歩いていこう
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食事の後で、中森は弥に新しく買ってきた携帯電話を渡した。
「携帯……」
「そう。弥は夢中になるとどうしても食べるのを忘れてしまうからね。お昼の時間になったら私がこれに電話するから…。そしたら、忘れないだろ?」
「僕も……」
じっと手に持った携帯を見つめて弥は言った。
「うん?」
中森が返事をすると、弥は彼を見上げた。
「僕も、電話していいの?」
「勿論だよ」
言いながら中森は弥の手から携帯を取り上げてアドレスを開いて見せた。
「ほら、私の番号はもう入れておいたからね。何かあったら電話して。通じない時はメールを残してくれたらいいよ」
「うん……」
又嬉しそうに頷くと、弥はじっとそのアドレスを見た。
中森と繋がっているのだ。そう思っただけで、弥は何だか胸が熱くなった。
嬉しそうに笑みを浮かべたまま、消えるとボタンを押して、何度もそのアドレスを表示させては飽くことなく見つめている。中森はそれを見て自分の携帯を取ってきた。
「ただ見ていないで、掛けてごらんよ」
そう言われて、弥は顔を上げた。
「いいの?」
「勿論…。ほら、掛けてごらん」
笑いながらそう言い、中森は弥の手の中の携帯電話を指差した。
弥は真剣な顔になって電話番号を選択すると、発信ボタンを押した。
すぐに、携帯から着信音が鳴り、中森はそれを耳に当てた。
「もしもし?」
おどけた表情で弥を見ると中森はそう言って笑った。
「もし、もし……。弥です」
中森の笑顔を見ながら弥は言った。
そして、まるで子供のように目を輝かせてクスクスと擽ったそうに笑った。
「弥……」
耳に当てていた携帯を下ろし、中森は眩しそうな表情でそんな弥を見つめた。
「どうしたの…?」
急に表情を変えた中森に、弥は不安げな顔を見せた。
「どうしてそんな目が出来るんだろうな…?弥は……」
「え……?」
何のことだか分からず戸惑う弥の頭に、温かい中森の掌が載った。
「変わらないんだな、弥はきっと……。きっと、いつまでもそのままなんだ……」
言いながら、ゆっくりと弥の髪を撫で、中森はそのまま弥の身体を腕に抱いた。
「変わらないと、困る…?」
そう訊くと、弥の耳元でクスッと笑う声が微かに聞こえた。
「いいや…。困ったりしないさ」
弥の身体を離し、中森はその目を見つめた。
「寧ろ、ずっとそのままでいて欲しいよ」
言いながらまた身体が近付き、今度は唇が、弥の唇をゆっくりと覆った。
「ん……」
驚いたが弥は逃げなかった。
この行為の意味くらい知らない訳では無い。そして多分、これが自分の望んでいた事なのだと分かったような気がした。
腕を回して縋りつくと、不意に中森の身体がビクッと震えた。
「あ…っ…」
後悔が感じられる短い声を発し、中森は弥の身体を離した。その目を見て、弥には中森が自分の行為に驚いているらしいと分かった。
自分には望んでいた事だったのかも知れない。だが、中森にとって、この行為は弾みでしかなかったらしい。
そう察すると、弥はまた、目が熱くなるのを感じた。
携帯電話を持って立ち上がると、弥はボソリと言った。
「部屋で、勉強する……」
「あ…・・、弥ッ」
慌ててその手を掴み、中森も立ち上がった。
「そ、その…っ、今のは変な意味じゃなくてだね、つまり…」
「うん…、いいよ…」
中森の顔を見ずに、弥は床を見つめたままで言った。
「困るんだよね……?」
その言葉で、中森は通夜の晩のことを思い出したようだった。
「弥……」
また中森の腕が弥の身体を抱き寄せた。
「そうじゃないよ。私はただ……」
ギュッと中森の腕に力が篭る。
唇が押し付けられたのか、弥の旋毛の辺りに熱い息が波紋のように広がった。
「君の事を、とても可愛いと思っている…。本当に……」
だけど、それは……。
弥は思った。
“好き”っていうのとは違うのだ。だから中森は、こんなにも困っているのだ。
弥には、そう思えてならなかった。
いつも、傍に居てくれるのに、何故か寂しくて堪らない。
弥は不思議でならなかった。
中森は、とても優しい。でも、弥の心が温まる事はなかった。
それでも、傍を離れたくない。だから、中森の望む事をしたいと思った。
「模試……?」
「そう。受けておいた方がいいと思うんだ、今の力を試す為にも」
「……分かった」
外に出るのは前ほど嫌ではなくなった。 色が見えるようになってからは、外に出るのが少しだけ楽しくなっていた。
