歩いていこう
物心付いた時から、弥の世界に“色”は存在しなかった。
知らないのだから、別段、変だと思うこともなく、ただ、皆が青だの赤だの言う度に、意味が分からずに戸惑うだけだった。
弥の世界は白と黒だけ。
それが薄いか濃いか、それだけのことだった。
幼稚園に上がる頃には、さすがに両親も異常に気づき、弥を何度も医者に見せたりもしたが、その度に目に異常は無いと診断された。
小さい頃から口数が少なく余り感情を表現しない子供だったが、自分の子をおかしいと認めるのが怖かったのだろう、弥が“心の病”と診断された時、仕方なく初めてそれを受け入れたのだった。
姉の結子から十近くも離れて出来た男の子だけに、両親も弥のことを事の他可愛がっていたし、姉もまた、年の離れた弟を愛しんでいた。
弥がまた、とても愛くるしい容貌をした子供で、彼を見た誰もが思わず"可愛い"と口にするほどだったから、家族は余計に彼のことが不憫でならなかったのだ。
だが、弥自身は勿論、自分を病気だとも異常だとも思っていなかった。
知能も遅れている訳ではなく学力は同じ年頃の子供よりも優れているくらいだったし、身体も何処にも異常はなかった。
ただ、平均よりはかなり小柄で華奢な感じはしたが、それは食が細い所為だった。
色が見えない所為もあるのかも知れないが、弥は食べるという事にあまり興味が無かった。
黙っていれば、何食も抜いてしまうので、大きくなってからも家族は、いつも弥が食事を摂ったかどうか気を配っていた。
他人にまるで興味を示さず、人と関ることを拒絶しているかのように見える弥。
だが、不思議なことに弥は、いつか、自分の色の無い世界が、みんなの言うように赤や青や緑の色に染まっていくような気がしてならなかった。
殆ど喋らない弥のことだったから、勿論、そんな思いを今まで誰にも言ったことは無かった。でも、弥はいつも心の何処かでそう思っていた。
いつか、自分の世界に、色を連れてやって来る人が居る。そう思えて、そして、それを信じていた。
その人は自分の運命の人で、自分に今までとはまったく違う世界を見せてくれるのだと信じていたのだ。
そして、その人は本当にやって来た。
結婚相手として、両親に引き合わせる為に姉が中森を連れて来た時、弥はまだ中学生だった。
と言っても、学校には殆ど行っていなかった。弥の状態では、普通の生徒と同じように行動するのは難しかったからだ。
殆ど部屋に居て、テレビやDVDを見るか、本を読んでいる弥にとっては、“他人”と接触する機会は中々無い。
そして、別段、接触したいとも思わなかった。
その日も、今日は姉の婚約者が来るからと母に言われ、仕方なく弥は居間に居た。弥にとっては、例えそれが自分の兄になる人物だとしても少しも興味などなかったのだ。
「中森庸介さんよ」
だが、部屋に入って来た彼を姉が紹介した時、弥の目は中森に釘付けになってしまった。
何故なら、生まれて初めて弥は“色”を見たからだった。
どうしてだか分からない。だが、その人と、その周りにだけ、薄っすらとだが色が見えた。
中森の出現と共に、白と黒以外の初めての“色”が弥の目に映ったのだ。
これが、驚きでなくてなんだろうか。
その人の肌の色。
髪の色。
着ているスーツの色。
ネクタイの色。
不思議だった。
本当に、その人だけ、まるで世界が違っていた。弥は思わず近付くと、恐る恐る中森の腕に触れた。
「弥?どうしたの…?」
驚いた姉が問い掛けても弥は目を見開いたまま、中森をじっと凝視している。
勿論、弥が他人に興味を示す事など初めてで、自分の方から誰かに近付いて行くことなど有り得なかった。
姉も両親も戸惑う中、そんな弥の手を取って中森は笑い掛けた。
「こんにちは、弥くん」
弥は不思議そうに中森を見上げると、そっと手を伸ばして彼の笑った頬に触れた。
「人……の、色…?」
その呟きを聞いて、家族は驚いて弥と中森の傍へ寄って行った。
「弥…?色が分かるの?」
姉が尋ねると、弥は首を傾げたまま僅かに頷いた。
「この人…、違う…。ここも、ここも…全部…」
中森のシャツやネクタイに触れながら弥は嬉しそうに笑った。
感情を表に出さない弥だったから、家族でさえ、こんな風に笑うのを見たのは初めてと言っても良かった。
息子の笑顔を見て、思わず母親は泣き出していた。父親も姉も、驚きながらも喜びに溢れた顔で弥を見た。
そして、当の弥は中森の顔を嬉しそうに見上げて言った。
「僕の所へ来てくれたの?」
「え……?」
中森が戸惑って聞き返すと、喜んでいた家族も忽ち笑顔を強張らせた。
「僕に色を持ってきてくれたの?…いつか、来てくれるって思ってた」
一体何を言い出したのかと、家族は困惑するばかりだった。弥の運命の人の話など、誰も聞いた事が無かったからだ。
弥は馬鹿ではない。
だが、人と接触しないことと、人に興味を持たないことから、全くと言っていいほど世間を知らなかった。
