歩いていこう


-3-

それ以来、弥は中森に以前のような興味を示すことは無くなった。
心の中では近付きたいと思っていたが、それが中森を困らせることだと知ったから、傍へ行くのを止めたのだ。
最初は全く以前と態度を変えた弥を心配したのか、中森も気を遣っているように見えた。
だがやがて、家族達と同じように弥のそんな態度を当たり前だと思うようになっていた。



そして三年が過ぎ、弥も普通なら高校を卒業する年になっていた。
誰にも言うことは無かったが、中森から色は広がり、今では彼が居なくても弥の世界には薄っすらとだが色が存在していた。
でも、そのことを、弥は中森にさえ言わなかった。言ったらまた、彼が困るような気がしてならなかったからだ。
姉と中森の、仲睦まじい様子を、弥はいつも黙って遠くから見ているだけだった。そして、いつの間にか、そっと姿を消す。
ずっと見ていると胸が痛み、そして、目が熱くなって我慢出来なくなるからだった。
誰にも何も言わず、それでもこの三年間に、弥は誰にも知られること無く変化し続けていた。



そして、それは、突然やってきた。
運転していた車が玉突き事故に巻き込まれ、姉の結子が突然、帰らぬ人となってしまったのだ。
余りにもあっけない死に、中森は勿論、父も母も呆然とするしかなかった。
さすがの弥もショックを受け、部屋に篭ったきり出て行こうとはしなかった。
通夜の日、誰が様子を見に来ても、弥は口を閉ざしたままベッドの上から動こうとはしなかった。
食事も碌にとろうとしない弥を心配したのか、とうとう中森までが様子を見に部屋へやって来た。
「弥くん、何か食べないといけないよ」
そう言った中森もまた、碌に食べていないし眠ってもいないだろう、随分と窶れていた。
弥は中森を見ることも無く一点を見つめたまま、黙って首を振った。
「でも、もうすぐ姉さんにサヨナラしなくちゃならないし…。ずっとこうしている訳にはいかないんだよ?」
「や……」
掠れてしわがれた声が、やっと弥の唇から漏れた。
「え……?」
「サヨナラしない。…するの、嫌……」
「弥くん、……子供みたいなこと、…言うなよ……」
最後は涙声になっていた。
そのまま顔を覆い、肩を震わせる中森を弥はじっと見つめた。
そして、今まで膝を抱えていた両手を離すと、躊躇いがちに手を伸ばして中森の肩に触れようとした。だが、結局は触れられず、また引っ込めてしまった。
中森が悲しんでいる。
そう思うと、姉を失った胸の痛みに更に又、別の痛みが加わった。
痛くて、痛くて、弥はグッと胸を押さえた。
「……ねば…良かった…」
「え……?」
やっと涙を押さえ、中森が顔を上げると弥の頬にも涙が光っていた。
「僕が、……代わりに死ねば良かった」
「ば……、馬鹿を言うな…。何を…」
「だって、僕…、要らないよ」
「なんだって…?」
弥の涙は、次々と溢れて頬を伝っていく。それを、弥は拭おうともしなかった。
「僕は要らない。居たら、困るから…。困るだけだから…」
「だ、誰がそんな…ッ。そんなこと誰も思っちゃいない。間違っても、そんなこと言っちゃいけないよ」
肩を掴んで揺すられ、弥はじっと中森を見上げた。
「困るって、言ったよ?……僕が傍に居ると、困るんでしょう?」
「わ、私が…?いつ……?」
愕然として、中森は弥の肩から手を離した。
「困るって言ったから、もう近くに行くのは止めたんだ。……でも、見ていると…痛くなるから…」
そう言って、弥はまた胸を押さえた。
「だから、見るのも止めたの……」
「わ、弥……」
「ね?僕は要らないよね?…もう、姉さんがいないから、姉さんの弟じゃなくなっちゃったもん…。だから、好きじゃないよね……?」
ほろほろと零れ落ちる弥の涙を、中森は呆然と見つめた。
「そんなこと……、私は……」
言葉が続けられなくなり、中森は手を伸ばすと弥の身体を強く胸に抱いた。
「何処かへ行っちゃう……?」
「え……?」
「姉さんと、サヨナラしたら……、居なくなるの…?」
そう訊かれて、中森は激しく首を振ると弥を抱きしめる腕に力を込めた。
「行かないよッ。何処へも行ったりしない」
その言葉を聞いて、弥は僅かに頷いた。
だが、それでも何故か、痛い気持ちが変わることはなかった。