だが、弥はまだ大勢の人に混じって行動した事はなかった。
心配そうではあるが、中森はそれを望んでいる。だから弥は、模試を受けに行くことを承知した。
当日は会場まで中森に車で送ってもらった。 だが、そこから先は独りだ。
弥は無表情のまま、特に回りを見ることも無く建物の中へ消えて行った。
心配を他所に、弥の模試の結果は上々だった。
中森は自分のことのように喜び、妙にはしゃいで弥を抱きしめたりした。
「何かご褒美をやらなきゃな?弥は本当に良く頑張ってるんだし…」
「ご褒美……?」
「ああ。何か欲しいものとか無いの?」
「欲しいもの……?」
それは、ひとつだけあると弥は思った。言えば、貰えるのだろうか。
「キス…・・、して欲しい。この前みたく…」
弥の答えを聞いた途端、中森の笑顔が強張った。それを見て弥は一番欲しいものは、やはり貰えないのだと知った。
中森の心は、貰えないのだ。
「駄目なら、いい。……何も要らない」
「いや……っ」
弾かれたよう我に返り、中森は急いで首を振った。
「駄目って訳じゃ無いよ。ただ、そんなことでいいのかと思って…」
中森は穏やかな笑みを浮かべて、弥の髪に手を伸ばした。
「キスくらい、いつだってしてあげる。弥がしたいなら…」
「ほんと……?」
「ああ……」
中森の顔が近づいて来るのを見て、弥はゆっくりと目を閉じた。
それは、優しいキスだった。
温かくて、優しくて、悲しいキスだった。
中森が本当は困っているのだと、弥は気付いてしまった。やはり求めてはいけなかったのだと、弥は気付いた。
やはり、姉を愛したように自分を愛してはくれないのだと。
弥にとって、中森は紛れも無く運命の相手だった。 だが、中森にとってはそうではなかったのだ。
そのことが悲しくて、唇が離れた瞬間、弥は辛い溜め息をついた。
傍にいても、こんなにも遠い。これ以上近くへ、中森の一番近い所へ、どうして行けないのだろうか。
どうしたら、行けるのだろうか。
幾ら考えても、弥には少しも分からなかった。
だが、頑張ったお陰で、弥は無事に中森の居る大学へ合格する事が出来た。
両親は、勿論大喜びで、世話をした中森も満足そうだった。
だが、弥自身は少しも嬉しいとは思わなかった。これは中森が望んだからしたことで、弥自身の望みではなかったからだ。
それよりも、弥にはもっと気になる事があった。
「僕、家に帰らなきゃ駄目?」
「え……?」
ここへ置いてくれるのは、多分、自分が大学へ合格するまでの間だろうと弥は思っていた。だから、そう訊いたのだ。
だが、中森はすぐに笑みを見せた。
「弥がここに居たいって言ってくれるなら、私は嬉しいけどね」
返って来た答えに、弥は目を輝かせた。
「ほんと…?居てもいいの?」
「勿論だよ。弥が帰るって言わなきゃいいなって、私だって思ってたんだから…」
弥は中森の腕に頬を預けて擦り寄った。
「なら、ここに居たい。庸介さんと居たい」
「ああ…」
いつでも温かい中森の手が弥の肩を包んだ。
「一緒に居よう……」
だが、それが永遠ではない事ぐらい弥にも分かっていた。
きっといつか、自分は中森の傍を離れなければならなくなるだろう。何故なら、中森にとって、弥は弟でしかないからだった。 運命の人ではないからだった。
「…水色……、空の色……」
「うん……?」
低い呟きが聞き取れず中森が聞き返すと、弥は首を振った。
中森のセーターの袖口から覗くシャツの色。今では弥にも、それに良く似た空の色を見ることが出来る。
それもすべて、中森が与えてくれた“色”だった。
いつか、中森と離れなければならなくなった時、この色も皆、また弥の下から去って行ってしまうのだろうか。また、色の見えない世界で自分は生きていかなければならないのだろうか。
ぷるっ、と身を震わせ、弥は中森の腕にしがみ付いた。
そうしたら自分は、どうすればいいのだろう。傍にいる今でさえ、こんなにも遠い。
それなのに、どれ程遠くへ、中森は行ってしまうのだろうか。
姉との結婚式の日、自分が何故泣いたのか弥には理解出来なかった。
でも、今は分かる。
そして、あの時から、自分の中には予感のようなものがあったのだと、弥は思った。
四月になって、弥は大学へ通い始めた。
勉強は嫌いではなかったので、講義を受けるのも嫌ではなかった。
だが、弥が他の学生のようにキャンパスライフを楽しめる訳も無かったし、皆に打ち解けられる訳も無かった。
“変人”のレッテルを貼られ、次第に弥の周囲に近付く学生も居なくなった。
