涙の後で
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店に出る支度をしなければならない時間、ぎりぎりまで俺の病室に居て、村内はまた明日来ると言って帰って行った。
病院の早い夕飯が終わり、食器を片付けている処へ、今度は慶がやって来た。
来る前に、病院内のカフェで買って来たらしく、自分の夕飯用のサンドイッチとコーヒー、それに俺用のラテを持っていた。
「ありがと…」
俺が受け取ると、慶は椅子に腰を下ろして、袋からサンドイッチを出した。
「悪い。ここで飯食わして…」
「いいよ。でも、そんなんで足りるの?」
俺が訊くと、慶は袋からもう1つパンを出した。
「慶、そろそろ家に帰る筈じゃなかった?瑠衣子ちゃん、待ってるんじゃないの?」
「ああ、千冬が退院したら帰る。それまではこっちに居るよ」
「そんな…、俺のことはいいよ。もう、心配ないから」
だが、俺の言葉に慶は首を振った。
「いや、リハビリは長く掛かるかも知れないけど、入院期間は短いって聞いたから、それまでは居る。瑠衣子にも、親父にも、そう言ってあるから」
「慶…」
戸惑う俺を、慶はチラリと見て、またサンドイッチに視線を移した。
「あいつ…、来てるのか?」
”あいつ”とは、村内の事だろう。
自分の兄とも知らず、慶は嫌悪感を露にして言った。
「うん、心配してくれてる」
「当たり前だろ」
俺の言葉に、慶は吐き捨てる様に言った。
慶が村内にこんな感情を持ってしまったのは、やはり俺の所為なのだ。そう思うと、自然と涙が出て来た。
「お願い…、慶……」
下を向いて、俺が涙を拭うと、慶の動きが止まった。
「千冬……」
サンドイッチを袋の上に置き、慶は俺の方へ身を屈めるようにした。
「そんなに、好きなのか……?」
俺は答えなかった。
泣いたのは、村内を好きだからだけじゃない。
二人に対して、どう責任を取ればいいのか少しも分からなかったからだ。
「……今日の夕方、真藤さんがコンビニに来たんだ…。黙ってようかと思ったけど、真藤さんには嘘はつけないと思って、千冬が怪我して入院してることは言った。明日にでも、見舞いに来るって…」
「そう…」
また、真藤先輩にも心配を掛けてしまった。俺が力なく頷くと、慶の手が俺の頬から残っていた涙を拭った。
「ごめん……。怒りが収まらないんだ…、どうしても…」
俺の腕に麻痺が残るかも知れないと知ったら、慶はもっと激しく怒るだろう。
やはり、慶には決して知らせてはいけないのだ。
「……借りた本、もう1冊読んじゃった。また、何か貸して?」
気を変えようとして俺が言うと、慶は笑みを浮かべた。
「ああ、明日持ってきてやるよ」
そう言って、慶はまたサンドイッチを手に取った。
4日後に傷の抜糸をすることになり、その翌日が退院ということになった。
退院の日は日曜日だったので、正孝さんと母で迎えに来てくれることになった。そのまま実家に帰り、実家の近くの整形外科でリハビリをすることに決まった。
どれほど回復するか、まだ分からないが、勿論俺は諦めるつもりはなかった。
リハビリ次第では、きっと不自由なく動けるまでになると信じて頑張るつもりだった。
勿論、慶にも、そして村内にも麻痺のことは黙っているつもりだった。いや、母と正孝さん、それから知ってしまった戸田院長の他の誰にも知らせるつもりはなかった。
慶の言っていた通り、昼少し前に真藤先輩が病室のドアをノックした。
俺が返事をすると、子供ほどもありそうな、大きなクマのぬいぐるみを抱えた先輩が入って来た。
「拓馬さん…」
クマを見て俺が笑うと、先輩は愛らしいクマに反して怖い顔で近づいて来た。
「どういう事だ?怪我の原因を訊いても戸田は頑として言わないし…。交通事故とかじゃないんだろ?」
「ええ…。大したことないんです。利き手じゃないし、別に大袈裟に騒ぐほどじゃ…」
俺が言うと、クマを俺の膝の上に載せ、先輩は椅子を引き寄せて座った。
