探しもの


-4-

それから本当に、週に1度くらいのペースで、出勤する柚木を呼び止め章生が夕食に誘ってくれるようになった。
場所は決まって、あの小料理屋”青柳”だったが、2人とも他へ行こうとは思わなかった。
そこで、温かい鍋物や煮込みを食べ、ほんの少しの酒を飲む。それが、堪らなく幸福だった。
本当に、柚木にとっては涙が出そうなほどに幸福だったのだ。
少しずつ、余りお喋りでは無い2人だったが、それでも少しずつ、お互いの事を知るようになる。そんな一時が、潤いになっていく。味気なかった生活のすべてが一変してしまうほどだった。
章生は24歳だった。大学を出てすぐ、こちらに来て今は1人暮らしだと言う。
「まあ、就活も上手くいかなかったんですけど、大学を卒業する頃になって急にあの店をやっている叔母に頼まれて…。叔母は、フラワーアレンジメントの教室も持っているんですけど、そっちの生徒が増えて店に手が回らないって言うもんですから…」
「じゃあ、あの店は叔母さんの店なんですか…」
「そうなんです。俺も、店に出るには少しでも知識がないと困るんで、店に出る前の数ヶ月間にみっちり花のことを仕込まれましてね。今でも、週に1回は叔母の教室でアレンジを習ってるんです」
そう言って、また照れたように笑った章生に釣られるように柚木も自然と笑顔になった。
「でも、元々花がお好きなんでしょう?そうじゃないと、続けられませんよ」
「そうですねえ。多分、嫌いではなかったんだと思います。花を弄るのが嫌だと思ったことは無いんで…。でも、悲しいかな、不器用なんですよねえ、俺…。なかなか、アレンジが巧く出来なくて、苦労してます」
「それは、勉強している内に段々と上手になりますよ。それに、お店に飾ってある花駕籠なんか、とても綺麗じゃ無いですか?」
そう言うと、章生の顔が輝くのが分かった。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、嬉しいです、ほんと…」
「い、いや…」
礼を言われて、忽ち柚木は照れて赤くなった。
「そうは言っても、私なんかには良く分からないんですけど…」
「いえ。やはり、綺麗だと言って貰えるのが一番嬉しいですよ」
だが、”好きだ”と言ったらどうなるのだろう。
突然、そんな想いがふっと湧くと、柚木は忽ち胸が苦しくなった。
会う度毎に、どんどん好きになっていくのが怖い。その想いをいつか、持て余してしまうのではないかと不安になるのだ。

心の中に仕舞い切れなくなったら…。
その時は…。

(きっと……、もう2度と、会ってはくれないだろうな…)
本当は、そうなる前に、会うのを止めるべきなのかも知れない。
章生と会わない日、柚木は相変わらずあの店の窓辺で彼を見ていた。そんな自分を知ったら、きっと章生も軽蔑するだろう。
だが、その姿に焦がれて、それを止める事がどうしても出来ない。そんな自分を恥ずかしく思っているのは誰よりも柚木自身だったのだ。
「あれ?おっさん?」
入ってきた客に声を掛けられて柚木が顔を上げると、そこにはあの店の常連の少年とグリさんと呼ばれているマスターが立っていた。
「あ…」
カァッと、柚木の顔に血が上った。
それを見て、少年が忽ちニヤついて意味ありげな目付きで柚木を見た。
「はぁん…。毎日何を熱心に見ているのかと思ってたけど…」
チラリと視線を章生に走らせ、少年はまた柚木を見て笑った。
「可愛いじゃん、おっさんてば…」
「こらっ」
「てっ…」
少年の後頭部をマスターがバシンッと叩いた。
「ナマ言ってんじゃねえっ。早く来い」
叩かれた頭を擦りながら、口を尖らせて文句を言う少年を強引に引っ張って、マスターは柚木達から離れたカウンター席の方へ向かった。
近所の事だから、勿論、少年もマスターも章生が花屋で働いているのを知っているのだろう。だからこそ、柚木が窓の外に求めていたものがなんなのか、すぐに分かったのだ。
柚木は、もう、この場に居たたまれなくなっていた。
章生の視線が怖くて、顔も上げられない。言い繕おうとしても、言葉は何も出てこなかった。
「柚木さん…?どうかしましたか?」
心配そうな章生の声には、軽蔑するような響きは感じられなかった。
それでも、彼を見ることが恐ろしくて柚木は俯いたままで首を振った。
「す、済みません…。帰ります…」
消え入りそうな声でそう言うと、柚木は急いで財布から札を出してそこへ置いた。
「え?柚木さん?」
驚いて訳を訊こうとした章生に何も言わず、柚木は逃げるようにして店を飛び出した。

