涙の後で
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退院の日、母と正孝さんが迎えに来てくれて俺は実家へ戻った。
春休みの間中は、こちらの近くの病院へ通ってリハビリをすることになり、春休みが終わって学校が始まったら、手術した病院へ通おうと思っていた。
思った通り、あの後、毎日顔を見せていた村内はぴたりと病院へ来なくなった。
寂しいのと申し訳ない気持ちとで、考えるといつも泣きたくなった。
俺なんかのちっぽけな身体に、縋るようにして顔を埋めた村内のことを、思い出さずにはいられなかったのだ。
貰った連絡先を見ながら、何度も番号を押したが、結局送信できずに消した。
もしかしたら、もう1度会えば、俺たちは離れられなくなるのかも知れない。だが、俺の腕のことを知ったら、村内は自分を許せなくなるだろう。
そして、結局俺は、彼を不幸にしてしまうだろう。
だから、会ってはいけないのだ。
会いたくても、恋しくても、俺たちの関係は終わりにするべきなのだ。
ずっと重い気分のままだったが、翌日から俺は病院へ通ってリハビリを始めた。
左手はずっと使わないようにしていたので分からなかったが、いざ、動かしてみようとすると、本当に驚くほど動かないことが分かった。
痛みもまだあったし、その所為もあって力が入らない。俺はだんだん不安になっていった。
だが、挫けている訳にはいかない。全ては自分の頑張り次第なのだ。
俺は母や正孝さんに心配を掛けまいとして、全て順調なふりをしながら病院へ通った。
慶からは毎日のように、それから真藤先輩も何度かメールをくれた。
俺は二人にも実際より良くなっていると伝えた。
利き手ではないとは言え、片手しか使えないというのは随分と不自由だった。このまま、まったく動かなくなったら普通に生活するのも難しいだろう。
それを思うと、やはり少し怖くなった。
だが、毎日リハビリを続けている内に、本当に少しずつではあるが動かせるようになってきた。
「大丈夫…、きっと回復する……」
自分にそう言い聞かせ、俺は病院へ通った。
だが、当初の予定の様に春休み終了と共にアパートへ帰るのは止めることにした。戻っても、やはりまだ一人で生活するのは難しかったからだ。
両手が使えないと、料理も洗濯も難しい。俺は、急に自分が役立たずになったことを知った。
家にいるのだから、仕事をしている母に代わって、少しでも家事を手伝いたかったのだが、今の俺に出来ることは本当に少なかった。
食器を洗う事さえままならず、自分に腹が立ってくる。だが、焦っても仕方ないと分かってはいた。
俺が戻らないと知ると、実家を知っている真藤先輩が土日を利用して会いに来てくれた。
1泊してくれると言うので、先輩の希望もあって、祖父の墓参りに行くことにした。
すると、自分たちも参りたいからと、母と正孝さんも行くことになり、車で向かうことになった。
祖父の墓に参り、帰りは4人で外で食事をした。
片手で食事をする俺を見て、不自由そうだと思ったのだろう。先輩は時折、心配そうに俺を見た。
その夜、俺の部屋のベッドの下に布団を敷いて横になると、先輩は躊躇いがちに口を開いた。
「腕…、千冬が言うほど回復してないんだな…」
心配そうに言われて、俺は答えられなかった。
「まあ、まだリハビリを始めて1か月にもならないし、仕方ないか。焦ることないぞ、千冬…」
優しく言われて俺は頷いた。
「はい…。大丈夫ですよ、徐々に動くようになってますから。きっと、治ります」
「そうだな…」
頷いた後で、先輩は迷っているようだったが、再び口を開いた。
「例の…、彼氏はどうした?心配してるんじゃないのか?」
俺は真実を言おうかどうしようか迷った。
だが、何時でも俺の嘘は、先輩に見抜かれてしまう。誤魔化せた試しなどなかったから、無駄なことは止めようと思った。
「……もう、会うことは無いと思います…」
俺の言葉に、先輩は片肘を付いて身を起こした。
「なんでだ?……千冬が別れようって言ったのか?」
俺は首を振って、やはり起き上がった。
