探しもの
-3-
振り返ると、雪の中をあの青年が駆けて来るのが見えた。
(え……?)
舞い散る雪の中、彼が自分に向かって走って来る。それは柚木にとって、まるで夢でも見ているような光景だった。
「また会いましたね」
気がつくと、白い息を吐きながら、青年が笑っていた。
目の前がぼんやりする。
その笑顔がはっきり見えず、柚木は慌てて目を擦った。
「あ、あ、…どうもっ」
自分でも間が抜けていると思ったが、柚木はそう言って頭を下げる事しか出来なかった。
そして、自分の目に涙が溜まっていた事を見られなかっただろうかと心配になった。
(奇跡だ……)
そう思ってしまった。
こんな自分にも、奇跡が起こることがあるのだ。
「また雪ですね?縁があるのかなぁ…」
「そうですね…」
「あの、良かったら、何処かで温まりませんか?」
「えっ……?」
余りに予想外の言葉に、柚木は驚いて絶句してしまった。
そして、自分の耳がどうかしてしまったのではないかと疑った。
「飯、もう食っちゃいましたか?」
「い、いいえっ…」
「あ、でも…」
何かに気が付いたのか青年は気まずそうな顔になった。
「急だと悪いですよね?奥さんが、お宅で用意してるんだろうし…」
「い、いえ、大丈夫です」
柚木が急いで言うと、青年は嬉しそうに笑った。
「そうですか?じゃあ、駅前まで行きましょうか?」
「はい…っ」
馬鹿にいい返事をしてしまい、柚木は直後に恥ずかしくなって顔を赤らめた。
だが、先に立って歩き出した青年は気に留めている様子もない。柚木はホッとしてその後に着いて歩き始めた。
柚木が積もり始めた雪に脚を取られそうになると、すかさず青年が手を出して支えてくれた。
「あっ…、す、済みません…」
頭を下げた柚木に対し、青年はまた温かい笑みを見せた。
「良かったら掴まって下さい」
「い、いえ、とんでもないっ。大丈夫ですから」
顔を赤らめて辞退すると、青年は頷いて歩き出した。
余程、自分が年寄りに見えるのだろうか、などと、柚木はまた要らない心配をしてしまう。だが、思い掛けなくこうして、この青年との時間を持つことが出来たのを神に感謝したい気持ちでいっぱいだった。
本当に、奇跡のようだ、と柚木は思った。
「ここでいいですか?」
駅から少し離れた、路地を入った小料理屋の前で青年は柚木を振り返った。
「あ、はい。いいです」
「洒落た店とか、苦手で…」
そう言って、照れたように笑ったその顔が柚木はとても好きだった。
青年に着いて藍色の暖簾を潜ると、そこはカウンター席が五つほどと、小上がりが三席ほどの小さな店だった。
青年は空いていた奥の席に柚木を誘った。
靴を脱いで上がり、コートを脱いで脇に置いた所へ、若い女の子がお通しとお絞りを持ってやって来た。
「お帰り。今日は泥鰌、入ったよ」
親しげに言ったところを見ると、青年は常連客らしい。
「あ、ほんと。じゃあ、柳川…、それと…」
青年はその他に、モツ煮込みや揚げ出し豆腐など、体の温まりそうなものを注文した。
「どうしますか?」
訊かれて柚木は、それに二品ほど追加をした。
「酒は?」
「あ…、あんまり飲めないので…」
「俺も、どっちかって言うと食う方ばっかで…。じゃあ、日本酒を摂り合えず1本だけ取りましょうか?寒いから、ビールよりいいでしょう?」
「はい、そうですね…」
どうやらこの店の娘らしい女の子が注文を取って行ってしまうと、青年は急に思い出したような顔になって柚木を見た。
「そう言えば、まだ名乗っていなかったですよね?」
笑いながらそういい、青年は居住まいを正した。
「俺は、芹沢です。芹沢章生」
頭を下げる青年を見て、柚木も慌てて頭を下げた。
「あ、私は柚木です。柚木幸祐といいます。よ、よろしく…」
「あ、こちらこそ…」
「あ、いえ…」
頭を下げ合っている自分達の滑稽さに気付き、最初に笑い出したのは章生の方だった。
柚木も釣られて笑い出し、忽ち2人の間に和やかな雰囲気が広がった。
(章生くんか…)
2度目の奇跡だろうか。
彼の名前まで知ることが出来たのが嬉しくて柚木は胸を弾ませていた。
「柚木さん、息子さんは俺と同じくらいですかね?」
「えっ…?」
そう訊かれて、柚木は酌を受けようとして差し出した猪口を止めた。
「この前、ほら、駅ビルでブティックの袋を持っていたでしょう?あの店って俺ぐらいの年齢層が行く店らしいから…」
にこやかにそう言われ、柚木は深く傷付いた。
今までの浮かれた気分が忽ち沈んでいく。
勿論、章生が悪い訳ではない。だが、独り善がりに浮かれていた自分が恥ずかしく、柚木は彼の言葉によって思い知らされたような気持ちになってしまったのだ。