だから、止めれば良かったのだ。
もっと早く、諦めれば良かったのだ。

こんな事が、こんな奇跡が、長く続く筈など無かった。
もう二度と、彼の姿を見ることさえ許されない。
柚木は込み上げる涙と戦いながら、必死で夜道を歩き続けた。
細い路地に入り込み、誰もいないその場所に辿り着くと持っていた鞄とコートを手から離した。
そして、そのまま冷たい両手で顔を覆った。
「もう……、会えない……」
もう、終わったのだ。
夢のような時間は、リミットを迎えたのだ。
これで…、これきりで…。
「う……」
とうとう、我慢し切れなかった。構わずその場に膝をつき、柚木は両手で嗚咽を押さえ込んだ。



眠れぬままに夜を過ごし、自分でも呆れるほど柚木は泣いた。
いい歳をして、しかも男の癖に、失恋して泣くとは本当に情けないと思ったが、それでも涙が止まる事は無かった。
柚木にとっては、章生とあの店で過ごす時間が、もう彼のすべてになっていた。
それを失ってしまった今は、もう何も残っていないのと同じだったのだ。
どうして、これほどまでに好きになってしまったのだろうか。そして、自分は何を望んでいたのだろうか。
今になって考えても、答えが見つかる事は無かった。
そして、これから先も永遠に分かるとは思えなかった。


いつもより30分も早く部屋を出て、柚木は会社へ向かった。
この時間なら、まだ章生の店も開いていない。顔を合わせることも無いだろう。
思えば、お互いに連絡先の一つも教え合ってはいなかった。
顔を合わせることさえ無くなれば、やがて章生も自分を忘れてしまうに違いないと思った。
会社へ向かう途中、“フローリスト・スズや”の前で立ち止まり、シャッターの下りたその店に柚木は軽く頭を下げた。
(今まで、ありがとうございました…。見られる筈の無い夢を、沢山見せてくれてありがとう…)
心の中でそう言うと、柚木はまた歩き出した。
元の生活に戻ればいいことだ。本当に夢だったと思ってしまえばいい。
だから、もう覚めてしまったのだ。覚めてしまったから、もう会うことも無いのだ。
何事も無かったかのように柚木は会社に入り、自分のデスクに腰を下ろした。
そして、いつものように書類を広げる。
この毎日が自分なのだと思う。
冷静になってみれば、例え友人としてでも、自分が章生と釣り合う訳が無い。
最初に言われたではないか。
“息子”の歳だと……。
思い出して、クスッ、と笑った。
「何を、血迷っていたんだろうか…」
振り切るように頭を振り、柚木はノート型のパソコンを開くと仕事を始めた。


