探しもの
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芝田と違って定時で上がれた柚木は、事務所を出て駅ビルのその店へ向かった。
若い買い物客に混じって、いかにも不釣合いな柚木に、それでも店員は笑顔で近づいて来た。
「あ、すみません…」
預かってきた雑誌を開き、柚木は店員にそれを示した。
「これを頼まれたんですが、まだ在庫がありますか?」
「あぁ、このシャツですか…。ええとMサイズでよろしいですか?」
言いながら店員は、その品物がある方へと近づいて行った。
柚木もその後に着いていくと、彼女はハンガーに掛かった商品を取り出して見せた。
「もうこれ1点だけになってしまったんですよ。売れ筋ですので…」
だが、彼女が出して見せたのは、運良く芝田が欲しがっていた色だった。
「あ、いいんです。黒か白って言われましたから。…では、これを」
「はい、ありがとうございます」
彼女に着いてレジへ行きかけた時、小物売り場の前で柚木は脚を止めた。
そこには帽子やベルトなどと一緒に、革製の手袋が数点並んでいた。
この前青年に借りた手袋はやはり革だったが、随分使い古されて痛んでいた。それを思い出し、柚木は手袋を手に取った。
かなり大きいサイズらしいと思って自分で嵌めてみると、指の余り具合が青年に借りた手袋と同じくらいだった。
ブランド物なのでかなり高価だったが、それもバーゲンに含まれているらしく値段が下がっていた。柚木は思い切って、それをレジへと運んだ。
「あの、これは別に包んでいただけますか?値段を外して…」
「プレゼント用ですか?その様に包装いたしましょうか?」
「い…、いえ…。普通でいいんです」
「分かりました」
店員はシャツの方を少し大きめのショッピングバックに、手袋を細長いロゴ入りの紙袋に入れてくれた。
金を払ってそれを受取った後、柚木は少し後悔した。
どうせ、渡せる筈も無いのだ。こんなものを買って、一体どうするというのだろうか。大体、自分なんかにいきなり物を貰ったりしたら彼の方だって困るだろう。
気味悪がられるのが落ちだ。
ハァッと、思わずまた柚木の口から溜め息が零れた。
こんな簡単なことさえ、判断がつかなくなっている。それほど、彼に心酔している。
だが、この想いをどうにも出来ないもどかしさが、柚木を苛んでいた。
「お買い物ですか?」
突然声を掛けられて、柚木は飛び上がるほど驚いた。
振り返ると、両手に観葉植物の植木鉢を抱えた青年が立っていた。
「あっ…あ、は、はい。今晩は…」
「今晩は」
「お、お仕事ですか?」
「ええ、この駅ビルのディスプレイ用に鉢植えを貸し出してるんです。今日はその取替えがあって…」
「あ、そうですか。ご苦労様です…」
言いながら、左手に持っていた手袋の袋を柚木は無意識の内にギュッと握っていた。
「それじゃあ、また…」
「は、はい…」
過ぎ去って行く青年の後ろ姿を見つめながら、柚木の手は関節が白くなるほど強く、袋を握り締めていた。
渡せる筈など無い。そんな勇気がある筈も無かった。
(そう言えば…、名前も、知らないんだよな…)
突然、そのことに気がつくと、無性に可笑しくなった。
このままきっと、名前も知らないままに何時しか忘れられてしまうのだろう。
そう思うと、今度は無性に辛かった。
そのまま、ひとりの部屋に帰る気にもなれず、柚木は5階に上がってコーヒー店へ入った。
席に着いて注文を済ませると、手袋の袋を開き、中身を取り出してもう一度自分の手に嵌めてみた。
やはり、自分には大き過ぎて、手の収まりが悪い。とても使うのは無理だろう。芝田にでもやってしまおうかとも思ったが、なんだかそれも憚られた。
柚木は手袋を袋の中に仕舞い、それを鞄の中へ入れた。
”フローリスト・スズや”の向かいに、その店があるのに気付いたのは、それから暫く経ってからだった。
その外見や店名などを見ても若者向けの店だと言うことは容易に知れた。
だが、柚木は思い切って入ってみることにした。
店内は薄暗いが、窓が大きい。そして、その向かいにある青年の店がここからなら良く見えた。
それから柚木は毎日のように、仕事を終えるとその店の窓辺の住人となった。
「おっさん、ロック好きなん?」
やはりその店の常連で、いつもカウンターに陣取っている少年が、柚木に興味を示して訊いてきた。
「うん、まあね。…でも、ここのコーヒーが美味しいから」
確かにその店は、意外にも旨いコーヒーを飲ませてくれるのだ。
「はは…、それ聞くと、グリさん喜ぶよ。密かな自慢だからさぁ。……ねえ、グリさん」
グリさんと呼ばれた30代の店主は、カウンターの中から頷いた。
「ここに来るのはガキばっかりで、コーヒーの味なんか分かりませんからね。お客さんみたいな人、嬉しいですよ」
痩せぎすで無精髭、長髪をゴムで一本に縛り、いかにもロッカーらしい服装ながら、店主は案外真面目にこの店をやっているらしい。
それから柚木は、気兼ねなく2杯目のコーヒーを頼めるようになり、窓の外を見る時間も長くなった。
(こういうのを、ストーカーっていうんだろうな…)
そう思って苦笑し、柚木はカップを口へ運んだ。
ここから見るようになってから分かったが、青年には綺麗な恋人がいた。
たまに店に現れ、親しげに話をすると少し店を手伝ったりして帰っていく。今日も、先ほど現れて店の中へ消えて行った。
(そりゃ、勿論、そうだろう…)
最初から、期待していた訳ではない。そんな、有りえもしない大それた事を、幾らなんでも望んではいなかった。
ただ、もしかしたら、もう少し傍へ行けるのではないかと淡い期待を抱いていたのだ。年の離れた友人のような関係に、もしかしたら、なれるのでは無いかと思ってしまったのだ。
(寂しいんだろうか…?)
