涙の後で
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慶の詳しい生い立ちを聞いて、俺は彼と父親の間の蟠りは、仕方のないことなのかも知れないと思った。
幾ら可愛がって育てられたのだとしても、自分の両親の間に愛が無かったのだと知ったら悲しいだろう。
おまけに、慶の小説からも窺えるように、祖母は優しかったらしいが、祖父は冷淡だったようだし、病院を継いだ父も余り傍には居られなかったようだ。
戸田院長は、村内と連絡を取ってどうするつもりなのだろうか。
少しでも援助をするつもりなら、村内にとってもありがたいことかも知れない。
それとも、迷惑だと思うだろうか。
俺が考えても仕方のない問題だったが、考えずにはいられなかった。
そして、離れたりしないと村内には言ったが、もう俺が傍に居ることは難しいのかも知れないと思い始めていた。
溜め息をついて頭を枕に付けると、俺は味気ない病院の天井を見上げた。
ずっと傍に居て、村内のあの孤独を慰めていてやりたかった。
こんな俺を、あんなにも求めてくれる村内の手を離したくなかった。
だが、戸田院長が彼の存在を知ってしまった今、俺が村内と関係を続けていける訳がない。
そんなことをしたら、きっと院長も慶も、そして結局は村内のことも傷つける結果になるだろう。今は辛くても、辛い思いをさせても、俺は彼から離れるべきなのかも知れない。
もう1度、深く溜め息をついた時、母が診察から戻って来た。
「千冬、やっぱり間違いじゃなかったわ。2か月だって」
嬉しそうに母が言うのに、俺も笑顔になった。
「ほんと?どっち?女の子?男の子?」
俺が訊くと、母は笑った。
「まだ、分かる訳ないでしょ。5か月くらいよ、分かるのは」
「そうなんだ。でも、良かったね。…あ、早く、正孝さんに知らせなきゃ」
俺が言うと、母は携帯を持って、出て行った。
嬉しくて、俺はその後姿が消えても扉を見つめていた。
そして、幸せに生まれて来る俺の兄弟のことを思った。
誰からも祝福され、最初から愛されることを約束されて、俺の弟か妹は生まれて来る。
母の胎内で育まれ、優しい父親に気遣われ、生まれる日を心待ちにされて大きくなるのだ。父は早くに死んでしまったが、俺だってそうだった筈だ。
だが、慶も、そして多分村内も、きっと違っていたのだろう。
それを思うと、俺は酷く切なかった。
夜になって、仕事を終えた慶が現れた。
院長が来たことを言うと、呆れたような顔をした。
「まさか、すぐに来るとはな。本当に恥かしいよ。千冬は俺の友達だってのに…」
「俺は嬉しかったけど…。美味しいチョコも貰えたし」
俺が言うと、慶の為に紅茶を淹れていた母が口を出した。
「私もお会いしたかったわ。素敵な方だって、千冬から聞いてたし…」
「そんな…、ただの中年男ですよ」
嫌な顔をして慶は言ったが、俺は否定した。
「そんな事ないよ。若々しいし、ハンサムだし。慶も年取ったら、お父さんみたいになるよ。そっくりだし」
嫌がるのを分かっていて俺が言うと、慶は苦笑しただけだった。
「さて、じゃあ、私は帰るわね」
「うん。…あ、明日帰っていいからね。身体も心配だから…」
俺が言うと、母は笑った。
「大丈夫よ。病気じゃないんだし…。明日、千冬の怪我のことで先生からお話あるみたいだから、聞いてから帰るわ」
「分かった。気を付けて…」
母が出て行くと、慶は俺の傍に椅子を持って来て座った。
「痛むか?」
心配そうに俺の腕を見て、慶は言った。
「ううん、大丈夫だよ。……慶…」
腕を肩に回すと、慶は身体を近づけてきて抱きしめてくれた。
「俺の腕…、まだ必要だったか?」
嫌味ではなく、慶は静かに言った。
「うん…。安心する……」
