探しもの
-6-
翌朝、柚木が「スズや」の前を通ると、章生の傍にはあの綺麗な恋人が立っていた。
その存在に胸を痛めた柚木に、章生はいつもの笑顔で声を掛けた。
「おはようございます。二日酔い、大丈夫ですか?」
「あ、はい。なんとか…」
柚木が苦笑すると、傍にいた彼女が章生の袖を引いた。
「章生、この方が柚木さん?」
「あ、そう。柚木さん、紹介します。これが、俺の叔母で、この店のオーナーです」
「えっ……」
柚木は絶句したまま、まじまじとその女性を見つめた。
確かに、章生よりは少し年上だとは思ったが、まさか彼女が叔母だとは思いもしなかった。てっきり、その親しげな様子から恋人だとばかり思っていたのだ。
「叔母と言っても、年は七つしか違わないんですよ。章生の父親が長男で、私は年の離れた末っ子なんです」
驚きから立ち直れない柚木を見て、彼女はおかしそうに笑った。
「だからいつも、兄弟に間違われるんです」
「美鈴ちゃんが、若作りだからだろ?30過ぎてるんだから、もう少し落ち着いたらどうだよ」
憎まれ口を利いた章生を、美鈴は下から睨み付けた。
「煩い。あんたが年より老けて見えるのよっ。私は、普通ですー」
「いえ、お若いです。章生君と同じくらいかと…」
思わず柚木がそう言うと、美鈴の顔がパァッと輝いた。
「嫌だ、柚木さん。お上手ですねえ」
「あ、い、いえ…。すみません」
赤くなった柚木を見て、章生は笑みを見せた。
「いつもお世話になってるんだって話したら、一度、ご挨拶したいって言うもんですから…」
すると、美鈴が改まって柚木に頭を下げた。
「章生がお世話になっております」
「と、とんでもないっ。お世話になってるのは私の方で……」
柚木も慌てて頭を下げた。
「早くに兄が亡くなって、父親が居なかったものですから、柚木さんに甘えてるのかも知れません。ご迷惑でしょうが、これからも付き合ってやってくださいな」
「ちょっ…、美鈴ちゃん、余計なこと言うなよ…ッ」
真っ赤になって、章生は美鈴を遮った。
その顔を見て、柚木もやっと理解する事が出来た。
(そうか……)
何故、章生が自分のような男と過ごす時間を、あれほど大切に思ってくれるのかが、漸く分かったのだ。
章生は自分に、早くに亡くした父親の温もりを求めていたのかも知れない。
それなら、分かる。
彼の自分に対する執着のようなものは、そういう感情から出たことだったのだろう。
「いえ…。私で良ければ、幾らでも…」
すべてを悟ったような気持ちになり、柚木の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「柚木さん…」
「嬉しいです。そんな風に思ってもらえるなんて」
「ありがとうございます」
章生ではなく、礼を言ったのは美鈴だった。
「あ、そうだ…」
何かを思いつき、美鈴は店に入ると、ビニールの袋を持って戻って来た。
そして、そこに並べてあった小さな鉢植えを1つ、その中に入れた。
「これ、職場にでも飾ってくださいな」
「い、いえ、そんな…」
遠慮する柚木の手に、美鈴はそれを押し付けた。
「お近付きの印ですから。店の物で申し訳ないですけど…」
「いや…。じゃあ、遠慮なく頂きます。ありがとうございます」
頭を下げてそれを受取ると、柚木はもう一度2人に頭を下げてその場を離れた。
その、小さな福寿草の鉢植えを手に、柚木は職場へ足を向けた。
(そうか…、そうだよな…)
思い返すと、柚木の口元に寂しげな笑みが浮かんだ。
(それでいいんだ。当然じゃないか…)
この立場に、何の不満があるだろう。章生にそれほどまでに慕われて、不満などある訳が無い。
(なら、なんで……?)