「あの人は、俺と暮らしたいって言ってくれた。……俺も、そうしてもいいと思った。俺なんかを、こんなに求めてくれるなら、あの人と一緒に居たいと思った。……けど、俺と慶のことを思って身を引いてくれたんです…」
「おまえと……戸田の…?」
慶の名前が出て来たことを不思議に思って、先輩は訊き返した。
俺は頷くと、先輩の方を向いた。
「あの人……、村内侯は、慶の兄だったんです……」
「なに……?」
先輩は驚き、ガバッと起き上がると俺の顔を凝視した。
「どういことだ……?」
布団から出ると、先輩は俺のベッドへ腰を下ろした。
俺は、慶の生い立ちを掻い摘んで話し、それから、俺が村内と慶の繋がりに気づいた話もした。そして、病院で村内と戸田院長が出会ったことまでを話した。
「そんなことが……」
言葉も無いといった風に、先輩は絶句した。
「村内さんは、金なんか要らないって言った…、全部自分が働いて返すから、だから俺と暮らしたいって……。俺も、そうしたいと思った……」
「千冬……」
先輩の暖かい腕は、また俺を包んでくれた。
何時もの様に、その胸は俺の涙を吸ってくれた。
「俺が…、自分と暮らす為に、慶との関りを断つつもりだと気づいたんだと思います。だから……」
「そうか……」
そう言ったきり、先輩は何も言わず、ただ俺の身体を抱きしめてくれた。
いつだって、俺が一番辛い時に、この腕が傍にいてくれる。
それに甘えることしか出来ない自分を不甲斐ないと思いながら、それでも俺は縋らずにはいられなかった。
「知らないこととは言え、俺は慶に実の兄を恨ませてしまった……。辛い生い立ちを抱えた二人を、本当はいい形で出会わせてやれたのに……。俺は……ッ」
「馬鹿…、また、そうやって自分だけが悪いと思うな。誰も悪くなんかない。誰も、何一つ知らなかったんだ。仕方ないことなんだよ」
優しく言って、先輩は俺の背中を撫で続けた。
「一人で抱え込むなよ?何時でも俺が聞くから……。いいな?千冬」
「はい……」
翌日、昼過ぎに帰ると言う先輩を駅まで送ると、時間まで一緒にカフェでお茶を飲んだ。
「拓馬さん、俺の腕の事、慶には言わないでください。それから……」
皆まで言う前に、先輩は頷いてくれた。
「分かってるよ。戸田には何も言わない。心配するな」
「ありがとう…」
「また来るよ。迷惑じゃなきゃな」
笑いながらそう言われ、俺は少し恨めし気に先輩を見た。
「迷惑な訳ないでしょ。知ってる癖に意地悪言うんだから…」
先輩に全てを話したことで、俺は少しだが心が軽くなった。本当に、いつでも俺は先輩に助けられているのだ。
「これから病院だろ?」
「はい。今度会う時には、もっと動かせるようになってますから」
俺の言葉に先輩は頷いた。
「そうだな。頑張れよ」
「はい」
返事をして俺が笑うと、先輩も笑ってくれた。
改札の近くで先輩を見送り、俺はバスに乗って病院へ向かった。
本当に次に会うまでに、腕が自由に動くようになっていることを願い、俺はリハビリに励んだ。
真藤先輩に約束した通り、俺は精一杯頑張ったつもりだった。
だが、2か月が過ぎても、俺の腕は思ったように回復することは無かった。
胸の高さまでは持ち上げることが出来たが、それ以上は自力では難しく、指先は動くようにはなったものの、痺れが残り物を掴むのに苦労した。
これ以上頑張っても、多分、元通りにはならないと診断され、俺もまたそれを自覚していた。
諦めるしかないのだと悟った。
だが、まだ出来るだけのことはするつもりだった。
握力が少しでも回復すれば、普通の生活は出来る筈だった。
だが、俺は大学へ戻ることは諦めるしかないと思った。
このまま卒業しても、多分、就職はままならないだろう。
それに、俺の腕が元に戻らないことを、慶に知られたくなかった。
知れば、慶は益々村内を憎むかも知れない。
たった二人の兄弟なのだ。出来ることなら、認め合って欲しかった。そして、何時かは蟠りを捨てて再会して欲しかったのだ。
それを、俺が邪魔するのは絶対に嫌だった。
大学に戻れば、慶に会わない訳にはいかない。そして、会えば、俺の腕のことを隠してはおけないだろう。
心を決め、俺は母と正孝さんに大学を辞めることを告げることにした。