ただ単に、それだけのことなのだろうか。
婚期も逸し、妻も子供も無く、ただひとり、平凡で静かな日々を送ってきただけだった。親しいと呼べる友人も皆、結婚後は徐々に疎遠になってしまった。
そんな生活が、寂しかったのだろうか。だからこんなにも、彼の姿が眩しいのだろうか。
そして、恋しいのだろうか。
胸が……。
痛くなるのだろうか……。
帰る恋人を送る為、青年が店の外へと姿を現した。
もうここで、こうして彼を眺めるのも止めた方がいいのかも知れない。見つめれば見つめるほど、どんどん辛くなっていく事に、柚木は気がついていた。
(名前、知りたいな…)
そう思った途端、自分の未練が情けなくなった。
知ってどうすると言うのか、その名前を呼べる日など来る筈も無いのに。
それでも、せめて名前だけでも知りたい。何も知らないまま、こうしてひっそりと想い、そして、ひっそりと諦めていくのは、余りにも寂し過ぎるような気がするからだ。
朝、通り掛りに会釈をして笑みを見せ合うだけの関係から何も進展することなく日は流れ、結局、彼から名前も訊けぬまま、柚木は今日もこの店の窓から青年を見ていた。
(本当に、よく働くなぁ…)
多分、仕入れも彼がしているらしい。だとすれば、早朝から夜まで本当に休み無く働いていることになる。それなのに、いつもその動きには疲れた様子など微塵も見えなかった。
(あ、あの女の子、良く花を買いに来る…。彼が目当てなのかな……?)
確かに、女の子ならば頻繁に花を買いに行ってもおかしくは無いだろう。だが、中年のオッサンではそうもいかない。
例え彼に会いたくても、こんな風に物陰から覗くような行為が精々だった。
柚木は自分自身を笑い、伝票を掴むと立ち上がった。
本当に、いい加減止めなければならない。何時まで見ていたって何が起こるわけでもないのだ。
奇跡などと言うのは絵空事に過ぎない。自分から行動も出来ない人間には余計に訪れる筈も無かった。
(あ、また雪だ…)
店を出た途端、チラチラと白いものが落ちてきて、柚木は空を見上げた。
滅多に降らないこの地方では珍しく2度目の雪だった。
そっと掌に受け、その溶ける様を見ると、柚木はふっと笑って歩き出した。
この雪のように自分の恋心も溶けて無くなってしまえばいいと思う。
そう。
恋なのだろう。
馬鹿馬鹿しい話だが、自分はあの青年に紛れも無く恋をしてしまったのだ。
後ろを振り返ると、片付けを終え花屋もシャッターを下ろす所だった。
そこで立ち止まり、柚木はシャッターを下ろしている青年をじっと見つめた。
(貴方のお名前を教えていただけませんか……?)
心の中で、柚木は青年にそう語りかけた。
ズン、と鼻の奥が熱くなる。
そんな心の声が届く訳も無く、青年はシャッターを全部下ろすと、裏口の方へ姿を消した。
涙が零れ落ちそうになり、柚木は目を逸らすと駅に向かって歩き出した。
明日から、あの店へ行くのは止めよう。
それから、朝も花屋の前を通らずに出勤しよう。
そして、なるべく早く、こんな気持ちと決別出来るように努力しよう。
これ以上取り返しがつかなくなる前に、後戻り出来なくなる前に。
あの公園に差し掛かり、柚木はまた脚を止めた。
ここで出会わなければ、多分こんな気持ちにはならなかった。だが、あの出会いが無ければ良かったとはどうしても思えなかった。
ハンカチを出して薄っすらと積もった雪を木のベンチから払い、柚木はそこへ腰を下ろした。
「寒いなぁ…」
ぽそりと呟き、柚木は空を見上げた。
舞い落ちる雪が、街灯に白く浮かび上がっている。
暫くそれを眺めると、柚木は気が付いて鞄からあの手袋の入った袋を取り出した。
ずっと、鞄の中に仕舞ったまま、毎日持ち歩いていたのだ。
「渡せる筈も無いのに…」
また、自分自身を笑い、柚木は袋から手袋を取り出した。
それを嵌めようとはせず、ただ手袋の上に自分の手を重ねる。
「大きいな…」
ふっと思わず笑みを浮かべ、柚木はまた手袋を袋の中に仕舞った。
立ち上がり、公園のゴミ箱に近付くと、それを棄ててしまおうかと思った。
もう、持っていても仕方が無い。未練を断ち切る為にも、棄ててしまった方がいい。
柚木が袋をゴミ箱の上に差し出した時、離れた場所から誰かの声がした。