探しもの


-5-

柚木が徹底的に章生の事を避け、接触を断ってから一月程が経とうとしていた。
勿論、会わなくなったからといって、柚木がその心から彼を締め出せた訳ではない。
そんなに簡単に思い切れるなら、眠れぬ夜を過ごす事も、耐え難いほどの胸の痛みに苦しむ事も無いのだ。
「そう言えば里奈くん、例の花束、頼んできてくれたかな?」
自分の部屋から出てきた所長の相良が事務の女の子にそう訊いた。
すると、里奈はすぐに頷いて答えた。
「はい。すぐ近くの“スズや”に頼んでおきましたよ。後で、届けてくれるそうです」
「そうか、ありがとう」
「なんですか?所長。彼女にプレゼント?」
芝田がニヤニヤして訊くと、相良は苦笑した。
「そんな訳あるか。結婚記念日なんだよ、今日が…」
「へえ、おめでとうございます。案外、愛妻家なんですね、所長」
「こら。案外、は余計だろうが…」
その言葉に皆が一斉に笑ったが、柚木だけは笑えなかった。
まさか、配達に来るのは章生では無いだろう。店にはアルバイトの女の子も居るし、店長の章生がわざわざ配達に来たりはしないだろう。
そんなことを考えて、心が揺れ動く。
これほど忘れようと努力しているのに、泣きたいほどの毎日を過ごしているというのに、ほんの少しも、これっぽっちも、自分は章生を忘れてはいない。忘れられないのだ。
彼の店の名前を聞いただけで、こんなにも動揺してしまう。口から心臓が飛び出すのではないかと思うほど、動悸が早まってしまう。
堪らずに柚木は立ち上がると席を立った。
顔でも洗って頭を冷やしてこようと思った。
このままでは、仕事にもなりはしない。部屋を出て廊下を進み、トイレに入ると柚木は鏡の前で顔を洗った。
何度も冷水を掛け、落ち着きを取り戻そうとする。水を止めてハンカチで水滴を拭い去ると、そのまま自分の顔を鏡に映した。
何度見たって、これと言って取り柄も無い地味な中年オヤジの顔でしかなかった。
ほんの2、3本だが、小鬢の辺りに白いものも見える。
それを指先で撫で付けるように触ると、柚木は目を伏せて鏡の自分から逃げるようにその場を去った。
部屋に戻ろうとすると、丁度目の前のエレベーターが開いた。
ドアが開いた瞬間、柚木はその場に立ち竦んだ。
降りて来たのは花束を抱えた章生だった。
眼が合った瞬間、章生の表情がさっと変わった。
柚木は急いで踵を返すと、出て来たばかりのトイレへ向かった。
「柚木さん…ッ」
叫ぶなり、章生が追いかけて来てトイレに飛び込んで来た。
「あ、……あの……っ」
腕を掴まれて柚木が必死で逃げようとすると、章生は益々手に力を込めて追って来る。とうとう柚木は、トイレの壁に背中を押し付けられて逃げ場を失ってしまった。
「柚木さん、なんで……ッ?」
柚木は彼の顔を見ることが出来なかった。
顔を伏せたまま答えずにいると、興奮した口調で章生が先を続けた。
「俺、何か悪いこと言いましたか?怒らせるようなことしましたか?言ってくださいよッ…」
柚木は首を振った。
「何も…、何もないです…」
「じゃあ、なんで避けるんですか?なんでです?」
本当の理由など、言える訳が無い。
「わ…、私はただ…。あなたに、迷惑かと……」
「迷惑…・・?」
掴まれた腕が痛かった。
だがそれを、嬉しいと感じていることに柚木は気がついた。その力の加減が、章生の気持ちのように思えたからだ。
「私は……、何も考えていなくて…、貴方の厚意に甘えるばかりで…、本当に申し訳なかったと…」
「なにを言ってるんです?意味が分からない。どういうことですか?」
「わ…、私は…」
少し言葉を詰まらせ、柚木は一瞬だが章生の顔を見上げた。
すると、懐かしい彼の顔を見ただけで、熱いものが込み上げてくる。柚木は急いでまた、目を逸らした。
「人からどう映るかなんて、考えもしなくて…。私なんかと一緒にいて、貴方が楽しいとは思えないし、随分と無理をさせてしまっていたんだと……やっと気がついて…」
「柚木さん…」
やっと、柚木の腕から手を離し、章生は落ち着きを取り戻した声で言った。
「俺と居るのが苦痛だったんですか?」
「い、いいえっ…」
驚いて柚木は思わず顔を上げた。
「なら、どうしてそんな風に思うんです?誘っていたのは、いつも俺の方です。嫌だったら誘う訳がないし、柚木さんと一緒に居るのが楽しいから何度も誘ったんです。貴方だって、俺と同じ気持ちだって思い込んでた。……それなのに、突然避けられて…。俺、ショックでしたよ…」
「あ……」
柚木はまた目を伏せた。
