探しもの


-8-

翌日は花屋の定休日だった。
柚木は閉まっているシャッターの前を通り過ぎて事務所へ向かった。
昨日は無理をして、1人で2本の徳利を空けてしまい、今日は二日酔いらしく少し頭痛がする。
だが柚木は、構わずに仕事を始めた。仕事をしている内に、良くなるだろうと思っていたのだ。
だが、頭痛は治まらず、柚木は思わず何度もこめかみを押さえて揉んだ。
「頭痛ですか?柚木さん」
隣で芝田が心配そうに訊いてきた。
「はい…。ちょっと昨夜飲み過ぎて…」
「へえ?珍しいですねえ、柚木さんが二日酔いとは…」
酒に弱い柚木が普段殆ど飲まないのを、芝田も良く知っていたのだ。
「薬、あげましょうか?」
「あるんですか?」
「ええ、確か持ってる筈…」
芝田は机の引き出しを捜して、薬の箱を見つけ出した。
「はい、どうぞ」
「あ。どうも、ありがとうございます」
頭を下げた柚木に、芝田はニヤニヤと笑って身体を寄せて来た。
「なにか、飲みたくなるようなことがあったんですか?まさか、色っぽい話とか…?」
そう訊かれて、柚木は僅かに顔を赤くした。
「い、いえ…。そんなんじゃありませんよ」
柚木の答えに芝田は肩を竦めた。
「ですよね…。柚木さんの口から女性の話題なんて出たこと無いもんなぁ…」
首を振りながらそう言い、芝田は仕事に戻った。
柚木は苦笑すると、薬の箱を持って給湯室に入り、コップに水を汲んで薬を飲んだ。


そのお陰か、何とか頭痛も治まり、柚木は定時まで仕事をすると事務所を後にした。
帰りに、小栗の店へ寄ろうかとその前まで来た。
花屋は休みで章生の姿を見ることは出来なかったが、今日はゆっくりとコーヒーを飲みながら小栗と話をしたいような気持ちがしたのだ。
大きな窓の向こうに、小栗の姿を探そうと目をやると、柚木の目に飛び込んできたのは別の人の姿だった。
「芹……」
すぐそこに、章生がこちらを見ていた。
立ち竦んだ柚木を見て、章生は腰を上げた。
その姿が移動して出口へ向かうのを、柚木は馬鹿みたいに、ただじっと目で追った。
何故なら、目を動かすだけで精一杯だったからだ。身体は、まるで硬直したようにピクリとも動かなくなっていた。
出口から姿を現した章生は、まだ立ち竦んでいる柚木に足早に近付いた。
「一緒に、コーヒー飲みましょう…」
静かにそう言って、章生は笑みを見せた。
柚木は答えられなかった。
何も言えず、そして、瞬きさえも出来なかった。
すると、その手を、章生が掴んだ。
「行きましょう?さあ…」
動けなくなってしまった柚木を励ますようにして、章生は手を引き、店の中へ連れて行った。
「いらっしゃい…」
小栗は柚木を見てそう言ったが、その目は少し心配そうな色をしていた。
「何にしますか?コーヒーでいいですか?」
まるで、崩れ落ちるように席に着いた柚木に章生は訊いた。

何故だろう。
何故、章生がここにいるのだろう。

どうして…。
どうしてなのだ…。

ぐらぐらと、胸の中で何かが揺れる。
柚木は自分の身体も、揺れているような気持ちがした。
水とお絞りを運んできた小栗に、章生が柚木のコーヒーを注文してくれた。
だが、柚木は小栗の顔も、そして勿論、章生の顔も見ることは出来なかった。
「ほんとに…、よく見えるんですね、ウチの店…」

ぷつり…と。

そのひと言で、柚木の中で張り詰めていた糸が切れた。
ホロッと、自分でも驚くほど急速に湧き上がってきた涙が、柚木の目から零れた。
「す…みませ……」
両手で顔を覆い、柚木はやっと、それだけを言った。
多分、昨日の女の子だろう。
あの後、彼女が店に行って章生に告げたに違いなかった。
「謝ることなんか無いですよ。柚木さん…」
章生の温かい手が肩に触れ、柚木はビクッと身体を震わせた。
「ずっと…、見ててくれたんですね…?」
途端に、ガタッと、突然柚木は立ち上がった。
「か、帰ります…。す…、すみませ…・・」
居たたまれなかった。とても、ここには居られなかった。
知られてしまった。
自分の浅ましい感情もすべて、彼に知られてしまったのだ。
柚木にはもう、この場から逃げ出すことだけしか考えられなかった。