中森の申し出を聞いて、両親は勿論驚いた。
中森は突然、姉と暮らしていたマンションへ弥を引き取りたいと言ってきたのだ。
「勿論、籍を入れて養子にしたいとか、そこまで言っている訳じゃありません。でも、弥くんは最初から、何故か私に懐いてくれていたし…。それに、大学へ行かせてやれないかと考えているんです」
「大学へ?弥をですか?」
それを聞いて、両親はまじまじと中森の顔を見た。
大学どころか、小中高も満足に行けなかった弥である。そんな夢のような事が現実になるとは思えなかった。 だが、中森は自信有り気に言った。
「少し、調べてみましたが、弥くんは学力の面では何も問題ないようですし、今からみっちりやれば、来年の受験に間に合わない事も無いと思うんです」
「し、しかし、弥は……」
口篭った父親に、中森は微笑んで見せた。
「大丈夫ですよ。もう、色も随分見えるようになっているみたいですし、外に出ることにも徐々に慣れさせれば、普通に学校に通えるようになると思うんです」
「本当ですか……?」
疑わしげな両親に、中森ははっきりと頷いて見せた。
「私が、やって見たいんです。私と会ったことが切欠で色が見えるようになったと言うなら、きっと私たちの間には何か縁があるんだと思える。だから、…お許しいただけませんか?」
両親も、弥の変化に中森の存在が大きく関っている事は分かっていた。それだけに、彼に対する信頼も大きい。少々の不安はあったが、弥の成長の為を思って、息子を彼に任せてみる決心をした。
だが、肝心の弥に大学に行きたいという意思があった訳ではない。
「大学を受験してみないか?」
そう、中森に言われた時、弥は
「何故?」
と訊きそうになった。
だが、中森がそれを望んでいるのだと気付いたので、口を閉ざしたままで頷いた。
中森が望むのなら、そうすることで傍にいてくれるのなら、弥は言う通りに大学に行こうと思った。
それに、中森の勤めている大学に入学すれば、もっと近くに居られるかも知れない。
元々、勉強するのは嫌いではなかった。学校へは通っていなかったが、教科書は家に居て殆ど読み尽くしていた。
「うん、そうする」
素直にそう言うと、中森はとても満足げな顔をした。だから、弥は自分の返事が間違っていなかったのだと思った。
頑張って勉強して大学に入れば、中森が自分を好きになってくれるかも知れない。かつて姉を見つめたような目で、自分を見てくれる日が来るかも知れない。
ただそれだけが、弥の望みだった。



間も無く、弥は中森のマンションへ住居を移し、受験体制に入った。
夜は自分の手が空いている限り、中森が熱心に勉強を見てくれた。
朝、中森が出掛けた後も、弥は1人で勉強を続けた。
だが、元々余り食べることに興味の無い弥は余りに夢中になり過ぎて食事を忘れてしまうのだった。
それを知って、中森は弥に食事の時間になったら鳴るように、目覚まし時計をセットして渡した。
だが、それでも弥は食事をするのを忘れてしまうのだ。
「また、食べなかったのかい?頑張るのはいいけど、それじゃあ身体に悪いよ。食事はちゃんと取らなけりゃ」
帰宅して、また、手の付けていない食事をテーブルの上に見つけ、中森は溜め息混じりに言った。
「あ……」
言われて初めて食べていなかったのを思い出し、弥は慌てて立ち上がった。
「今、食べるから…」
食卓に着こうとすると中森が遮った。
「もう、夕食の時間だよ。今、すぐに用意するから、一緒に食べよう」
「あ…、うん…」
毎日、中森は大学から帰ると食事を作る。以前は姉が作っていた。
それを、弥は思い出した。
だが、弥には何も出来ない。だから今は、中森がやるしかなかった。


次の日、中森が出かけて行った後で弥は自分の家へ帰った。
「あら、どうしたの?弥。勉強は進んでる?」
「うん…」
出迎えてくれた笑顔の母に頷き、弥はそのまま台所へ入った。
「ねえ、ご飯って、どうやって作るの?」
「え?…なあに急に……・」
母が驚くと、弥は台所を見回しながら言った。
「ご飯…、作ってあげたい」
「弥……」
驚きと喜びが一編に訪れ、母は最初どうしていいか分からない様子だった。だが、すぐに気を取り直すと、ご飯の炊き方から丁寧に教えてくれた。
帰宅した中森はすぐにその匂いに気が付いた。
「只今。何だかカレーの匂いがするなぁ。お母さんでも来てくれたの?」
食卓テーブルに座って参考書を読んでいた弥は、顔を上げて首を振った。
「ううん。僕が作った」
「え……?」
絶句して、中森は確かめるようにまじまじと弥の顔を見つめた。
「今日から、僕がやる」
弥の口から出た言葉を聞いて中森は更に驚いた様子だった。
「い、いや、しかし…」
弥が自分からこんなことを言い出すなんて、勿論中森は期待などしていなかった。それどころか、引き取った時点で、彼の世話はすべて自分がしなければならないと思っていたのだ。
「僕、ちゃんとやるよ?ちゃんと出来るよ?」
「弥……」
中森は弥に近付くと子供にするようにその頭を撫でた。
「ありがとう」
嬉しそうな中森の笑顔を見て、弥も嬉しそうな表情になった。
美味しい、と何度も何度も言い、中森は弥の作ったカレーを食べた。弥はそれを見て、自分のしたことが間違っていなかったのだと思った。
誰かの為に、何かをしてやりたいという思い、それが自然に湧き上がってくるほどに、いつしか弥は変化していたのだ。