涙の後で
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思い掛けなく真藤先輩にテストしてもらう形になったが、開店前に合格点を貰えて安心した。
ランチメニューに加えようと思って試作していたカレーが丁度出来上がったので、それで皆で昼食にすることにした。
「うん…、旨い。前にアパートで作ってもらったのも旨かったけど、これの方がコクがあるし、プロっぽいよ。凄いな、千冬」
褒められて、俺はホッとした。
「じゃあ、安心してランチのメニューに加えます」
「サラダ代わりにサイドに焼き野菜を付けて、カレーにトッピングしてもらってもいいかと思うの。他は溶け込んでしまって大きな具は肉だけだし…、どうかしら?」
祖母に訊かれて、先輩はすぐに頷いた。
「いいですね。俺が客だったら生野菜より嬉しいですよ。賛成です」
先輩に言われて、祖母は嬉しそうだった。その他にも、色々とメニューの相談をすると、先輩は一生懸命考えてアイデアを出してくれた。
「千冬、長期休みには手伝いに来るからな」
「え?…そんな、悪いですよ。予定だってあるだろうし…」
俺がそう言うと、先輩はちょっと睨むような眼をして言った。
「千冬の店だぞ。俺が手伝わないでどうする?それに、俺だって楽しみだからいいんだ」
「ありがとうございます」
嬉しくなって俺が笑うと、先輩も優しい笑みで答えてくれた。
開店の日は土曜日だったので、またその日に来ると約束してくれた。
慶には内緒にして欲しいと言い掛けると、全部言う前に先輩は頷いてくれた。
「俺からは何も言わない。だが、戸田は、何度も俺に千冬のことを訊きに来てる。苦手に思ってる筈の楠田にまで訊いて来たそうだ。……おまえから連絡してやれよ。戸田は、随分思い詰めてるぞ」
俺が黙っていると、先輩は俺の肩を掴んだ。
「千冬が何でこんなことをしたのか、分かるつもりだ。…全部、戸田の為なんだろ?けど、守ることだけが正しいとは限らないぞ?」
俺が顔を上げると、先輩がじっと俺の眼を見た。
「守られるより、本当のことを知る方を戸田は選ぶと思う。千冬を失うくらいなら、きっとそう思うよ」
失うなんて、大袈裟な言い方だと思った。慶が俺に対してそこまでの気持ちを持ってくれているとは思えない。
多分、少しの間は寂しいだろうが、きっとその内にそんな気持ちも薄れていく筈だった。
開店の日、朝早くに、また先輩が来てくれた。
手には開店祝いだと言って可愛い花束を持っていて、俺はそれを受け取り、カウンターの真ん中に飾った。
母と正孝さんも来てくれたので大丈夫だと言ったのに、先輩は手伝うと言ってエプロンを付けた。
小さい店なので、そうなると人手が有り過ぎる。慣れない母と正孝さんには手伝いはいいと断った。
祖母がやっていた時の常連さんに開店の葉書を出してあったので、何組かは来てくれるかも知れないが、そう多くはないだろうと思っていた。
だが、午前中に数組と、それからランチにも席が埋まるくらいのお客が来てくれた。
お陰で、忙しい初日を迎えることが出来、俺は嬉しかった。
ランチのメニューは全て評判が良く、俺も祖母もホッとした。
以前もそうだったが、先輩は本当に楽しそうに接客をしてくれて、イケメンの笑顔に女性客は皆うっとりしているようだった。
祖母の手作りケーキが無いのが残念だと常連さんに言われたが、俺一人になるとケーキは無理なのでメニューには加えなかったのだと説明した。
その内に慣れてきたら頑張ってみると言うと、期待して待っていてくれると言ってくれた。
夕方まで、ぽつぽつとだが途切れずにお客があり、俺たちは取り敢えず順調に初日を終えた。
真藤先輩は、泊まって明日の日曜も手伝ってくれると言ってくれた。すると、開店祝いに正孝さんが奢ってくれることになった。
祖母の行きつけの寿司屋へ出掛け、奥の座敷でゆっくりとお任せの料理を堪能した。
「お祖父ちゃんが生きてたら、喜んだでしょうねえ、きっと。まさか、千冬が店をやってくれるなんて…」
