歩いていこう
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だが、弥の胸の内とは関係なく、いよいよ、中森と姉の結婚式の日がやって来た。
中森に家族が無いこともあり、披露宴はしないことになったらしい。
町の小さな教会で式だけを挙げることになり、弥も当然、着た事も無い堅苦しい服を着せられて会場へ入った。
控え室は一応、新郎側と新婦側に分かれていて、弥達は新婦側の控え室に入った。
だが、弥はすぐに部屋を出て、中森を探しに行った。
中森は、部屋には居なかった。部屋から外へ通じるドアを出て、小さな庭を眺めていた。
弥も庭に出ると中森に近付いて行った。
「弥くん、お姉さんに会ったかい?」
訊かれて弥は首を振った。
姉はまだ、仕度が出来ていないらしく、控え室には現れていなかった。
「綺麗だろうなぁ……」
呟いた中森の顔を見上げて、弥はそっとその腕を掴んだ。
「行っちゃうの……?」
「え……?」
驚いて見下ろすと、弥の頬につっと涙が伝って落ちた。
「弥くん……?」
ほろっほろっと落ちる涙を見て、中森はうろたえてしまった。
「どうした?どうして泣くの?」
「泣く……?」
言いながら弥は自分の頬を伝う涙を拭き、そして、濡れた指を不思議そうに見つめた。
赤ん坊の時は別として、弥が泣いたのはこれが初めてだった。それほどの感情の昂ぶりが、弥に訪れることなど無かったからだ。
これで中森は完全に姉のものになってしまうのだ。行ってしまうのだと思ったら、胸が苦しくて堪らなくなってしまったのだ。
「私は何処へも行ったりしないよ?まあ、新婚旅行へは行くけど、すぐに帰って来るし、その後は弥くんの家から歩いて来られる位近い所に住むんだよ」
中森には勿論、弥の言った意味が分かってはいなかった。だから、結婚したら姉と一緒に何処か遠くへ行ってしまうのかと弥が心配したのだと思った。
「そうだ。弥くんにもお土産を買ってくるからね?何がいいかなぁ……?」
「お土産…?」
「そう。新婚旅行のお土産。何がいい?」
そう訊かれて弥は中森の顔や身体に目を泳がせた。
黒いタキシードに白いシャツ。胸には濃いピンクの薔薇の花。
中森と会って、初めて知った、色。
「綺麗な……色のものがいい」
弥はそう答えた。
「綺麗な色のもの……?」
「うん、綺麗な色のもの」
「綺麗な色なら、どんなものでもいいの?」
「うん…、何でもいいよ。……何でもいい」
どうせ、どんな物でも中森が触っていなければ色は見えない。
それでも弥は、“綺麗な色”が欲しいと思った。
「うーん…、綺麗な色のものか…。分かった、探してみるよ」
そう言って笑った中森の顔を見ると、またじんわりと弥の目が熱くなってきた。
だが、今度は涙が零れることは無かった。
「あら、弥ちゃん、こんな所にいたの?」
後ろから声を掛けられて弥と中森は振り返った。
父の姉に当たる伯母が弥を探しに来たのだった。
「お支度が出来ましたよ。中森さんもそろそろですから……」
にこやかにそう言われ、中森は返事をすると部屋に戻って行った。
「弥ちゃんも、いらっしゃい」
手招きされ、弥も無表情で伯母のいる方へ歩き出した。
式が終わった後、姉と中森は10日間のイタリア旅行へ旅立って行った。
弥には元の日常が訪れ、姉の事も中森の事も口にすることはなかった。
旅行から帰って来ると、まだ時差ボケが治らない内に姉が土産を持ってやって来た。
父にはワイン、母にはブランド物のバッグなどを渡し、最後に弥への土産を取り出した。
「これは弥によ。庸介さんが選んでくれたのよ」
箱を開けると、丁寧に厚手のビニールで包まれた四角いものが出てきた。
包みを開くと、それはガラスで出来た時計だった。
「ベネチアングラスよ」
「まあ、綺麗ねえ……」
感心するように言った後、母はハッとして口を閉じた。
その、ガラス細工の美しい色合いが弥には見えないと気付いたからだった。
だが、驚きに目を見開いたまま、弥は呟いた。
「綺麗な…色…」
「え……?」
姉と母が顔を見合わせていると、弥は薄っすらと笑って、時計をゆっくりと撫でた。
「綺麗……。いろんな色が混じってる…」
薄い黄色やオレンジ、白が混じったマーブル模様のガラスに、紫や青が混じった細いガラスで文字盤の周りが縁取られていた。それを指で辿り、弥は嬉しそうに見つめていた。
「ホントに不思議ねえ…」
そんな弥を見つめ、姉はそう呟いた。
「庸介さんに会ってから、弥はどんどん変わっていくわ」
また涙ぐんだ母は、その言葉に何度も頷いた。
「弥、姉さんの家に、遊びにいらっしゃいな」
姉に言われて弥は顔を上げた。
「遊びに……?」
「そうよ。引越しの時も来なかったし、いらっしゃいよ。すぐ近くなのよ」
「行ってもいいの?」
「勿論よ、庸介さんだって喜ぶわ。今日も、ホントは一緒に来たかったんだけど、大学の方が休めなかったから来られなかったの。弥がお土産を気に入るかどうか、とても気にしていたのよ」
そう言われて、弥は躊躇うように何度も姉の顔と時計を見比べた。
「いやならいいのよ?」
心配そうな母に言われて、弥は心を決めたように姉の顔を見た。
「僕、行く…。行って、お礼を言わないと」