そう、彼は自分の息子ほどの年なのだ。
「あ、…あはは…、あれは同僚に頼まれて…」
力なく笑うと、柚木は猪口を口に運んだ。
「実は…、私は独身なんですよ。この年で…、お恥ずかしいですが…」
「あっ…」
小さく叫ぶなり、章生はまた居住まいを正した。
「す、済みませんっ…」
深々と頭を下げた章生に、柚木の方が慌ててしまった。
「い、いえ…。よしてください、そんな…」
「いや、勝手に決め付けて、要らんことを…。ほんとに申し訳ないです」
「そ、そんな…。いや、そう思われて当たり前ですから」
「ほんと、俺は早とちりで…。あっ…」
また何かを思いついたのか、章生の表情が変わった。
「じゃあ、この前の金平……」
「ああ…。はは…、あれは私が…」
「わ、ほんとですか…。済みません、俺…、なんか頓珍漢な事ばっかり…」
「いいんですよ。本当に気にしないで下さい」
柚木が手を振ると、章生は顔を上げて彼を見た。
「でも、ほんとに旨かったんです。あの金平牛蒡…」
「あ、ありがとう…」
恥ずかしくなって柚木が目を伏せた所に、さっきの娘が注文の品を幾つか運んできた。
「柚木さん、泥鰌は駄目ですか?」
章生に訊かれて柚木は曖昧な笑みを浮かべた。
「はぁ…、食わず嫌いで…」
「ここのは泥臭くなくて旨いんですよ。嫌なら無理には勧めませんけど、試してみませんか?」
「はい、じゃあ…」
頷くと、章生が小鉢に取り分けて渡してくれた。
「ありがとう」
湯気の立つ小鉢を受取り、恐る恐る箸をつけて、ふうふうと吹いてから、柚木はそれを口に入れた。
泥鰌から出汁がたっぷり出ているのだろう、風味が良く、心配していた生臭さも全く感じなかった。
「あ、旨い…」
思わず呟くと章生が嬉しそうな顔をしてこちらを見た。
「良かった…」
ククンッ…、とまた柚木の胸が疼く。
今さっき、自分と彼がいかに不釣合いか思い知らされたばかりだというのに、こんな風に温かい笑顔を向けられると、またときめかずにはいられなかった。
そんな自分を柚木は浅ましいと思う。
だが、育っていく想いを、自分ではどうしても止めることが出来ないのだ。
「こんなこと言ったら可笑しいですけど、でも俺、柚木さんが独身で良かったなぁって…」
「えっ…」
ポロリと、口へ運ぼうとしていた笹掻き牛蒡が柚木の箸から小鉢の中へ戻って行った。
酒の所為だろうか。
勿論、そうだろう。
章生の顔がほんのり赤いような気がする。
柚木の心臓は、急にバクバクと早鐘のように打ち始めた。
「独身だったら、気兼ねなく誘えるなぁって…。駄目ですかね?時々、こんな風に飯とか一緒にしたいです。また、誘ったら迷惑ですか?」
柚木は慌てて箸と小鉢をテーブルの上に置くと、その手を膝の上で揃えた。
「と、とんでもないっ、迷惑だなんて、そんな…」
激しく首を振った後、柚木は確かめるようにして章生の表情を見た。
「ほ、ほんとに私なんかと……?」
「柚木さんさえ良ければ…」
「も、勿論、私は……っ」
勢い込んでそこまで言って、柚木は忽ち恥ずかしさに頬を染めた。
「わ、私は…、う、嬉しいです…」
尻窄みに小さくなっていく声でそう言うと、柚木は目を伏せてしまった。今の態度を、変に取られなかったか心配で堪らなかったのだ。
だが、心配するまでもなく、答えた章生の声からは何の屈託も感じられはしなかった。
「良かった……」
ホッとしたような調子で嬉しそうにそう言うと、章生は先を続けた。
「俺、実家も大学もこっちじゃ無いし、客商売の癖に口下手だから友達作るのも苦手で…。それに、同年代の連中の話にも付いていけないトコがあって…」
そこまで言うと少し笑い、章生は柚木の顔に視線を注いだ。
「柚木さんみたいな人といると、気兼ねしなくていいって言うか、何だか安心するって言うか…」
「あ、安心…?」
安心出来る相手。
その言葉が、柚木にとってはどれだけ嬉しかったか、多分、それほどの意味を持たせた訳でもない筈の章生には分からなかっただろう。
だが、柚木にはその言葉が、”特別な相手”だと言われているように思えたのだ。
「ありがとう…ございます」
そう言うと、章生の顔が忽ち赤くなった。
「あ、いや…、あの…、こちらこそっ」
持っていた猪口を慌てて置いて、章生はそう言って笑った。
その笑顔を見ながら、柚木は思った。
こんな幸せがあっていいのだろうか。こんな時が、自分に訪れるなんて、ついさっきまで想像もしていなかった。
(3度目の奇跡だ……)
振り返ってみても、自分の人生の中でこれほど幸福だった瞬間を柚木は覚えていなかった。