毎日見ていたこと…。
こっそりと、彼を見ていたことも…。
すべて…。

足が震えた。
体中、全部が震えた。
だが、そのことにさえ柚木は気付いていなかった。
碌に足が動いていないのにも気付かず、前のめりになりながら、必死でそこから逃げ出そうとした。
足が縺れる。
身体がふらつく。
それでも必死で前へと進もうとした。
だが、自由の利かなくなった足は、歩道のほんの僅かな段差に反応出来なかった。
躓いて、柚木は激しくよろめいた。
地面が、急に目の前に近付く。ハッとして手を出そうとした時、ガシッと何かに支えられて身体の落下が止まった。
「大丈夫ですか?」
恐る恐る振り向くと、そこには章生の顔があった。
「は…、離して…」
支えてくれた礼を言う余裕さえ無かった。すぐに顔を背け、柚木は章生の手から逃れようともがいた。
もう、見ないで欲しい。頼むから、これ以上、自分を見ないで欲しいと思った。
「駄目です…」
だが、章生の腕は柚木を離してはくれなかった。
「逃げないで下さい。…頼むから…」
「い……」
強張る両手で、柚木は再び自分の顔を覆った。
その醜さを、出来る事ならすべて覆い隠してしまいたかったのだ。
「柚木さん…、俺、…嬉しかったですよ」
そんな章生の慰めの言葉が余計に辛い。
柚木の手に隠された瞳から、再び涙が滲んだ。
「どこかで話しましょう?俺の気持ち、ちゃんと聞いてください」 今更、こんな自分に、一体どんな言葉をくれるというのだろうか。
章生の言葉に柚木が首を振ろうとした時、後ろから誰かが声を掛けてきた。
「風邪引きますよ。良かったら、店の裏に部屋が有りますから、どうぞ」
出て行った2人を心配して、小栗が追って来てくれたのだった。
章生は小栗に礼を言うと、項垂れたままの柚木を連れて彼の後に着いて行った。
店の裏手に別のドアが有り、そこから入ると小さな台所が付いた六畳ほどの部屋があった。
「俺が休憩取ったり、仮眠取ったりするのに使ってる部屋で、あんまり綺麗じゃ有りませんけど…」
小栗は別の場所に住んでいるようだったが、たまに泊まることもあるらしく、部屋の隅には簡単な寝具が畳まれて置いてあった。
部屋の灯りと暖房をつけると、小栗は2人を残して出て行った。
今まで火の気の無かった部屋の中は、少し寒かった。
章生は柚木の手を引いてテーブルの前に座るように言った。
1枚だけあった座布団に、章生は柚木を座らせた。
「柚木さん、さっきも言いましたけど、俺…、本当に嬉しかったですよ?本当です…」
ギュッと、膝の上で握られた柚木の拳に更に力が篭る。その所為で間接が、白く浮き出て見えた。
「最初に、誤解を解いておかないと駄目ですよね?きっと、柚木さんは誤解してると思うから……」
一体、自分が、何を誤解しているというのだろうか。
ほんの僅かに顔を上げ、柚木は章生の話に耳を傾けた。
「美鈴ちゃんの…、叔母の言ったことは違うんです。あれは、叔母が勝手にそう思い込んだだけのことで、俺は、1度だって柚木さんの事を死んだ親父とダブらせて見ていた事なんか無い」
柚木の目に、向かい合って座った章生の大きな手が見えた。
その指が、僅かに震えているように見える。
それは、寒さの所為なのだろうか。
「柚木さんは気付いてなかっただろうけど、見ていたのは、貴方よりも俺の方が先なんです」
「え…?」
また、ほんの僅かに柚木の顔が上を向いた。
「俺…、店の中から柚木さんが出勤して行くのを毎日見てたんです。…知らなかったでしょう?」
震えているのは指だけではなかった。章生の声も、僅かだが震えていた。
柚木は目を上げて、やっと彼の顎の辺りまでを見ることが出来た。
「去年の春頃…、パーティー会場用のフラワーアレンジを頼まれたんです。…それが、美鈴ちゃん抜きで俺がやった初めての仕事でした。でも、見事に駄目出しをくらって、全部やり直しになってしまいました。結局、美鈴ちゃんが全部やり直して納めたんですが……。正直、落ち込みました。花を随分無駄にしたことも、すごく悲しくて……」
目を向けると、膝の上にあった章生の手も柚木と同じように硬く握られていた。
「やっぱり、センス無いんだなって…。幾ら勉強しても、無理なんだろうかとか……。そんな時です。俺が、毎朝、店の前を通る貴方に気付いたのは…」
章生は口を噤み、沈黙が2人を包んだ。
柚木はやっと恐る恐る目を上げて章生の顔を見た。
「朝はみんな忙しくて、人のことなんか構っていられない。慌しく早足で行き過ぎていく人ばかりです。それなのに貴方は、店の前に並んだ鉢が倒れていたのを、足を止めて直していってくれました。しゃがんで、ひとつひとつ丁寧に……」
章生の目がじっと柚木に注がれた。
「そのことにお礼も言えず、俺はただ店の奥から貴方を見ていた。ただ、鉢植えに笑いかけているような貴方の姿が、目に焼きついて……。些細な事だと言われるかも知れません。でも、それから俺は、毎朝、表を通る貴方の姿を探すようになっていたんです」
見つめていられなくなり、柚木は章生の目から視線を外した。
顔が熱い。
耳までも、火照っているのがはっきりと分かった。
「俺がアレンジしたウィンドーに飾ってある花籠も、貴方は通る度に見てくれた。不思議なもので、見てくれる人がいると思うと、アレンジにも今までより張り合いが出てきた。…そしたら、段々に買ってくれる人も増えて……」
クスッと章生が笑うのが聞こえた。
「以前は、美鈴ちゃんがアレンジした物しか売れなくて、俺のばかり売れ残っていたんです」
躊躇いがちに章生の手が伸び、その大きな手でゆっくりと柚木の拳を包んだ。
「ずっと、見てたんです。だから、あの雪の日に出会えた時、とても嬉しかった。貴方と話がしたいって、ずっとそう思っていたから……」
柚木の硬く握られた拳が、章生の手の中でゆっくりと開いていった。
「本心を知られたくなかった…。貴方を怖がらせて、もう会えなくなったら嫌だと思ったから……。だから、貴方に避けられた時、もしかしたら知られてしまったのかも知れないと思ったんです。怖かった、本当に…」
開かれた柚木の手が、章生の指に絡んだ。
そして、ゆっくりと繋がれていく。
「柚木さんが俺を見ててくれたのは、同じ気持ちだって思っていいんですよね?」
その問いに答えるように、柚木の手にも力が入る。
その途端に、章生の腕が柚木の身体を包み込むように抱き寄せた。
「私なんかで……?」
その最後の躊躇いを打ち消すように、章生の腕は柚木の身体を激しく抱きしめた。



