歩いていこう
-6-
「おい、おまえ。何やってんだ?こんなとこで」
頭上で突然声がして、弥は目を開けた。
「酔っ払ってんのか?ガキのくせに」
呆れたような声の主は、起き上がろうとしない弥の前にしゃがんで視線を合わせた。
「それとも、何処か具合でも悪りぃのか?うん?」
色の浅黒い、体格のいい男だった。
膝の上で組んだ腕はシャツの上からでも、その筋肉の盛り上がりが分かるほどだった。 土木作業員が着るような服装をして、頭はタオルで覆っている。
弥は億劫そうに起き上がるとベンチに座り直して男を見た。
「別に、悪くない…」
「じゃあ、何でこんなトコで寝てたんだ?」
「疲れたから…」
「はぁ?」
「ずっと、歩いてたから…」
「ずっとって?」
「朝からずっと」
「はぁ?」
男は再び呆れたように聞き返すと、立ち上がって弥の隣に腰を下ろした。
「なんだ?そりゃ…。なんかの競技か?」
言いながら弥の服装をジロジロと眺めた。
だが、どう見ても弥は何かの選手のようには見えなかったのだろう。不審そうな表情で弥の顔に視線を戻した。
弥は首を振ると男の顔も見ずに言った。
「遠くに…、行かなきゃならないんだ。だから、ずっと歩いてた」
すると、男は愉快そうに笑った。
「遠くに行くのに歩いてたって?面白いヤツだなぁ、おまえ……」
「そう?」
“変なヤツ”とは、子供の頃から言われ慣れているが、面白いヤツといわれたのは初めてだった。弥は、朗らかに笑う男の顔を不思議そうに見上げた。
年は25、6だろうか。長めの髪に、片耳には金のリングのピアス。無精ひげを生やした少々粗野な顔立ちだが、切れ長の目は案外優しそうな印象だった。
「そんで?遠くって何処まで行くんだ?」
「分からない…。行ける処まで…」
弥が答えると、男はまた呆れたような顔になった。
「行けるトコっておまえ、もう夜になるぜ。まさか、今夜はここに野宿する気じゃねえだろうな?」
「いけないの?」
弥の言葉に、男は大袈裟に首を振って見せた。
「あのなぁ、こういう公共の場所に寝泊りすんのは禁止なんだよ。家に帰れねえなら何処かへ泊まったらいいだろ。金ぐらい持ってねえのか?」
「お金……」
そう言えば、弥は財布を持って来なかったことに気が付いた。
金も持たずに出てきてしまったことを、さすがに後悔したが、今更どうすることも出来ない。普段、殆ど自分では金を使わないので、外では金が必要だということに気づかなかったのだ。
「おまえ、まさか朝から飲まず食わずで歩いてたって言うんじゃねえだろうな?」
頷くと、男は大きな溜め息をついた。
「おまえなぁ…」
弥を見て男は何か言いたげだったが、すぐにその顔には笑みが浮かんだ。
そして、大きな掌が、ポン、と弥の頭に乗った。
「仕方ねえ。俺んちへ来な。泊めてやっからさ」
「え……?」
「こんなトコでおまえが干乾びてるのを黙って見てる訳にもいかねえさ。いいから、来なよ」
腕を取られて弥は立ち上がった。
「すぐ、そこなんだよ。見えるだろ?あのボロいアパート…」
男が笑いながら指差した先には、築年数の相当経っていそうな古い2階建てのアパートがあった。
「うん」
弥が返事をすると、男はまた愉快そうに笑った。
「普通はお世辞でも、そんなことありませんって言うもんだがなぁ…」
「あ……」
気が付いて弥が見上げると、男は笑みを含んだ目で見下ろしながら言った。
「ホントに、面白れぇな、おまえ。……んで?名前は?俺は、伊関駿二」
「駿二?駿二さん……」
男の名前を聞いて弥は反芻するようにそう言った。
伊関は頷くと、弥に顎を杓った。
「んで、おまえは?」
