探しもの


凡そ、自分とは似つかわしくないと思ってはいたが、密かな楽しみを味わう為に、柚木(ゆのき)は毎日その店へ通っていた。
回りを見回しても、居るのは精々30代の人間で、殆どが10代から20代の若者ばかりだった。
その中に混じって、45歳の柚木は妙に浮いている。
煩い音楽も、本当は耳障りで仕方なかった。だが、この店からしか見えないものがある。
それを見る為に、柚木は仕事を終えると毎日この店へ通っているのだ。
この店の向かいにある花屋。
そこで働く1人の青年。
柚木は彼を密かに眺めていたくて、毎日このロックがガンガン掛かる店へ足を運んでいる。


出会いは、3週間ほど前だった。
勤め先の会計事務所が近いので、柚木はその花屋、”フローリスト・スズや”の前を毎日のように通っていた。
だから勿論、そこに体の大きな青年が働いている事は知っていた。
柚木から見れば、花屋で働くには随分と体も大きく無骨そうに見えたが、キビキビと動き回る姿には好感が持てたし、彼が真面目な働き者らしい事は見ているだけでも良く分かった。
だが、彼に対する興味は、毎朝通りがかっているだけの柚木にしてみれば、その程度のことでしかなかったのだ。
それが、あの日、残業で遅くなって外へ出てみると、昼過ぎから降り出した雪が景色を真っ白に染めていた。
冷えてはいたが、まさか雪になるとは思わず、普段の革靴を履いてきてしまった柚木は、滑らないように慎重に歩を進めていたつもりだった。
だが、そこを抜ければ駅という公園の入り口で、見事にステンッ、と尻餅をついてしまったのだ。
持っていた鞄を高々と宙に放り投げ、柚木は冷たい冬空を仰ぐ羽目になった。
すぐに起き上がり、回りをキョロキョロと見回して誰も見ていなかったことを確認すると、ホッと胸を撫で下ろした。誰かに見られていては見っとも無いと思ったからだ。
打った腰はかなり痛んだが、それでも立ち上がると柚木は放り出した鞄を拾いに行った。
運悪く、キチンと留め金を止めておかなかったのだろう。中の書類が少し飛び出して、そこいらに散乱していた。
それを慎重に拾い集めたが、確認すると一枚足りない。顧客から預かった重要な書類だ。無くなったでは済まされる筈が無い。
柚木は青くなって必死で辺りを探し始めた。
「どうしましたか?」
その時、後ろから声が掛かり、柚木は振り返った。
立っていたのは、あの花屋の青年だった。
「何か落としたんですか?」
訊かれて柚木は頷いた。
「書類が一枚無くて…」
「書類…ですか」
青年は頷くと、驚いたことに、すぐに腰を屈めるようにして辺りを探し始めた。
「あ、あの…。いいんですよ。自分で探しますから…。あの、寒いですし、どうか…」
恐縮して柚木が言うと、青年は笑いながら首を振った。
「だから一緒に探しますよ。早く見つけて、暖かい家に帰りましょう」
「え……?」
今時の若者から、こんな親切を受けるとは思いもせず、柚木は感動して不覚にも涙腺を緩めそうになってしまった。
「あ、ありがとうございます」
深々と頭を下げた柚木に、今度は青年が面食らう番だった。
「い、いえ…」
照れくさそうに笑うと、青年は曖昧に手を振った。
「じゃあ、探しましょうか」
その、青年の笑顔が妙に眩しくて、柚木はどぎまぎすると急いでまた頭を下げた。
街灯の明るさを頼りに暫く探すと、青年がかなり離れたベンチの下から書類を見つけてきてくれた。
ヒラヒラと風に舞って、かなり遠くまで飛んで行ったらしい。柚木は嬉しそうにそれを受取ると、また何度も頭を下げてから、濡れてしまった書類を、ハンカチを出して丁寧に拭いた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ、見つかって良かったですね」
言いながら青年は何を思ったのか、自分で嵌めていた手袋を外した。そしてそれを、寒さで真っ赤になった柚木の手に嵌めてくれようとした。
「い、いえ、あの…」
青年は戸惑う柚木に笑いかけ、彼の手には余る大きな手袋を嵌めた。
「霜焼けになりますよ。いいから使って下さい」
「し、しかし…」
まだ躊躇っている柚木に、青年は再び笑い掛けた。
「毎朝、店の前を通って出勤して行くでしょう?相良会計の人だってちゃんと分かってますから」
「そ、そうでしたか…」
まさか彼が自分を見覚えていたなどとは思わず、柚木は驚くと共に何故か嬉しくなった。
人に混じれば決して目立つ存在ではなく、埋もれていくような影の薄い自分を、ただ毎朝通るというだけで覚えていてくれた人間が居たとは思いもしなかったのだ。
そして、そのことに感動してしまったのだ。
「だから、大丈夫。使って下さい。後で、また前を通った時にでも置いていってくれればいいですから」
「あ、ありがとうございます」
柚木がまた深々と頭を下げると、青年は照れくさそうに笑ってペコリと頭を下げた。
それが青年と知り合うきっかけだった。