そう言ったが、本当は自分の為に腕を回したのではなかった。俺が、慶を抱きしめたかったのだ。
慶が、幼い頃から今までに感じて来た寂しさを、俺の腕が少しでも吸い取れたらいいと思ったのだ。
「千冬……」
深く息を吸い込み、慶は更に俺の身体を強く抱いた。
「慶…、俺、お兄ちゃんになるんだ」
そう言うと、慶は身体を離して俺を見た。
「本当か?」
「うん、凄いだろ?」
俺の言葉に慶は嬉しそうに笑った。
「ああ、凄いな。良かったな、千冬…」
そう言って、慶は再び俺を抱きしめた。
翌朝、朝食が終わる頃母が来て、俺たちは担当医の話を聞きに部屋へ行った。
「え…?どういうことですか?」
担当医の話に、母の顔色が変わった。
俺も、まさかこんな事態になるとは思わず、驚きを隠せなかった。
「いや、リハビリをきちんとすれば、ある程度の回復は出来るでしょう。まったく動かなくなるとか、そういうことではありません。……だが、痺れと麻痺は完全にはなくならないかも知れません。動かせないことは無いでしょうが、物を掴むのに前ほどの力は出せなくなる可能性があります」
「そんな…」
絶句した母の隣で、俺は言った。
「可能性って言うことは、リハビリ次第では完治することもあると言うことですか?」
「いや、完治は難しいでしょう。ただ、麻痺の程度がどれ位残るかということですね…。生活に支障ない程度まで回復する可能性は、勿論あります。まだ、諦めないでください」
母は黙ってしまったが、俺は頷いた。
「分かりました…」
一緒に部屋を出て、病室まで戻って来たが、母は口を利かなかった。
「母さん、大丈夫だよ。先生も、麻痺が残るかもって言ったけど、生活に支障ないくらいだって言ってたじゃない?だから、そんなに考え込まないで…」
「千冬…」
やっと顔を上げて、母は俺を見た。
「悔しくないの?しなくてもいい怪我をさせられて、その上、麻痺が残るかもなんて…。私はそんなの許せない。大事な息子を、こんな目に合わせて…ッ」
気の強い母が、珍しく涙を浮かべた。
その気持ちは勿論分かる。俺のことを大切に思ってくれていることは、涙が出るほど嬉しかった。
だが俺は、綺麗事だと言われようとも、誰のことも恨みたくはなかったのだ。
母はもう少しこちらに居ると言ったが、俺は帰って正孝さんの顔を見た方がいいと言った。
身体のことも心配だし、俺の怪我のことで腹立たしく思う気持ちは分かるが、そういう感情は胎児にも良くない筈だ。俺の大切な兄弟の為にも、母には穏やかな気持ちで過ごして欲しかった。
家に帰って、正孝さんと一緒に新しい命を宿した喜びを分かち合って欲しい。
そう話すと、母はやっと頷いてくれた。
「まったく…、あんた何時からそんな子になったの?小さい頃は甘ったれだったのに…」
言いながら、母は俺の頬を何度も撫でた。
「もう、お兄ちゃんになるんだからね。いつまでも甘えてられないよ」
そう言って俺が胸を張ると、母は吹き出して笑った。
途中で昼食を取ってから帰ると母は言い、午前中の内に病室を後にした。
俺が昼食を終えて間も無く、午後の早い内に、戸田院長が電話を掛けて来た。
「千冬君、昨日、話を聞いてね…」
俺の腕に麻痺が残るかも知れないと聞かされたのだろう。思った通り、心配しての電話だった。
「はい…。今朝、俺も先生から聞きました。でも、大丈夫ですよ。動かなくなる訳じゃないって先生も言ってたし、俺、リハビリ頑張りますから…」
努めて明るく俺が言うと、言葉を選んでいるのか、院長は少しの間沈黙した。
「慶からは怪我をしたとだけしか聞いてなかったんだ。まさか、刺されたなんて…。しかも、原因は侯君なんだろ?私は…、何と言っていいのか分からない。直接の関りはないが、やはり責任を感じるよ。……何か出来ることがあれば、何でも言って欲しい」