まさか、章生がそんな風に思っていてくれたなどとは夢にも思わなかった。
それが嬉しいのと、それから彼を傷付けたのかも知れないという思いで、柚木はまた泣きたいような気分になってしまった。
「本当は、コチラの会社の方にでも電話して呼び出してもらおうかとも思ったんです。でも、貴方が俺を避けている理由が分からないし、もし、…・居留守なんか使われたら、それこそショックだと思ったし……」
「す、済みませんでした…」
慌てて深く頭を下げると、章生が柚木の肩に手を置いた。
「あの……、嫌じゃ無いなら、また付き合ってくださいよ。駄目ですか…?」
そっと目を上げると、不安げな章生の表情が見えた。
彼にそんな顔をさせてしまったことが申し訳なくて、柚木はまた急いで頭を下げた。
「あ、ありがとう…。ほんとに…、ほんとに嬉しいです…」
「ゆ、柚木さん、大袈裟ですよ」
再び顔を上げると、章生は柚木の大好きな、あの温かい笑顔を浮かべていた。
それを見ただけで、また柚木の目がじんわりと熱くなった。
「良かった。これで、今年の誕生日は1人で過ごさなくても済むかな…」
「え…?誕生日?」
柚木が聞き返すと、章生は笑いながら頷いた。
「ええ、もうすぐなんです。俺の誕生日…。今年も1人っきりで侘びしいなぁとか思ってたんだけど……。柚木さん、良かったら、その日に付き合ってくれませんか?」
「わ、私でいいんですか?」
「勿論です。本当は、もっと早く言おうと思ってたんですけど…。言いそびれている内に会えなくなってしまったから…。あ…」
何かに気付き、章生は急に慌てたような表情になった。
「あの、でも気を遣ってくれなくていいんですからね?ただ、いつもと同じで一緒に飯でも食って欲しいってだけですから…」
「いや、でも…」
柚木は突然、章生の恋人のことを思い出した。誕生日なのに、あの子と過ごさなくていいのだろうか。
「祝ってくれる、お友達とか、居るんじゃないんですか…?」
すると章生は、急にばつの悪そうな顔になった。
「ええ、まあ……。居ない訳でもないんですけど……」
もしかしたら、喧嘩でもしたのだろうか。だとしたら、深く訊くのは拙いだろうと柚木は思った。
「本当に私なんかでいいんですか……?芹沢さんがいいと仰るなら、私は、本当に嬉しいですけど…」
それは、心からの言葉だった。
章生が自分の誕生日を過ごす相手に自分を選んでくれたなんて、信じられない気持ちがしたのだ。
「そんな…、嬉しいのは俺の方です。柚木さんに嫌われたんじゃ無くて、本当に良かったです」
「あ…、いえ…。嫌うなんて…」
心底嬉しそうに笑った章生の顔が眩しくて、柚木はまた目を伏せてしまった。
嫌うなんて出来る訳が無い。会わないようにしていた間にも、その想いは膨らむばかりだったのだ。
その時、章生が突然声を上げた。
「あっ…。俺、配達に来たんだったッ」
すっかり、それを忘れていた自分に気付き、章生は自分の腕に抱えていた花束を見て苦笑した。
「もしかして…、柚木さんに会って話が出来るかも知れないと思って、バイトの子に店を頼んできたんです。もう、戻らないと…」
「あっ、わ、私も仕事……ッ」
柚木もそれに気付き、慌てて出口へ向かった。
「柚木さん」
ドアの前で後ろから声を掛けられ、柚木は振り返った。
「今夜、あの店で待ってますから」
そう言われて柚木はペコリと頭を下げた。
「はい…。きっと行きます」
章生はあの時の自分の態度を不審に思ってはいなかった。
それどころか、あんなにも自分と過ごす時間を大事に思っていてくれたのかと思うと、柚木は嬉しくて、そして有難くて、また泣きそうな気分になってしまった。
だが、戻る前にそんな表情を何とか引き締めると、仕事場のドアを開けた。
その後、花束を持った章生が現れ、所長にそれを手渡すと金を貰って帰って行った。
帰り際、ドアの所で柚木に視線を投げると、ほんの僅かに笑みを浮かべて見せた。
そんな、まるで恋人同士の秘密めいた合図のような仕草に、柚木の胸は恐ろしいほどに高鳴ってしまった。
「花屋の彼、案外いいなぁ…」
里奈がそう呟くのを聞いて、柚木はハッと我に返った。
「まぁたまた、彼氏がいるくせにー。それに、里奈ちゃんより年下じゃ無いの?」
芝田にそう言われ、里奈はぷっと膨れた。
「あら、年上じゃいけないんですか?」
「そうじゃないけどさー…」
里奈は25歳になるはずで、確かに章生よりは年上だった。
「さては、彼氏と倦怠期?」
「煩いなぁ、芝田さん。はい、はい、仕事してください」
そう言うと里奈は自分も、パソコンのモニターに目を戻した。どうやら、本当に彼氏と上手くいっていないらしい。