そして、柚木は翌朝、借りた手袋を持って出勤前に花屋を訪れた。
「昨夜は、どうもありがとうございました」
丁寧に頭を下げる柚木に、青年はまた照れたような笑顔を見せた。
けっして飛び抜けたハンサムという訳ではない。
あまり大きいとは言えない幾らか垂れ気味の目に、少々大き過ぎる口元。鼻梁は高く案外整っていたが、冷たい感じはしない。そして、その全てが、とても温かくて心が和む顔立ちだった。
それに見惚れそうになっている自分に気付き、柚木は妙な焦りを感じて目を逸らした。
「あ、これ…。お礼という訳では無いんですが…」
今朝、弁当に入れる為に作った金平牛蒡を容器に取り分けて持って来ていた。それを押し付けるようにして渡すと、柚木は急いで頭を下げ、逃げるようにして店を出てきた。
耳が熱い。
さっきまで寒さで強張っていた頬が、今度は別の理由で強張っていた。
(馬鹿なことを……。なにを…、馬鹿な……)
自分が激しく動揺している事を知り、柚木は益々焦っていた。
事務所に入ると、先に出勤していた事務の女の子に挨拶し、柚木は席に着いた。
「柚木さん、お茶どうぞ…。あ、柚木さんっ」
「え…っ?」
熱いお茶を席まで運んでくれた彼女が笑い出したのに驚き、柚木は何事かと顔を上げた。
「いいんですか?履き替えなくて」
指を指されて見ると、柚木の足はまだスノーブーツを履いていた。
スーツのズボンの裾を中に入れ込んだままで、仕事を始めた姿が滑稽だったのだろう。彼女はクスクスと笑っている。柚木は恥ずかしそうに頬を染めて頷くと、いつも履いている室内履きを取って履き替えた。
なにを焦っているのか、習慣のようにしていることに気が回らなかったらしい。
(こんな煤けたオッサンに、意識されたら迷惑だ…)
自分を振り返った途端、柚木は忽ち落ち込んでしまった。
大体、昨夜のお礼に”金平牛蒡”は無かっただろう。何故、もっと気の効いたものを思いつけなかったのだろうか。
それを思うと益々落ち込み、柚木は思わず深い溜め息をついていた。