帰りは章生の店の前を避ける為に大回りをして通りを渡り、反対側の道を駅に向かって歩いて行った。
すると、自然、あのグリさんの店の前を通る事になった。だが勿論、もう柚木はその店に立ち寄る事は無かった。
通り過ぎて間も無く、後ろから声を掛けられて肩を掴まれた。
驚いて振り返ると、そこにはグリさんが立っていた。
「お客さん、寄ってって下さいよ」
「い、いえ…」
店の中から柚木を見つけ、わざわざ声を掛けに来たらしい。薄着で外へ飛び出して来た為にグリさんは寒そうに身を縮めていた。
「今、誰もいません。今日は俺が奢りますから、コーヒー、飲んでって下さい」
「え……?」
「さあ…」
腕を引かれて、柚木は仕方なく彼に従った。
中に入る時、表の札を“close”に直すと、グリさんは柚木をカウンターへ誘った。
「いつものでいいです?」
「はい…。すみません」
何故、店を閉店にしてまで自分を誘ったのか、柚木には分からなかった。
だが、昨日のことが関係しているのだろうと、何と無くそう感じていた。
「昨夜はすみません。あのガキが余計な事を…」
「い、いえ…」
謝られて柚木は顔を強張らせた。本当はもう、触れて欲しくないことだったからだ。
「悪気は無かったんだと思いますが、調子に乗りやすい年頃なもんで…」
「もう、いいんです。別に、彼が何かしたとか、そんなんじゃなくて…」
グリさんの話を聞いていると、柚木は彼が自分の事情をすべて察しているように思えて、益々居たたまれない気持ちになった。
「昨夜は、ヤツもいつもより浮かれてたんです。俺が…、初めて外へ連れて行ってやったもんで……」
その言葉に、柚木は顔を上げて彼を見た。
何だか、意味ありげに聞こえたが、そうではないのだろうか。
グリさんは、特別表情を変えることも無く、サイフォンの中のコーヒーを掻き混ぜていた。
「私が…、何を見ていたのか…、前からご存知だったんですか…?」
訊ねると、グリさんは少し笑みを浮かべて頷いた。
「まあ、毎日の事でしたから…」
柚木が黙り込むと、グリさんは手元から視線を移した。
「恥ずかしいとか、思ってるんですか?」
訊かれて、柚木は驚いて顔を上げた。
「それは…。だって、私は……、こんな歳で…、それで……」
口篭った柚木にグリさんは言った。
「そう言えば、お名前、まだでしたね?」
「あ……。柚木と言います…」
「俺は、小栗です。宜しく、柚木さん」
軽く頭を下げた小栗に、柚木も会釈を返した。
コーヒーが入りカップに注ぐと、小栗は柚木の前にそれを置いた。
「柚木さん、歳なんか気にすることは無いでしょう。恋はね…、誰にでもする権利があると俺は思いますよ」
「……恋…」
柚木が呟くと、小栗は頷いた。
「柚木さんは独身なんですよね?」
「はい…。そうです」
「なら、何か問題がありますか?恥ずかしいなんて、思う必要は無い。堂々としてればいいです。堂々と、好きになればいいですよ」
どうしたら、そんな風に思えるのだろうか。
柚木は顔を上げて、笑みを浮かべる小栗を見た。
「あの子は、小栗さんの……?」
頷きながら苦笑し、小栗は少し肩を竦めた。
「俺の方が、大分拙いでしょう?ヤツはまだ高校生ですからね…。けど…、あんな風に捨て身でぶつかってこられちゃ、もう逃げるのも難しいです。俺も、足掻くのは止めました」
「……そうでしたか…」
柚木がカップに手を伸ばすと、小栗も自分のマグにコーヒーを注いだ。
もしかしたら、あの少年も自分と同じ想いをしていたのかも知れないと柚木は思った。
だからこそ、章生と居る自分を見ただけで、その浅ましい心の内を見破ってしまったのだろう。
「でも…、私は…」
カップをソーサーに戻し、柚木は諦めたように笑った。
「もう、止めます。そうするべきだと、最初から分かっていたんです」
「しかし…」
「いえ、あの子の所為じゃありませんよ。ずっとそう思ってたんです。……ただ、私に、未練があり過ぎて、出来なかっただけなんです。思い掛けなく彼と近づけたことで、欲が出てしまったんです」
柚木はまたカップを手に取ったが、今度は口に運ばず両手でそれを包むようにした。
「このままだったら私は、どんどん彼を穢してしまうでしょう……。そんな自分が、許せないんです」
「柚木さん……」
柚木はカップを持ち直すとそれを口に運んで残りを飲み干した。
「素敵な夢でした……。本当に…、素晴らしい夢だった…」
小栗は何も言わなかった。
ただ、黙って柚木のカップに、残ったコーヒーを継ぎ足した。