歩いていこう


-5-

結子の墓には彼女の好きだった百合の花を持って出かけた。
弥が両手に抱え、中森の運転する車の助手席に座った。
噎せ返りそうな甘い匂いが車内に立ち込め、弥は少し頭が痛くなった。
花粉が指について、その鮮やかな黄色い色が擦っても取れてくれない。弥は諦めて、指の上に広がった黄色いシミをぼんやりと見つめた。
すると、シミが段々と薄くなっていった。
不思議に思って目の傍まで指を持ってくると、シミ自体が薄くなっているのではないことに気がついた。
“色”が、すべて薄まってきているのだ。
やって来た時と同じように、“色”はゆっくりと去って行こうとしていた。
中森が去って行くのと一緒に、やはり、弥の色も何処かへ消えて行ってしまうのだ。
「……さよなら……」
小さく呟くと、中森が不思議そうに、一瞬、こちらを向いた。
「うん?何か言ったかい?」
「……ううん。なんにも…」
今日の空も、さっきまでは中森のシャツと同じ色だった。
でも今は、段々と白っぽい色に近付いている。
弥は、花束の影に顔を隠してギュッと目を瞑った。
「弥、車に酔ったんじゃないのか?」
何だか様子がおかしいと察したのだろう。中森が話しかけてきた。
弥は花束の影で首を振った。
「ううん。大丈夫…」
「そう?もうすぐ着くからね?」
「うん……」
墓地は綺麗に整頓されていて暗い感じなど何処にも無かった。白い石畳の道を通り、弥は花を抱えたまま中森の後に付いて行った。
結子が眠る墓にその花を供え、中森はその前に膝を突いて祈った。弥は立ったままで、その背中をじっと見ていた。
かなり長い間祈りを捧げた後、中森は振り返って弥を見上げた。
「弥もお参りするだろ?」
「うん……」
場所を替わると、今度は弥が墓の前に膝を折った。
「姉さんの…、ウェディングドレス、綺麗だったね……」
突然、墓を見つめたまま言った弥の言葉に中森は驚いて顔を上げた。
「今なら、もっと綺麗に見えたのに……」
「弥……?」
「あの時は、姉さんの色が見えなかった……」
そう言うと弥はゆっくりと立ち上がった。
「もう、いいよ」
「……そうか。じゃあ、行こう…」
中森にも弥の様子がおかしいことが分かっているようだった。 眉を顰め気味にしてそう言うと、水を入れてきた瓶を持って歩き出した。
「結婚…、するの……?」
弥が背中に向かってそう言うと、中森はピタリと歩みを止めた。
「姉さんに、報告したんでしょ?」
振り返った中森の顔は少しの驚きと、そして、罪悪感を浮かべていた。
「知っていたのか…」
そう言うと、弥が近づいて来るのを待って中森はまた歩き始めた。
「私を…憎むかい…?」
訊かれて、弥は首を傾げた。
「どうして?」
「結子が亡くなってから、まだ二年足らずだ…。それなのに…もう、心を移した…」
「仕方ないよ…。姉さんは死んじゃった……」
弥は中森の顔を見上げた。
「でも、庸介さんは生きてるんだから」
「弥……」
中森の表情がふっと緩んだ。
「君にそう言ってもらえると心が軽くなるよ。……ありがとう…」
弥はスッと視線を落とすと、胸の辺りに持ち上げた自分の指先を見つめた。
花粉のシミは、まだ見える。
「僕……、行くね…」
指先を見つめたまま、弥はポツリと言った。
「え……?」
「あの女の人が来るなら、僕は行かなきゃ…。そうでしょ?」
中森は脚を止めて弥の方へ向き直った。
「弥……。そんなに急に決めなくったっていいんだよ?今すぐに結婚する訳じゃ無いんだ。まだまだ、先の話なんだから…」
「でも……」
弥はやっと指先から中森の顔へ視線を移した。
「もう、僕は要らないでしょう?」
その言葉を聞いて、中森はカッとなって顔を強張らせると、弥の両肩を掴んだ。
「どうして、君はッ…、いつも、そんな言い方をするんだっ…」
グッと肩を掴まれ、弥の顔が少し歪んだ。
「要るとか要らないとか、人間は物じゃ無い。大体、私を必要としていたのは君の方じゃ無いか。だから、私は……っ」
そこで、いきなり中森は口を噤んだ。それより先の言葉は、さすがに言ってはいけないと気付いたようだった。
息が止まりそうなほどに、弥の胸が痛くなった。
今、ほんの少しだけ、中森の本当の気持ちを垣間見た。それは…、分かってはいても、突きつけられたくはなかった想いだった。
「ごめんなさい……」
中森の顔を見つめて弥は言った。
「ずっと、ずっと……、ごめんなさい」
「わ…、弥…」
中森は慌てて弥の身体を引き寄せた。
「違うんだっ、そうじゃない……」
中森は激しく首を振った。
「そういうつもりじゃ無いんだ。……済まない…。ごめんよ、弥…」
今ではもう、弥の口から出る少ない言葉から、その意味を察しられるようになっていた。 だから中森は、弥が何に謝ったのか分かっていたのだ。
最初に一緒に暮らそうと言ったのは中森の方だ。弥が求めた訳ではない。だが、弥は今、すべては自分が求めたことだとして、中森に謝ったのだ。
「弥は悪くないよ。謝らなくていいんだ…。ごめんよ、弥……。私が悪かった」
「でも…、僕が悪いんだよ。ちゃんと知ってる…」
「弥……」
中森が見ると、弥は静かに涙を零していた。
「ずっと、困ってたの、知ってる……。ほんとは、大学に入った時に、サヨナラだったんだよね?僕が言ったから、一緒に居てくれたんだよね?……ほんとは、知ってたんだ…」
「いや……」
答えようとした中森を遮って、弥は言葉を続けた。
「庸介さんは、姉さんの所に来たんだもんね?最初から、僕は関係なかった。……僕はただ、姉さんの弟だっただけ…。だから、庸介さんはずっと困ってた……。僕が、傍に居ることを、…困ってたんだよね…?」
中森はまた、激しく首を振った。
「違うよ。そうじゃない……っ。頼むから、そんな風に言わないでくれ…」
「いいよ。……さよならするのも、分かってたよ…」
言い終わると、弥は中森から離れて歩き出した。
「弥ッ…」
中森が、その後を追って並び掛けると、弥は前を見つめたままで言った。
「分かってたよ……。いつか、さよならしなくちゃいけないこと……」
ホロッ…と、名残のように涙が、弥の頬を伝って落ちた。
「分かってたんだ……」