だが、青年は柚木の帰りを待っていてくれたらしい。
仕事が終わり、店の前を足早に通り過ぎようとすると、急いで店から出てきて声を掛けてきた。
「あのっ…」
「は、はい…。あ、ど、どうも…」
馬鹿に焦って吃ってしまう自分が恥ずかしくて堪らず、柚木はちゃんと視線を合わせることが出来なかった。
「ちょっと、待ってて下さい」
青年はそう言うと、一旦店の中に引っ込んだ。
そして、間も無く戻って来ると、今朝、柚木が渡した金平牛蒡の入っていた空容器と、それから小さな白いスイトピーの花束を差し出した。
20センチくらいに丈を揃えて可愛いレースの模様のついたセロファンで包み、薄いピンク色のリボンが結ばれていた。
「あ……」
花束を受取りながら柚木は戸惑うような目を青年に向けた。
「こんなもんで申し訳ないけど、お礼です。金平、すげえ旨かった」
「あ、いや、あれは…。私の方こそお礼のつもりで…」
慌てて花束を返そうとすると、青年は笑いながらそれを押し留めた。
「いや、ほんと、俺の気持ちですから…」
気持ち…。
その言葉に馬鹿に反応してしまい、柚木はカァッと頬が熱くなるのを感じた。
だが、青年が次に言った言葉で柚木は我に返った。
「奥さんにも宜しくお伝えください。久し振りのおふくろの味でした」
嬉しそうに笑う彼の顔を見ながら柚木の熱は急速に冷めていった。
「あ…。ははは…」
曖昧に笑うと、頷きながら柚木は花束を受取った。
「ありがとう。それじゃあ、遠慮なく…」
また丁寧に頭を下げ、柚木は青年と別れた。
(奥さんかぁ……)
自分の歳なら妻帯していると思うのが普通だ。自分が作ったと知ったら、彼はきっと気味悪がるだろう。
(まさか、こんなオッサンが独身だなんて思わないよな…)
思わず苦笑し、柚木は貰った花束を眺めた。
(しかし…、笑えるほど不釣合いだな…)
白い可憐な花は、自分が持つような物ではない。青年も多分、居る筈だと思っている柚木の妻にやるつもりで、これを作ってくれたのだろう。
侘しい六畳一間のアパートに飾られるこの花が、何だか可哀想だな、と柚木は思った。



それからというもの、柚木が店の前を通ると青年は笑顔で挨拶をしてくれるようになった。
柚木も、笑みを返しては頭を下げて通る。
勿論、それ以上の何かが2人の間に芽生えた訳ではない。だが柚木は、彼の姿を見る度に胸が痛くなるほどの“ときめき”を覚えずにはいられなくなっていた。
何故、これほどまでに心惹かれてしまったのか分からない。たった一度、親切にされただけのことだった。
だが、あの時の彼の態度一つ一つが、何度も見せてくれた笑顔の温かさが、柚木にとっては忘れられないものになっていたのだ。
気がつくと、彼を想い溜め息をつく自分を見つけ、その度に柚木は自己嫌悪に陥るのだった。
(本当に、馬鹿だ……)
しがない中年男を、彼が気にする筈など無い。あの時だって、雪の中で右往左往する自分を哀れんで手を貸してくれたに過ぎないのだ。
「手が…、荒れていたなぁ…」
霜焼けになるからと自分を心配して手袋を貸してくれたが、そういう彼の手はあちこち(ひび)だらけだった。
水を触らなければならない職業だからだろうが、その大きな厳つい手は、気の毒なほどに傷付いていた。
「はい?なんです?柚木さん」
隣の席の同僚に言われ、柚木は自分が呟いていたことを知った。
恥ずかしさに赤面すると、柚木は慌てて首を振った。
「いや、なんでもありません」
同僚と言っても息子ほどの年の芝田は、そんな柚木に首を傾げた。
「はぁ…、そう言えば今日までなんだよなぁ、バーゲン…」
「バーゲンですか?洋服ですか?」
訊ねると芝田は悔しそうに頷いた。
「そうなんですよ。好きなブランドなんですけど、ずっと残業だったでしょう?結局、買いに行けなくて…」
「ああ、今日もまだ終わらないようですねえ」
「はーい…」
忌々しそうに言いながら芝田は肩を竦めた。
「諦めるしかありませんねえ…」
それぞれ決まった顧客を抱えているだけに、他に残業を代わってもらう訳にもいかない。芝田は残念そうにそう言った。
「どんなものか分かれば、代わりに買ってきてあげるんですが…」
「えっ?本当ですか?」
「ええ…。でも私は洋服の事は分からないので…」
すると、芝田は目を輝かせて抽斗からファッション雑誌を引っ張り出した。
「これなんですよ。このシャツ…。売れ筋だから残ってないかも知れないけど…」
「ふうん……」
柚木は芝田の指差した写真を見た。
「これの、白か、黒が残ってたら買ってきてくれませんか?お願いしますッ」
拝むように言われ、柚木は笑いながら頷いた。
「いいですよ。駅ビルの中に入っている店ですよね?」
「そうです、3階です。うぁあ、ありがとうございます、柚木さん」
まだ、買えるかどうかも分からないのに芝田は喜んでそう言った。