「ありがとうございます。でも、本当に戸田さんには何の責任も無いですし、気に病む必要もないです。ただ…、麻痺のことは慶には言わないでください」
「千冬君…」
「刺された現場を見ただけでもショックを受けている筈です。だから、これ以上俺のことで 心配させたくないんです。お願いします…」
「……分かった。ありがとう…」
「いえ…。お礼なんておかしいですよ」
本当に、慶には絶対に知られたくないと思った。
知ったら、慶は村内を益々悪く思うだろう。
もっといい形で二人を会わせられれば、会えたことを喜び合えたかも知れない。俺が村内と寝ていなければ、もっとすんなりと二人を会わせることが出来たかも知れない。
そう思うと、やはり全ては俺が悪いのだと思えた。
折角の機会を、拗れさせたのは俺だ。繋がろうとした縁を、妙な具合に捻じ曲げてしまったのだ。
後悔してもし切れない思いに、俺が深く溜め息をつくと、また躊躇いがちに村内が姿を現した。
腕には抱え切れないほどの、大きな花束を持っていた。
「凄い…。そんな大きいの、飾れるかな…」
俺が目を丸くすると、村内は花束を見て少し困ったような顔をした。
「これ、俺からじゃないんだ。あの…客が、どうしてもって…」
言いながら、村内は花束をキャビネットの上に置いた。
「嫌なら捨てていいよ。…見舞いに来て謝りたいって言われたんだけど、それはちーちゃんの気持ちを確かめないと駄目だって言ったんだ。そしたら、これを頼むって…」
「そう…。捨てたりはしないよ。でも、もうあの人と関わりたくない。謝ってもらう必要はないから、立ち直る努力をするように言って?」
「うん…、分かった。……ありがとう、ちーちゃん」
そう言うと、村内は椅子を引き寄せて座った。
「これ、飾るの嫌なら、俺が持って帰って店に飾ってもらうよ。でっかい花瓶もあるし…」
「うん。そうして」
俺が言うと、村内は頷いた。
そして、無事な方の俺の手を両手で包んだ。
「痛くない?」
心配そうな眼をして村内は言った。
「大丈夫だよ」
「俺が代わりたい…。ううん、本当は俺が刺されてた筈だったのに。俺なんか死んでもよかったのに…」
本気でそう思っていることは眼を見れば分かった。それだけに切なくて、俺は手を動かして彼の手を握った。
「そんなこと言わない。俺は村内さんが死んじゃったら嫌だよ?」
「ちーちゃん…」
ギュッと俺の手を握り、村内は身体を近づけて来た。
そして、俺の肩に顔を埋めるようにして言った。
「ずっと傍に居たい……。ずっと、傍に居たいよ…」
「うん…」
返事をしたが、俺は胸が痛かった。
こんな村内に、俺はもうすぐ別れを言わなければいけないのだ。
「約束して…?」
「うん?」
訊き返すと、村内は顔を上げて俺の眼を見つめた。
「叶わなくてもいいんだ。でも、約束して…。いつか俺が借金を返して、ちゃんとした仕事に就いたら、俺と一緒に暮らして。…いつか、……いつかそんな日が来たら、ずっと一緒に居るって約束して……?」
俺は頷くことが出来なかった。
ただ、じっとその眼を見つめていると、村内はふっと笑った。
「いいんだ。叶わなくていい…。でも、ちーちゃんが約束してくれたら、俺、その日が来ることを励みにして頑張れるから…。だから、約束して…」
「……分かった。約束する…」
やっと俺が答えると、村内は嬉しそうに笑った。
「その代わり、村内さんも約束して…」
「え…?」
手を伸ばし、俺は彼の頬を包んだ。
「俺が居なくても幸せになるって、約束して?……幸せになることを諦めないって、約束して」
俺の言葉に、村内は暫くの間、答えられなかった。
だが、泣きそうな眼になると、ゆっくりと頷いた。
「うん…、約束するよ。ちーちゃん…」