「弥……」
終ぞ、弥の口から出ようとは思わない言葉だった。
誰かに礼を言いたいなどという感情が弥に芽生えたことは、2人にとって言い知れない驚きだったのだ。
「そ、そうね。そうしたら庸介さんも喜ぶわ。行きましょう、弥」
「うん」
「お母さん、晩御飯はウチで食べさせるから心配しないで」
妙に興奮してそう言う姉に、母も何度も頷いて見せた。
大事そうに時計の入った箱を胸に抱え、弥は姉に付いて新居のマンションへ行った。
姉に、新居の中を案内してもらいリビングに落ち着くと、テレビを見ながら中森の帰りを待った。
姉が夕食の仕度をしに台所へ入ると、弥は箱から時計を取り出して飽くことなく眺めていた。
中森が触っていなくても、その色が見える。それを持っている自分の手の色も、少しだけだが接触している部分が見えた。
「綺麗……」
また呟いて弥は時計の縁を指で辿った。
これは、中森が自分にくれたもの。中森が自分の為に選んでくれたもの。
だから色が見えるのだ。
やっぱり中森は“運命の人”なのだ。弥はそう確信した。
夕食が出来上がる頃、中森が帰宅した。
弥が来ていると知ると驚いたようだったが、居間に入って弥の顔を見ると、すぐに嬉しそうな笑みを見せた。
「やあ、いらっしゃい。来てくれるなんて思わなかったよ。嬉しいよ、弥くん」
「時計…、ありがとう」
「気に入ってくれた?」
「うん。綺麗…」
「貸してごらん。どんな色か教えてあげるよ」
手を出した中森に弥は首を振った。
「見えるよ」
「え……?」
「見えるの、これ。全部見える。どの色も……」
「ほんと……?」
驚いた中森に、隣にいた姉が頷いて見せた。
「そうなんですって。私もお母さんも驚いたわ」
「そうか……」
中森は嬉しそうに弥を見た。
「へえ…。良かったなぁ」
心から嬉しそうに中森は笑った。
弥もそれに頷くと、笑顔を見せた。
もっと何か言いたい。そう思ったが、弥には思いつく言葉が無かった。
自分の感情をどう表せばいいのか、その術を知らない弥には難しくて出来なかったのだ。
「さあ、それじゃあご飯にしましょうか?」
弥の胸の内など知らず、姉に声を掛けられると、中森はすぐに振り返ってしまった。
「あ、手伝うよ」
そう言うとニ人で台所に入り、夕食の準備を始めた。
その仲睦まじい姿がカウンターの隙間越しにリビングにいる弥の目に入った。
すると、忽ち、弥の弾むようだった心が萎んでいった。
弥は時計を丁寧に包み直すと箱に仕舞って胸に抱えた。そして、姉達に黙って、ひっそりとマンションを後にした。
「僕じゃ…、駄目なのかな……?」
マンションの外に出ると、弥は振り返って建物を見上げた。
そう考えると、また目が熱くなってきた。弥は首を少し振り、家の方へ向かって歩き出した。
「弥くんッ…」
まだ、十歩も歩かない内に、後ろから中森の呼ぶ声がした。
振り返ると、息を切らせて激しく肩を動かしながら中森が弥を見ていた。
「どうしたの……?」
余程走って来たのだろう、中森はやっと息を整えると弥の肩に手を置いて言った。
「帰る」
「どうして?ご飯食べていったらいいだろ?姉さんが一生懸命作ってくれたんだよ」
「邪魔だから…」
「え……?」
「僕、……邪魔」
「何言ってるの?そんな訳無いだろ?ほら、戻ろうよ。ご飯食べたら私が家まで送って行くから。ね?」
腕を掴まれても弥は動こうとはしなかった。その代わりに中森の顔をじっと見上げた。
「僕のこと、嫌い?」
「え?」
「僕が変だから、嫌い?色が見えないから?上手く喋れないから…、だから、嫌い?」
誰かに好かれるとか、嫌われるとか、それがどんなことなのか、今まで弥にとってはどうでもいい事でしかなかった。
だが今、中森に嫌われているのは嫌だと思った。そして、好かれる為には、一体自分はどうすればいいのか知りたかった。
「嫌いな訳無いだろ?君は結子の弟なんだよ。私にとっても大事な弟だ」
そう言われて優しく笑い掛けられても、何故か弥は少しも嬉しくなかった。
「姉さんの弟だから好きなの?そんな理由でも、好きになってもらえるの……?」
人が誰かを好きになる基準が、弥には理解出来ない。だから、中森の言ったことが本当なのか、知る術を知らなかった。
「弥くん……」
溜息混じりに中森は言った。
「頼むよ。困らせないでくれ」
その言葉を聞いた時、弥の胸は今までとは比べようも無い程に痛くなった。
「……困るの…?」
小さな聞き取り辛い声でそう言うと、弥は中森に背中を向けて歩き出した。
困らせていると言う事は、多分中森は自分を好きではないのだと思った。
もうこれ以上、弥にはどうしていいのか分からなかった。そんな自分がもどかしい。
そして、これらの感情は、すべて弥の中に初めて生まれたものだった。
「弥くんッ、待ちなさい…」
すぐに追いかけて来て中森が肩を掴んだ。
「一体、何が不満なんだ?私にどうしろって言うんだい?」
困惑しきった顔で中森は言った。
弥はただ首を振り、黙って中森を見上げた。
「戻ろう?姉さんも心配してる。頼むから、ね?」
宥めるように言い、中森は手を上げて弥の髪を撫でた。
弥はゆっくりと頷くと、中森の掌の温もりを味わうように、ほんの少しの間目を閉じた。