「弥…」
「ふ…ん。弥…」
言いながら手を払うように動かし、伊関は散らかった部屋の片隅にある座卓の方を指し示した。
「まあ、そこいらの物を除けて座んな」
「うん…」
言われた通り、弥は雑誌やら脱ぎ捨てられた衣類やらを脇の方に除けて座卓の前へ腰を下ろした。
すると、伊関が冷蔵庫から缶ビールを2本出してきて、1本を弥の目の前に置いた。
「飲みもんは、それしかねえんだ。嫌だったら水でも飲みな」
「…うん」
勿論、弥は未成年だし、酒を飲んだ事は一度も無かった。だが、手を伸ばすと、缶を取ってプルトップを起こした。
今頃になって、喉がカラカラだった事に気が付いたのだ。
「それで、弥、家出でもしてきたのか?」
弥の傍にどっかりと腰を下ろし、五本指の靴下を脱ぎながらそう訊くと、伊関は旨そうにビールを飲んだ。
「家出……?」
弥が不思議そうな顔をすると、伊関の方も首を傾げた。
「違うのか?親と喧嘩でもして家を飛び出してきちまったんじゃねえの?」
「ううん…、違う」
言った後で、ビールに口を付けると予想外の苦さに弥は顔を顰めた。
それを見て笑うと、伊関は立ち上がってコップに水を汲んできてくれた。
「ほれ。…おまえ、中学生だろ?」
コップを受取りながら弥は首を振ると、そのまま息もつかずに殆どの水を飲み干した。
そして、ハァッと息を吐いて伊関を見ると言った。
「ううん、違うよ。大学生」
「はぁ?嘘つけ。怒らねえから、ホントのこと言いな」
小柄で幼い顔立ちの弥はとても大学生には見えなかったのだろう。伊関はそう言って笑った。
弥はポケットを探り、入っていた学生証を出して伊関に渡した。
「へぇ、ホントに大学生なんだなぁ…」
学生証の写真と弥本人を見比べて、伊関は感心して言った。
「しかも、いい大学じゃねえか。へえ…」
学生証を返しながら、伊関はまじまじと弥を見た。
「そんじゃあ、家出じゃねえのか?」
「家出……なのかな……?」
家出と言われればそうかも知れないと弥は思った。黙って、家を出てきたことには違いないし、戻るつもりも無かったからだ。
「なんだよ、そりゃ…」
伊関は愉快そうに笑うと、ビールを飲み干した。
「自分でも分からねえのか?だったら、何で遠くへ行くんだ?」
「だって、もう庸介さんの傍には居られないから……」
「庸介さん……?」
その名を言った途端、沈み込んだ弥の様子に伊関は眉を寄せた。
「誰だ?それ」
「庸介さんは……」
自分の運命の人だと言おうとして、弥は口を噤んだ。 こんな話をすれば、伊関も自分をおかしいと思うだろう。それぐらいの判断がつかない訳ではなかった。
「姉さんと、結婚した人……」
「なら、義理の兄貴じゃねえか。その人と、何かあったのか?」
弥は曖昧に首を振った。
「結婚するから……。だから、僕とは居られないんだ」
「結婚…って。じゃあ、おまえの姉さんは?」
「死んだんだ。事故で、二年前ぐらいに…」
「そうか……。若かったんだろうに、可哀想にな……」
その伊関の言葉は、上辺だけでなく、心からそう言ったように弥には感じられた。
弥はこの無骨に見える男を不思議そうに見つめた。
「面白いね、駿二さん」
それを聞くと、伊関はまた愉快そうに笑った。
「なんだ?さっきのお返しか?俺は普通のことを言っただけだぜ?…やっぱりおまえこそ、面白いヤツだよ」
伊関の少し大きめの口は笑うととてもいい形になる。
弥はそう思って彼の口元を見つめた。
「腹が減ってんだろ?なんか食わしてやりてえけど、今、ウチにはなんもねえんだ。何か、食いに出るか?」
「うん、いいよ」
食いに出ると言う事は、金を持たない弥は伊関の世話になるという事だ。