「千冬、俺に嘘が通じるとでも?」
「拓馬さん…」
俺は溜め息をつくと、クマをぎゅっと抱いて、その陰から先輩を見た。
「本当に、怪我は大したことなくて……。ただ、事故とかじゃないので、慶も言えなかったんですよ…」
「原因は、例の彼氏か?」
鋭い先輩に、やはり嘘は通じない。俺は仕方なく、怪我をした時の状況を話した。
「馬鹿ッ…、下手したら死ぬとこじゃないか」
真剣な顔で叱られ、俺は益々クマの陰に逃げ込んだ。
すると、先輩は苦笑しながら俺の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「まあ、千冬のことだから、相手が誰だろうとそうしたろうけどな…。でも、それで戸田のあの顔の原因が分かったよ」
「あの顔……?」
俺が訊き返すと、先輩はまた苦笑した。
「まあ、兎に角、相当怒ってるな…。千冬が庇った男を許せないんだろう」
「そんな言い方…」
俺が恨めしそうに言うと、先輩は眉を寄せた。
「俺だって許せないぞ。これで千冬に後遺症でも残ったら、マジで許さない。千冬がどんなに庇ったって駄目だよ」
真剣な目でそう言われ、俺は黙った。
「俺も戸田も、千冬のことを大切に思ってるんだ。もう、無茶なことするなよ?約束出来ないなら、その男と別れさせて俺のものにするからな?」
何処までが冗談なのか分からないほど、先輩の表情は真剣に見えた。
「また……、そんな心にも無いこと…」
恐る恐る俺が言うと、先輩は手を伸ばして俺の顎を掴んだ。
「こんな危なっかしいことさせておくくらいなら、俺が捕まえておいた方が安心だ。マジだからな?」
「……はい。ごめんなさい…」
心から俺を心配してくれている先輩に、俺はそれしか言えなかった。
俺が素直に謝ったので、先輩はやっと笑みを見せてくれた。
「このクマ…、ずっと抱えて来たんですか?」
「ああ、店からずっとな。可愛いだろ?」
クマを抱えた男前はさぞかしみんなの注目を浴びたに違いない。俺はそれを想像して可笑しくなった。
「”タ・クマ”って名前にします」
俺が言うと、先輩は大袈裟に眉を上げた。
「上手いこと言ったつもりか?…まあ、いいけど。俺の代わりに添い寝させてくれよな」
そう言って、ぽんぽんとクマの頭を叩いた。
来ると思っていた村内は、午後になっても来なかった。
俺が別れを予感させるようなことを言った所為かとも思ったが、昨日の夜、戸田院長に彼から聞いた連絡先を知らせたので、もしかするとその事が原因かも知れない。
戸田院長から、早速、接触があったのだろうか。
もう、事実を知ったのだろうか。
慶のことは知らせずに、上手く話してくれているといいと思ったが、それは戸田院長の判断に任せるしかなかった。
それに、院長と慶の両方の顔を見ている村内が、二人が親子だと気づけない訳がない。
俺に出来ることは、もう何も無いのかも知れない。
慶のことも、村内のことも、癒せるものなら癒したい。
俺に出来ることがあるなら、本当に何でもしたいと思っていた。
夜になって、定期便の様に慶が現れ、また本を2冊運んで来てくれた。
俺の隣でベッドに入っていたクマを見て笑うと、先輩がしたのと同じように、その頭をぽんぽんと叩いた。
翌朝、戸田院長から電話があり、今日の午後、村内と会うことになったと言われた。
やはり、昨日村内が来なかったのは、戸田院長からの連絡を受けたからだろう。
二人の間に、どんな会話がなされるのか分からなかったが、俺の心を落ち着かなくさせた。
じっとしていられなくなり、クマを抱いたまま部屋の中をうろうろと歩き回ったが、入って来た看護師に笑われて、恥ずかしくなると、またベッドに寝かせた。
イケメンに抱かれて来たクマは、看護師の間で話題になったらしく、担当じゃない看護師までが部屋を覗きに来た。
大人しくベッドに寝かされていたクマを見ると、みんなが可愛いと言って頭を撫でて行った。