中森は心配して、時々様子を見てくれているようだった。弥が学校でどう過ごしているのか、やはり気になるのだろう。
「弥、大学は楽しいかい?」
弥が楽しいと感じるのは、唯一、中森の傍に居る時だけだった。 だが、そんなことを言えば、また中森が困ると知っていた。
「うん、楽しい」
その答えを、中森は余り信じてはいないようだった。
「講義は全部休まずに出ているんだね?それで…、友達は?誰か仲のいい子が出来たのかな?」
「うん、出来たよ。友達…」
だが、その答えを中森は嘘だと知っているようだった。その心配そうな表情が、弥にそれを語っていた。
「楽しいよ、大学…。入って良かった」
笑って見せると、中森も笑顔を返して頷いたが、どこか釈然としない雰囲気だった。
夕食の後、ソファで本を読んでいる中森の隣に立ち、弥はいつものように声を掛けた。
「隣に座っていい?」
すると中森は決まって笑顔で頷く。
「勿論。どうぞ」
弥は隣に腰を下ろすと、また本に目を落とした中森の横顔を見た。
いつも、自分が何を訊いても、中森は絶対に嫌だとも駄目だとも言わない。胸が痛くなるような、あの優しい笑みを見せて頷いてくれるのだ。
そっと、中森の袖を引き、弥は彼が自分の方を見るのを待った。
「うん……?」
また微笑みながら、中森は弥を見た。
「庸介さん、…キス、してもいい…?」
いつでもくれると、あの時約束した通り、中森は弥が求めると決して嫌だとは言わなかった。今も、ほんの一瞬の間を置いて、中森は頷いてくれた。
「いいよ…」
そして、本当に優しいキスを弥にくれるのだ。
それは、まるで愛情が篭っているのかと錯覚させてくれるようなキス。
だが、弥は知っている。 悲しいことに、いつもそんな些細な事に気が付いてしまう。
キスをする間、中森の指は読みかけの本に挟まれたままになっていること。
終わったらすぐに、また読み始めることが出来るように、指を栞代わりに挟んでおくのだということに。
中森にとって弥とのキスなど、それほどの意味しかない。だから決まって、キスを貰った後だというのに、弥の心には冷たい風が吹き抜ける。
「あり……がと…」
それが施しだと分かっているから、弥は必ず礼を言う。
すると中森は不思議そうな顔をして見せるのだ。
「どうかした?」
黙り込んだ弥を見て、中森は心配そうな顔をして言った。
「ううん…、なんでもない」
そう言いながら弥は、頭を中森の肩に乗せた。
「もう少し、ここにいてもいい?」
訊くと、中森はすぐに頷いた。
「勿論。構わないよ」
優しい人。
泣きたくなるぐらいの優しさを毎日くれる人。
だが、それが自分にだけ与えられるものではない事を弥は知っていた。
傍に居ることも許してくれる。
キスして欲しいとねだっても、拒絶したりはしない。いつでも、欲しいと言えば与えてくれる。
だが、それは、愛ではなくて“慈悲”なのだ。
多分、あの通夜の日、中森は弥を哀れんでしまったのだろう。 そして、弥の面倒を見ることは自分の役目なのだと思ってしまったのだろう。
本当は、弥が大学に入った時点で、その役目は終わったつもりでいたのかも知れない。弥が言い出さなければ、きっと中森の方から“帰るな”とは言わなかっただろうと思う。
だが、ほんの少しだけ長引いた弥の幸せも、もう終わろうとしていた。
もうすぐ、この同居生活に終止符が打たれることが弥には分かっていた。
同じ大学に行っているのだから、弥が気づかない訳が無い。 中森にはまた、心に想う相手が出来たのだ。
新しく大学の事務に入った女性。彼女と一緒にいる所を弥は何度も見かけている。
彼女と居る時の中森は、自分と居る時とは比べ物にならないほど幸せそうに微笑んでいた。そして、最近では、夜も帰りが遅いことが度々あった。
中森に彼女の事を切り出されたら、弥にはもう何も言えない。自分はただ、結子の弟に過ぎないからだ。
だから、いつその時が来るのか、弥はビクビクとして日を過ごすしかなかった。
「明日、姉さんの月命日だね……」
本から顔を上げて、中森が言った。
「…うん。そうだね」
「墓参りに行かないか?」
「え……?」
顔を上げると、中森は弥を見ずに、また本に目を落とした。
「姉さんに、報告しておきたいことがあるんだ」
「……そう。いいよ、行こう」
弥はそう言うと、また中森の肩に頭を乗せ、ゆっくりと目を瞑った。
もう、自分に猶予は残されていないのだと感じた。
こうしていられるのは、後ほんの僅かだと、弥はひしひしと感じていた。