だが、弥に悪気は無くても、それを感謝する表現が出てこない。それを、普通の人間は不快に思う。そして、弥との付き合いを煩わしく思ったりする。
だが、伊関は弥の態度に腹を立てるでもなく、当然のように頷き服を着替え始めた。
「ラーメン、好きか?」
「うん、好き」
「じゃあ、旨いの食わせてやるからな」
「うん」
着替えを終えた伊関は、弥を連れてアパートを出ると、然程遠くないラーメン屋へ向かった。
“龍栄”は60がらみの主人とその息子らしい30代の男の2人でやっている店だった。
どちらも無愛想だが、腕はいいのだろう。まだ、夕食には少し早い時間だったが、20余りある席は殆ど満員だった。
「オヤジ、ラーメンの大盛り二つ。あと、チャーハン付けてくれ」
常連らしい伊関はカウンターの向こうへ向かってそう言うと、空いていた隅の席へ弥を促して座った。
「そんで?その庸介さんとやらに、出て行けって言われたのか?」
さっきの話に戻り、伊関がそう訊いてきた。
弥は首を振ると、口を開いた。
「ううん。僕が出てきた……。だって、庸介さん、困るから……。僕が居ると、困るんだ」
「困る……?」
要領を得ない弥の話し方に伊関は首を傾げたが、聞く体制を崩すことは無かった。
普通ならみんな、もうこの時点で弥から話を聞くことを諦めてしまう。だが、伊関は余程気が長いのか、眉を顰めることも無く弥の話の続きを待っていた。
「僕は、変でしょう?…多分、人とは違う…。上手く喋れないし、色々なことが分からない。小さい頃からずっとそうだった…」
弥は自分の出来る範囲で、伊関に事情を説明した。
初対面の素性も良く分からない自分を、何の疑いも無くその懐に入れてしまった伊関には、弥にさえ、そうさせてしまう何かがあったからだ。
「僕は小さい頃から”色”が見えなかった。赤も、青も、黄色も、見えない…。ずっと見えなかった」
「色盲か?」
その問いに、弥は首を振った。
「何度も調べたけど、目の問題じゃ無いんだって……。僕は、心が普通と違うんだって…」
「ふ…ん…」
「でもいつか、僕には“運命の人”が現れて、その人が色を連れて来てくれると思った。……そして、庸介さんが、そうだったんだ…」
「庸介が来て、それから色が見えるようになったのか?」
驚いて目を丸くしながら伊関が言うのに弥は頷いた。
あの時の衝撃を、今も忘れてはいない。中森だけが、弥の世界で色を纏っていたのだ。
「でも、庸介さんは僕の所へ来てくれたんじゃなかった。姉さんの所へ来たんだ…。だから僕は……、庸介さんの、ただの義弟になった」
息子の方が注文の品を運んで来て、伊関は弥に食べるように促した。
弥が箸を持つと、自分もラーメンを食べ始めた。
「美味しいね…」
ラーメンを一口啜り、弥が嬉しそうに言うと伊関も頷いて笑った。
それから2人とも、暫くは黙って食事を続け、腹が減っていたのと旨かった所為もあるだろう、珍しく弥も残さず綺麗に平らげると、伊関が金を払って店を出た。
家に帰る道々、訊かれた訳でもなく弥はまた話を始めた。
「僕は、庸介さんの傍に居たかった。……だけど、それは庸介さんを困らせることだったんだ。だから、僕は傍に行くのを止めた。姉さんと一緒に居る所を見ると凄く苦しくなったから、見るのも止めたんだ」
「それなのに、何で一緒に暮らすようになったんだ……?」
静かに、まるで無理強いする様子も無く伊関は言った。 だから、弥は自然に話の先を続けることが出来た。
「姉さんが死んで、庸介さんが悲しんでいるのを見たら、僕はまた凄く苦しくなった。だから、代わりに僕が死ねば良かったって言ったんだ。…だって……、僕は要らないから……」