そして、喋らず、感情を出さない所為か、時に、回りの人間は彼が少し頭の弱い人間のように感じてしまう。だから、話しかける時は、小さい子供にそうするようにゆっくりと噛んで含める様に説明することが多かった。
そしてそれは、家族も例外ではなかった。
「弥……」
姉に呼びかけられ、弥は怪訝そうな顔で振り返った。
その声に何かを感じたからだ。
姉はいつものように、ゆっくりと語りかけるような口調で弥に言った。
「中森さんはね、姉さんと結婚するのよ。弥のお兄さんになるの」
「お兄さん……?」
再び振り返り、弥は中森を見上げた。
「宜しくね、弥くん」
また優しい笑顔を中森に向けられたが、もう弥は笑わなかった。
「僕の所へ来てくれたんじゃないの…?だって……、そんなのおかしい…」
また、もとの無表情に戻り、弥は言った。そして、誰の返事も待たずに部屋を出て行ってしまった。
自分の運命の人なのに、何故中森は姉のものなのだろう。弥には、それがどうしても理解出来なかった。
中森は、自分の所へ“色”を運んできた。間違いなく彼は、自分の“運命の人”だった。
「おかしいよ……」
呟くと、弥は自分の部屋に入って行った。
それから、結納や式の打ち合わせなどもあり、中森は頻繁に弥の家へ来るようになった。
人に興味の無い弥だったが、勿論、中森だけは例外だった。
中森は、姉よりも一回りも年上で、姉が通っていた大学で日本文学を教えている助教授だった。
早くに両親に死別し、叔父夫婦の家で育ったらしいが、その叔父と叔母も中森が大学を卒業して間も無く、次々と他界してしまったと言う。だから彼は、今は家族も無く一人きりらしかった。
弥は、彼が来ると部屋から出て来て、じっと不思議そうに見つめている事が多かった。
最初に見た時が偶然だったのかと何度も確かめているのだが、中森とその回りにだけ色が見えるのは変わらなかった。
いや、それどころか、見る度に色がはっきりしてくる。そして、それは彼の周りから徐々に広がっているのだった。
中森に会う度に、色の見える範囲が大きく濃くなっていく。それなのに、中森は自分の運命の人ではないのだろうか。
弥には、どうしてもそれが納得出来なかったのだ。
母と姉が夕食の仕度をしに台所へ入り、父も席を外して2人きりになると、弥は中森の傍へ近付いていく。そして、そっとその身体に触れたりするのだった。
中森も、もう慣れてしまって驚くことは無かったが、いつも少々困惑気味の笑みを見せて弥を見た。
「何色……?」
だが、弥の方は無邪気な子供さながらに目を輝かせて、中森の服を指差しては色を訊ねたりする。そうすると、中森はいつも丁寧にその色を説明してくれた。
「これはね、水色。青の薄い色で、綺麗な水や、それから晴れた日の空の色と良く似ているんだよ」
「水と……空…?」
「そう」
頷きながら笑い掛けられて、弥も薄っすらと笑った。
滅多に見せることの無い弥の笑顔だったが、中森にだけは度々見せるようになっていた。だが、それは2人きりのときに限られていたので、家族にも分からない事だった。
「空は、こんな色なの…」
今は暗い窓の外に目をやって弥が呟くと、その横顔を眺め、中森は言った。
「弥くんの髪は綺麗な色だね。色素が薄いのかな…?綺麗な栗色だ」
すると弥は、自分の髪に手をやりながら不思議そうな顔で中森を見た。
「栗色…?食べる、栗…?」
中森はそれを聞くと、少しおかしそうに笑った。
「そうだよ。食べる栗。漢字で書くとそうなるね…。でも栗の中身じゃなくて外側の色だよ。茶色の事をそう言うんだ」
「茶色…」
弥は少し自分の髪を引っ張って目の端でそれを見た。
「茶色でも、髪の毛の場合は少し薄い色のことを言うのかな?」
そう言いながら、中森は弥の引っ張った髪に手を触れた。
「あ……」
横目で髪の毛を見つめたまま、弥が声を上げた。
「見えた!髪の毛の色…!」
自分の髪の色を初めて知った弥は、思わず声を高めた。
すると、母と姉が驚いて台所から顔を出した。
「弥…?どうかしたの?」
叫ぶどころか、声を出すことも珍しい弥だった。姉と母が驚くのも無理は無かっただろう。
「僕の髪の毛、栗色だって…」
髪を摘んだまま、2人を見上げて弥は嬉しそうに笑った。
「弥……」
それを見て、母はまた涙ぐんだ。
まるで普通の子供のように、こんな無邪気な様子など弥が見せる事は無かったからだ。
だが、姉と中森が顔を見合わせて嬉しそうに笑い合うと、弥の笑顔はすっと消えてしまった。突然、いつも通りの無表情になり、立ち上がった弥を皆は驚いて見上げた。
「弥…?どうしたの?」
「部屋に行く」
「でも、もうすぐご飯よ?」
「いらない……」
感情の無い声でそう呟き、弥は居間を出て行った。
どうして、姉のものなのだろう。
中森は、どうして自分のものでは無いのだろう。
そう思うと、とても嫌な気持ちになる。こんな感情を持つことも、弥にとっては初めてのことだったのだ。