なんで、これほどまでに心が寒いのだろうか。辛いと感じてしまうのだろうか。
職場に入ると、先に来ていた里奈に、柚木は鉢植えを渡した。
「わぁ、可愛いですねえ…。どうしたんですか?」
「さっき、通りがかりに花屋さんで貰ったんです。職場に飾ってくれって…」
「へえ。この前、所長が買った花束のサービスかしら?」
「うん…。そうかも知れないですね」
「ふうん…」
口元に笑みを浮かべながら頷くと、里奈は袋から鉢植えを出してキャビネットの上に飾った。
「里奈さん、花屋の彼を気に入ってるんですか?」
そう訊くと、里奈は少し頬を染めた顔を振り向かせた。
「やだな、柚木さん。昨日のは冗談ですよー?ちょっと、いいなって思っただけですから…」
「彼はいい青年ですよ。誠実で、働き者で、優しくて…」
言いながら、柚木の胸はどんどん苦しくなっていった。
自分は一体、里奈に何を言おうとしているのだろうか。
「だから柚木さん、冗談ですって、もう…。私、ちゃんと彼氏いますから」
「……そうでしたね…」
「でも、珍しいなぁ、柚木さんがこんな話をなさるなんて…」
クスッと笑われて、柚木も口元を緩めた。
「そうですね。……おかしいですね。私が、こんな話……」
「柚木さん……?」
急に表情を変えて、虚ろに言葉を口にした柚木に、里奈は怪訝そうに聞き返した。
柚木は我に返ると、もう一度口元に笑みを浮かべた。
「お茶、頂けますか?」
「…あ、はい。すぐに」
給湯室へ入って行く里奈の後ろ姿を見つめながら柚木は思った。
父親の役割など、出来る訳が無い。
章生を息子のように見つめるなど、自分には出来ない。彼に対する自分の感情は、明らかにもっと生々しいものだ。
それをもう、自分は嫌と言うほど知っている。
だからこそ、こんなにも苦しいのではないか。
「仕方ない…。苦しくたって、仕方ないよ…」
そう呟き、柚木はコートを脱いだ。
仕事を終えた後、柚木は久し振りに小栗の店のドアを開けた。
「柚木さん…。いらっしゃい」
カウンターの中から、小栗は嬉しそうに笑って柚木を出迎えてくれた。
「今晩は…」
珍しく、今日は店には誰もいなかった。柚木は定位置になっている、あの窓際の席に腰を下ろした。
すぐに、小栗がお冷のコップとお絞りを持ってテーブルに来た。
「いつもので、いいですか?」
「お願いします」
柚木の答えに頷き、小栗はカウンターの中へ戻って行った。
コーヒーのいい香りが漂うまでの間、柚木は何をするでもなく窓の外をじっと見ていた。
店の奥に居るのか、章生の姿は今は見えない。それでも、柚木は花屋の店先から視線を外さなかった。
「少し、いいですか?」
柚木のコーヒーを運んで来た小栗に声を掛けられ、柚木は顔を上げて頷いた。
「どうぞ…」
その答えに、小栗は彼の前に腰を下ろした。そして、柚木と同じように窓の外を眺めた。
「彼とは……?」
訊かれて、柚木は小さく首を振った。
「なにも…。何も変わりません、以前と同じです」
「でも、ずっとここへは来なかったのに…。それに、諦めるんだと、あの時は仰ってましたよね?」
その言葉に、柚木は薄っすらと笑った。
「彼の気持ちが、はっきりと分かったので…。だから、却って気が楽になったというか…」
「彼の気持ち…?」
「はい…。彼は、小さい頃にお父さんを亡くしたそうで…。だから、私に優しくしてくれたんでしょう」
それを聞くと、小栗の眉間に僅かに皺が寄った。
「それは、彼の口から直接聞いたんですか?」
「いえ…。でも、彼の一番近しい人の言葉ですから…・・」
柚木がコーヒーのカップを口に運んで一口飲むのを小栗は黙って見ていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「でも、あなたはどうなんです?あなたは、それでいいんですか?そのまま、彼の父親代わりとして、付き合っていくつもりなんですか?」
すると、柚木の口元に、また寂しげな笑みが浮かんだ。
「いいも悪いもありませんよ。仕方の無い事なんですから……」
言葉を切り、視線を窓の外に移した柚木の横顔を、小栗もまた黙って見つめた。
「長いこと……」
また口を開いた柚木の視線の先に、店から出てきた章生の姿があった。
「長いこと…、何かを探していたのかも知れません。……でも、見つかったからといって、それが自分のものになるとは限らないんです。諦めなければならないことの方が、多いのかも知れません」
「黙って、ただ諦めるんですか…?」
小栗の言葉に、柚木は彼に視線を移した。
「私には、貴方のような勇気が無い。…そういう人間は、諦めるしかないんです」
「…勇気……」
呟くように言うと、小栗は花屋の店先に居る章生を眺めた。
「たった一歩を踏み出すことが、どんなに大変か、分かりますよ。俺にもね…」
それに頷き、柚木もまた窓の外へ視線を移した。
章生の誕生日の朝、柚木は鞄の中にあの手袋の袋を入れて出勤した。
多分、これを受取ってもらえるだけで、とても幸せな気持ちになれるだろうと思った。
この手袋に、密かに託した自分の想いを、密かに手渡すような、そんな気持ちがしたからだ。
花屋の前を通ると、章生は柚木を待っていたかのようにそこに立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を返した柚木に章生は少し不安げな目をして訊いた。
「今夜、大丈夫ですか?他に予定とか…」
「いいえ、大丈夫です。楽しみにしてます」
柚木が答えると、章生の表情がすぐに明るくなった。
「良かった…。じゃあ、また今夜…」
「はい。それじゃあ…」
軽く頭を下げて、柚木は歩き出した。
仕事をしながら、柚木は自分が妙に落ち着いているのを不思議に思っていた。
誕生日を一緒に過ごして欲しいと言われたあの日、舞い上がるほどに嬉しかったあの気分は、今はもう柚木の中には無かった。
章生と自分の気持ちはまるで違う。それは、何処までいっても交わる事など無いのだ。
今度こそ本当に、それを悟った。だから、何も期待などしない。
ときめく必要も無い。
彼を見て、胸を詰まらせることも無いのだ。
章生の店が閉まる時間まで残業し、柚木は事務所を後にした。