「送って行きます」
そう言って、章生は小栗の店から忘れて行った柚木の鞄を取って来てくれた。
一緒に出てきた小栗に礼をいい、彼に見送られて2人は歩き出した。
黙ったまま駅まで歩き、そして、ずっと無言のまま電車に揺られて柚木が降りる駅まで着いた。
ひと言も言葉を交わさなかったのに、こんなにも暖かく幸せなのは何故だろうかと柚木は思った。
ただ、こうして章生と居るだけで、そして、その心も傍に居るのだと分かった事で、指先までが温かかった。
「こっちです」
駅を出て、柚木はそう言って先に立って歩き出した。
章生はすぐに柚木に肩を並べた。
柚木は傍らにある彼の腕を見た。
この腕に掴まって歩いた夜、ずっとそのまま一緒に歩けたらどんなに幸せかと思った。本当に、この腕を再び掴んでもいいのだろうか。
そう思って見上げると、そこには自分を見下ろす章生の顔があった。
するり、と、章生が腕を絡める。そして、絡めた手から手袋を外すと、温かい掌が柚木の手を包み込んだ。
「もうすぐ、春ですね…」
静かにそう言った章生に、柚木は頷いた。
「ええ…」
「誕生日のプレゼント、何が欲しいか考えておいてください」
「……まだまだ、先ですよ…」
そう答えると章生は笑った。
「でも、その日は絶対に空けておいて下さいよ。俺だけの為に…」
その笑顔に頷き、柚木も笑みを返した。
だが、本当は、贈り物など何も要らない。何よりも大事なものを、自分はもう手に入れたのだと思う。
この、最後の奇跡が、出来るだけ長く続くことを願おう。その為なら、他の全てを棄ててもいい。
そう思って見上げた先に、白いものがチラチラと舞い出した。
「あ…、名残雪だ…」
呟いた章生の手を、柚木はギュッと握り締めた。
「急いで帰りましょう」
「はい…」
風花か、疎らに舞う雪はいかにも花びらのようで、軽々と踊るように落ちてくる。
その中を、寄り添いながら2人は家路を急いだ。