柚木はそっと彼女の顔を盗み見た。
里奈はそれほど美人という訳でもないが、童顔で年よりも若く見える。少し雀斑の浮いた肌は抜けるように白く、触ってみたいと思わせるほどの滑らかさだった。
章生もきっと充分彼女に魅力を感じる筈だと柚木は思った。
少なくとも、誕生日を一緒に祝ってもらうなら、こんなオヤジよりも里奈の方がいいに違いない。
だが、それでも章生が誘ってくれたのは自分なのだ。それが不思議でもあり、そして、叫び出したいほどに嬉しくもあった。
(そうだ……)
あの手袋を渡そう、と柚木は思った。
結局、機会を逸して棄てる事も出来なかったあの手袋を、柚木は箪笥の中に仕舞い込んでいた。
あれを、誕生日のプレゼントに章生に渡したい。渡せたら、どんなに嬉しいだろうか。
そう思って心を弾ませ、口元を緩めそうになりながら柚木は仕事を続けた。



その夜、久し振りに、”青柳”で2人は顔を合わせた。
最初、何だか気恥ずかしいように思って硬くなっていた柚木だったが、以前とまったく変わらない章生の態度に、次第に緊張も溶けていった。
章生の誕生日は今月の最後の火曜日だった。
後4日に迫ったその日、またこの店で合おうと約束した。
「柚木さんは、誕生日、いつなんです?」
「私は6月です」
「そうですか…。じゃあ、まだまだ先ですね」
「ええ…」
「…柚木さん、もしかして、誰かに何か言われたんじゃないですか…?」
「え……?」
突然、そう訊かれ、柚木は驚いて顔を上げた。
「いや…。もしかして、俺と会っていることを誰かに変な風に取られて、それで気にしたんじゃないかって…。そうだったら、やっぱり俺が迷惑を掛けていることになりますから…」
「い…いえ…ッ。そんなことは、ありません」
慌てて否定したが、柚木の心中は複雑だった。
「なら、いいんですけど…。中にはおかしなことを言う人もいますからね…」
「ええ…」
苦笑した章生に柚木も頷いた。
無理して作った笑みを何とか口元に貼り付け、それが歪んでしまう前に酒の猪口を運んで誤魔化した。
自分の本心を知られたら、間違いなく章生は軽蔑するだろう。このまま黙って、静かに見つめている事しか、自分には許されはしないのだ。
勿論、こうして再び彼との時間を過ごせることになっても、以前と同じで、何も期待などしてはいない。してはいけないと分かっている。
分かっている筈だった。
「もう1本、飲みましょうか?久し振りだし、ゆっくり飲みましょうよ」
笑顔でそう言われ、柚木も笑顔で頷いた。
今夜はもう少し飲みたい気分だった。
飲んで、酔いたい気分になっていた。
2人でもう2本の酒を飲み、外に出ると、柚木は酔って少し足を取られてしまった。
「あ…っ」
ふらついた柚木を慌てて章生が支える。
「大丈夫ですか…?」
訊かれて頷き、柚木はすぐに身体を離そうとした。
だがその時、酒の力を借りた所為だろうか。臆病な柚木の心に、一瞬だけふっと何かが燈った。
そして、自分を支えた温かい章生の腕に、柚木は縋った。
これが最初で最後だと、そう言い聞かせ、その温もりに頬を押し付ける。
ほんの一瞬のことではあったが、柚木はその感触を、胸に刻みつけようとして目を閉じた。
「ありがとう……」
腕を離し、章生の顔さえも見られぬまま、柚木は軽く頭を下げた。
ただの親切心でしてくれた彼の行為に、自分は邪な感情を抱き、密かにそれを押し付けた。気付かれてはいない筈だと分かっていても、後ろめたさは消えなかった。
だが、章生は屈託無く柚木の手を取り、自分の腕に絡めさせようとした。
「掴まってください」
「い、いえ…、大丈夫です」
慌てて離そうとした柚木の手を、章生は笑いながら押さえた。
「大丈夫ですよ。もう人通りも少ないし、恥ずかしくないですから」
見回すと、辺りは本当にひっそりとしていた。
「ありがとうございます…」
小さくそう言い、柚木は章生の腕に掴まったまま一緒に歩き始めた。
酒の所為ばかりではなく、体中が火照ってくるのが分かった。
ドッ、ドッ、と恐ろしいほどに心臓の鼓動を感じる。
まるで、その音までが聞こえてくるように柚木には感じられた。
(大きいな…)
こうして改めて肩を並べると、柚木の背は章生の肩まで届かなかった。
そして、その章生の大きさが途轍もなく頼もしく感じられた。
(このままずっと、歩いて行かれたらいい……)
言葉など交わさなくてもいいから、こうしてずっと2人で歩いて行きたい。
このまま彼の腕と一緒に、歩いて行きたいと柚木は思った。