ?何が言いたいんだね?」
「あんたは、こいつの方が自分を必要としてたんだって思ってるみてえだが、実際は違うだろ?」
「なに……?」
中森の顔が強張るの見て、伊関は冷笑を浮かべた。
「必要だったのはあんたの方だ。奥さんが死んで、あんたは穴の開いた自分の心を塞ぐ何かを欲しがった。だから、手近に居た弥でそれを埋めようとしたんだろうが?」
「ば…、馬鹿を言うなッ」
中森は吐き棄てるように言うと、弥を指差した。
「この子が普通じゃ無いことぐらい、君だって気が付いただろう?誰かが支えてやらなきゃ、面倒を見てやらなきゃ、この子は1人で外へも出られなかった。だから私は、この子を何とか独り立ちさせたいと思ったんだ。私の愛した、結子の弟だから……っ」
「だったら、最後まで面倒を見てやったらいいだろう?自分の都合でおっぽり出す様な真似なんかしねえで」
「放り出してなんかいないだろッ…」
中森はカッとなって声を荒げた。
「この子が勝手に出て行ったんだ。私が追い出したように言われたんじゃ、心外だねッ」
「言葉で言わなくたって、おんなじことなんだよ。何で分からねえ?」
辛そうに伊関は言い、今まで俯いていた弥が顔を上げて彼を見た。
「こいつは何もかも分かってる。言葉では言えねえかも知らねえが、感じてない訳じゃねえんだぜ?」
伊関は弥を見ると、その頭に手を置いた。
「あんたのした事は、こいつをペット代わりに使ったのと同じだ。寂しさを、こいつで紛らわして、目的を持って世話をすることで奥さんが死んだ心の穴を埋めようとした。こいつが傍に居たからこそ、あんただって、こんなに早く立ち直ることが出来たんじゃねえのかよ?こいつに頼られてたからこそ、生きてこられたんじゃねえのか?」
「そんな…っ、私は…」
言い返そうとした中森の言葉は、そこで止まった。
すると、弥が伊関を見上げて、その袖を引いた。
「駿二さん、庸介さんは悪くないんだ…」
「弥……」
「庸介さんはね、僕に色を見せてくれたんだ。……空の色も、木の色も、花の色も…、全部見せてくれた。もう、随分薄くなっちゃったけど、もう、段々見えなくなってきたけど、でも、庸介さんが来なかったら、僕の世界には今でも色は無かった…」
中森は弥の言葉に顔を上げて彼を見つめた。
「だから…、庸介さんは、僕の運命の人だった」
「弥…」
その言葉を初めて耳にした中森は驚いて目を見開いた。
「でも、庸介さんにとって僕は姉さんの弟でしかないから…、だから、傍には居られないんだよね?庸介さんは優しいから傍に置いてくれたけど、キスもしてくれたけど、でも、いつも困ってた。……僕を、どうしていいのか分からなかった。僕の想いを、庸介さんは要らなかったから……、だから、困ってた。そうなんだよね?」
中森は答えられなかった。
伊関も口を挟もうとはしなかった。
弥は零れ落ちる涙を拭おうともせずに、言葉を続けた。
「庸介さんが、いつも遠くに居るって知ってたよ。一緒の部屋に居ても、隣に座ってても、庸介さんはいつも遠い所に居た。僕は、すぐ近くまで、庸介さんの1番近くまで行きたいって、いつも思ってたけど、でも……駄目なんだよね?僕じゃ、駄目なんだ。分かったから……、だから行かなくちゃ。行って、僕は諦めなくちゃ……。そう思ったんだよ」
「わた……る……」
中森は弥の顔を見られなかった。
俯いたまま苦しそうにそう言うと、そのまま片手で顔を覆ってしまった。
「僕、遠くに行くね……?だから、僕の事はもう、考えなくていいよ。忘れちゃっても、いいよ……」
顔を覆ったまま、中森は小さく首を振った。



何も言わず、弥に持っているだけの金とクレジットカードを1枚手渡し、中森は帰って行った。
「朝飯、食うか?」
何事も無かったかのように伊関は笑い、弥の前に買ってきたおにぎりやサンドイッチを並べた。
「好きなの食いな」
「うん」
手を伸ばしてサンドイッチの包みを取ると、弥は包装を剥がして中身を1つ取り出した。
だが、それを手に持ったまま口に入れようとはせず、ぽつりと言った。
「僕が…、変じゃなかったら……選んでくれたかな。庸介さん……」
「ばーか。おまえは変なんかじゃねえよ」
言いながら、伊関もおにぎりを1個取ってセロファンを剥がし始めた。
「ほんと…?」
「ああ…」
頷きながら伊関の手が弥の頭の上に乗り、クシュクシュッと髪を掻き回した。
「俺は好きだぜ、おまえのこと」
「好き…?」
「ああ」
「……好き…」
反芻するように弥は言い、そして薄っすらと笑った。
「僕も、好き。駿二さん…」
「そっか。ありがとな」
伊関が笑うと、弥の笑みも大きく広がっていった。
「弥、何ならこのまま、ここに居たっていいんだぜ?今は出入りしてる女も居ねえし、気にする相手も居ねえ」
だが、弥は首を振った。
「ううん……。やっぱり、行くよ、僕…」
「そっか……」
伊関は無理に引きとめようとはしなかった。だが、ここに居てもいいと言ってくれた言葉は上辺だけでは無いと弥は感じた。
改めて、弥は伊関を不思議そうに見た。
「駿二さん、やっぱり面白い」
「うん?……はは…、そうかもな。俺も、ちょっと変わってんだよ」
弥は伊関の手を取って、無骨で大きなそれをじっと見つめた。
「もう、随分見えなくなってきた……。昨日はもっと、駿二さんの色もはっきりしてたのに……」
「弥……」