先輩と呑んだ日本酒に少し酔ったのか、祖母は眼の縁を少し赤くしてそう言った。
「どうかなぁ?心配だ、心配だって言ったよ、きっと」
俺が笑いながら言うと、祖母も笑った。
「私も本当は千冬と一緒に続けたいけどね…。でも、春彦と茉奈さんが折角一緒に暮らそうって言ってくれたのに、断る訳にもいかないからね」
「そうよ。兄さんだって、母さんの為に色々と準備してくれたんだから」
母が言うと、祖母も頷いた。
「そうよねえ…」
少し寂しそうだったが、祖母はすぐに笑顔になって言った。
「でも、時々は手伝いに来るわよ。暇を持て余したら邪魔しに来るから、追い返さないでね」
祖母の言葉に俺は笑い、空になった猪口に酒を満たしてやりながら言った。
「そんなことする訳ないだろ。お師匠様に失礼な…」
「俺も弟子入りしたいですよ」
横から先輩が言うと、祖母は両手で頬を抑えて嬉しそうに笑った。
翌日は、やはり葉書を貰ったお客が来てくれて、店は賑やかだった。
先輩は結局、店が終わるまで手伝ってくれた。
俺がバス停まで送って行くと、夏休みにまた来ると言って帰って行った。
前の晩は、母と正孝さんも遅くまで居たし、ずっと先輩が傍に居てくれたので、祖母と二人の夜は少し寂しかった。だが、1週間後には俺一人になることを思うと、寂しいなどと言ってらいれないと思った。
祖母はもう少し長く居てくれると言ったのだが、もう何か月も傍に居てくれたので、そろそろ一人で頑張ってみると話した。
前からの常連のお客さんに、やはりお茶うけに甘い物があるといいと言われ、ケーキは無理でもプリンなら何とかなるかと思い、作ってみることにした。
寮の食堂で売っていた素朴な味を目指して、レシピを検索すると試作を繰り返した。
何とか納得のいく仕上がりになり、祖母と常連客に試作品を試食してもらった。すると、中々評判が良かったので、1日に限定20個でメニューに加えることにした。
1週間後、祖母が行ってしまい、俺一人になると、少々不安になった。
だが、繁華街にある訳でもない小さな店だったので、目の回るような忙しさは無く、一人で何とか切り盛りできる程度の客足だったし、焦らずにやっていけそうだった。
慣れてくれば、少しずつメニューも増やしたり、また季節ごとに変えたりしながら、のんびりやって行くつもりだった。
1か月くらい経つと慣れて来て、左手が不自由ながらも作業時間も短くなってきた。
心配してくれているのだろう、母と正孝さんは週末になると大抵顔を見せてくれた。
「千冬、何だか生き生きしてきたわね。こういう仕事、向いてたのかもね」
母に言われて俺は頷いた。
「うん。お客さんに喜んでもらえると嬉しいし、また頑張ろうって気持ちになるよ。今のところ、凄く楽しい」
俺が言うと、母も正孝さんも嬉しそうな顔になった。
「日替わりスープの種類も増やしたんだね?このプリンも何だか懐かしい味でいいなぁ。頑張ってるね、千冬君」
「本当はケーキも始めたいんだけど、ボールをしっかり持って泡立てるってのがどうしても無理なんだ。だから、諦めたよ」
「あら、それなら自動でやれる機械があるじゃない?なんだっけ?スタンドミキサー?あれ、買いなさいよ」
「買いなさいよって…」
母の言葉に俺が笑うと、正孝さんがスマフォで検索を始めた。
「これ?千夏さん」
すぐに見つけて正孝さんは母にスマフォを見せた。
「そうそう、これよ。あら、業務用でもそんなに高くないわ。開店祝いに何もあげてないし、私が買ってあげるわよ」
「ええー?ほんとに?」
俺が驚くと、母はにんまり笑って俺を見た。
「その代わり、美味しいケーキ作ってよね。私たちの誕生日にも発注するから」
「分かった。頑張るよ」
俺が答えると、母は満足そうに頷いた。
最初は不安に思っていたらしい母も、俺が店に立つ姿を何度も見ている内に少しは安心してくれたようだった。
俺が独り立ち出来なければ、いつまでも母たちに心配を掛ける。俺は改めて、店を始めて良かったと思った。
夏休みになると、忙しい筈なのに、また真藤先輩が来てくれた。