朝、弥はまだ中森が眠っている内にマンションを出た。
荷物は、あのベネチアングラスで出来た時計ひとつだけだった。
それを、丁寧にハンカチで包み、上着のポケットに入れると、弥は中森の眠っているドアの前まで行った。だが、ノブに手を掛けることもせず、ただドアを見つめただけで玄関へ足を向けた。
弥が向かったのは、自分の家ではなかった。 その反対の方向へ、弥は歩き出していた。
当てがあった訳ではない。
勿論、友人の一人も居ない弥には、他に行く場所などある訳が無かった。それでも弥は、何処までも歩いて行こうと思った。
電車にもパスにも乗ったことが無い。 だから、歩いて行くしかなかった。
歩いて、歩いて、最果ての地まで行けたらいいと思った。そうしたら、中森の存在を自分の中から消せるような気がした。
行ける訳が無いと分かっていても、少しでも遠くへ離れなければいけないと、そう思えてならなかった。
マンションから離れるに連れ、本当に僅かずつだが弥の世界の色は薄まっていった。
きっと、またすべてが元のように戻ってしまうのだろう。
中森と出会う以前と同じように、すべての色が失われてしまうのだ。
弥は、その色たちを名残惜しむように、ゆっくりと首を巡らせながら歩き続けた。

刻々と色を変える空。
雲。
道。
緑。

時々休み、また歩き続ける。
夕方、とうとう疲れ果てて小さな公園へ入り込んだ。
もう弥には、ここが何処だか分からない。 家とマンションの周辺と、大学までの行き帰りの道以外、殆ど外を知らなかった。
公園の古いベンチに腰を下ろし、弥はポケットから時計を取り出した。
あれほど美しかったガラスの色が、今は鮮やかさを失ってしまった。
ホッと溜め息をつき、弥はそれをハンカチに包み直すと、またポケットへ仕舞った。
「疲れた……」
ポソリと呟き、弥はベンチに横になった。
目を瞑ると、中森の姿が見えた。
こうして離れていると、傍にいるように感じるのに、傍にいる時はいつでも遠くに感じられた。手を伸ばして触れれば確かにそこに居るのに、中森と自分との間には果てしない距離があった。