前を向いて歩いていた伊関が、その言葉を聞いて弥の方に向き直った。
だが、何も言葉を発することは無かった。
「そしたら、庸介さんはきっと、僕を可哀想だと思ったんだ……。だから、一緒に暮らそうって言ってくれた。僕を大学に行かせてやりたいって……。僕は…、殆ど学校へ行ったことが無かったから、父さんも、母さんも、凄く喜んだよ」
「おまえは…?」
「え…?」
「おまえも、嬉しかったか?」
訊かれて弥は頷いた。
「うん。……だって、庸介さんが一緒に暮らそうって言ってくれたから…」
すると、伊関は首を振った。
「そうじゃねえ、大学のことだ。おまえも、大学に行きたかったのかって訊いてんだ」
「僕は……、その方がいいって庸介さんが…」
伊関はその答えに、また何も言わなかった。
ただ、少し険しい顔をすると、また前を向いてしまった。
「そんで、無事大学に合格したんだな?」
「うん、そう…。大学に入ったら、もう、さよならかも知れないって思ってたんだけど…。庸介さんは一緒に居てもいいって言ってくれた。だから、僕はずっと一緒に居たんだ」
「……そうか」
「うん。……でも、本当は知ってた。やっぱり、庸介さんは僕と一緒に居ることで、困ってるんだってこと。いつか、さよならしなくちゃならないってこと……」
伊関は、また弥の方を向いて、その横顔を見つめた。
「だって、僕は、ただの義弟だから。僕にとって、庸介さんは運命の人でも、庸介さんにとって、僕は姉さんの弟でしかないから……。だから、もう、さよならなんだよ」
最後は呟くように、弥は言った。
すると、伊関は立ち止まって弥の顔をじっと見つめた。
「だから…、遠くへ行くのか?」
弥も、街頭の明かりに浮かぶ伊関の顔を見上げた。
「うん。だって、離れなくちゃ……」
「そうか……」
伊関はそう言ったきり口を噤むと、またアパートへ向かって歩き出した。
弥も並んで歩き出すと、そのまま黙って付いて行った。
部屋に帰ると、余程疲れていたのか、弥はすぐに眠ってしまった。
伊関はその身体に自分の布団を掛けてやり、弥の上着のポケットを探ってあの時計を取り出すと、ハンカチを開いてそれを見た。
くるくると、指で角度を変え具に見ると、また元のようにハンカチに包み、ポケットへと戻した。
そして、今度は学生証を取り出し、携帯電話を開くと、そこに書いてあった中森のマンションの電話番号を押し始めた。
弥が目覚めた時、伊関は隣に敷いた布団で眠っていた。
もそもそと起き出し、弥は珍しそうにその寝顔を見つめた。
人と一緒に眠ったことも無かったから、誰かの寝顔を見ることなど、今まで余り無かったのだ。
すると、気配に目を覚ましたのか、伊関が薄目を開けて弥を見た。そして、そのまま首を巡らせて枕元にあった目覚まし時計に目をやった。
「う…ん?まだ5時だぜ、もう少し寝てな」
眠そうにそう言うと、伊関は腕を伸ばして弥を捕まえ、自分の布団の中に引きずり込んだ。
弥は躊躇いもせずにその腕の中に入ると、そのまま、それを枕にして目を閉じた。
「駿二さん……」
「うん…?」
「温かいね」
すると伊関は、目を閉じたままでクスリと笑った。
「おまえもな…」
そのまま眠りに落ちてしまった伊関を、弥は目を開けて見上げた。
今、伊関は自分のとても傍に居る、と弥は思った。
それは勿論、体の事だけではない。語りかけてくれている訳でもないのに、伊関は弥に何かを与えてくれているようだった。
そっと腕を回し、弥は伊関の胸に額を付けた。
「温かい……」
そっと呟き、弥はまた目を閉じた。