大きなスーツケースを転がして来た先輩を見て俺は驚いた。どうやら、夏休みいっぱい手伝ってくれるつもりらしい。
「拓馬さん、そんなの悪いですよ。色々予定もあるんでしょ?」
俺の言葉に、先輩は肩を竦めた。
「あったよ、勿論。けど、ぜーんぶ断って来たんだからな?千冬の為に」
「拓馬さん…」
俺が見つめると、先輩はニッと笑った。
「ん?キスしたくなったか?」
本当はしても良かったが、俺は先輩を睨んだ。
「なりません。その代わり、ちゃんとバイト代払いますから。しっかり働いてくださいね」
「うわ…。分かりました、店長」
先輩の言葉に、俺は吹き出して笑った。
すぐに荷物を片付け、先輩はその日の内から店に出てくれた。
何度も手伝ってくれているので、慣れたもので、俺も安心して任せられた。
「結構、お客さんあるんだな。心配してたけど、これなら大丈夫そうだ」
夜になって、自宅の方で遅めの夕飯を食べながら先輩が言った。
「はい、お陰様で。近くの会社の人達がランチを食べに来てくれるようになったし、主婦のグループなんかも増えてきて…」
「良かったな。千冬の努力が実ってるよ」
笑い掛けられて、俺も嬉しくなって笑みを浮かべた。
「ケーキの試作も色々やってるんですけど、今以上数を増やすのは大変なんで、1日に出すのは2種類に決めたんです。それを、内容を変えてやろうかと」
俺が言うと先輩は頷いた。
「そうだな。無理なくやれる方がいいと思う。長続きしなくちゃ意味が無いしな」
「はい…」
俺が頷くと、先輩は少し迷いながら話し始めた。
「なあ、千冬…、戸田だけどな…」
「え…?」
久し振りに慶の名前を聞いて、俺はドキリとした。
勿論、慶のことは何時でも気に掛かっていた。
何かしている時はいいが、何もせずにいると、いつでも思い出す。どうしているのか、元気なのか、いつも気になっているのだ。
「慶が、どうかしましたか?」
何だか胸が苦しくなって、俺はギュッとシャツの胸の辺りを掴んだ。
「ああ…。しつこく俺に千冬のことを聞いて来てたんだが、今はもう、俺に会っても口も利かなくなった。頭は下げるが、話しかけても答えない。俺がおまえの居所を知ってるって思ってるんだろうな。そして、話さない俺に激しく怒ってる」
そう言って、先輩は苦笑した。
「済みません…」
俺が項垂れると、先輩は少し眉を顰めた。
「あいつ、なんて言うか…、最初に会った頃に戻ったみたいだ。3年間千冬の傍に居て、随分人間らしくなったと思ってたけど、今はまた、入寮した頃の不愛想で無表情な奴に戻ってるぞ」
「そんな…、拓馬さんの気のせいですよ」
多分、慶は俺が約束を破って姿を消したことに腹を立てているのだろう。だから、不機嫌なのだ。
だが、暫くすれば、きっと怒りも治まるに違いない。
そして、俺のことも気にならなくなる筈だった。
「……なあ、もう連絡してやったらどうだ?」
「はい…。考えておきます」
そう答えたが、俺は連絡する気はなかった。
そして先輩も、それを分かっているようだった。
以前、泊まってもらった時と違い、今は部屋が空いてるので、先輩は客間で寝てもらうことにした。
俺は祖母たちが使っていた部屋にベッドを入れ、あれ以来、クマと一緒に寝ていた。
すると、俺の部屋に入って来た先輩が、ベッドからクマを退かせてそこに横になった。
「本物が来たから、おまえは今日は添い寝しなくていいぞ、クマ」
ベッドの下に追いやったクマの頭を撫でながら先輩は言った。
「本物って……。一緒に寝る気ですか?暑いでしょ?」
呆れて俺が言うと、先輩は起き上がってリモコンを取り、冷房の温度を下げた。
「これで、よし」
「良くないです」
「いいだろ?久し振りなんだから、一緒に寝ようぜ」
「もうっ…」
引っ張られて、俺は仕方なく隣に横になった。
セミダブルサイズのベッドだったが、先輩はクマとは大きさが違う。やはり少し窮屈だった。
「何時からそんなに寂しがりになったんです?」
「千冬こそ、寂しいくせに。マジでこれと一緒に寝てるとはな…」
また、クマの頭に手をやり、先輩は笑った。
「拓馬さんが、添い寝しろって言ったんですよ。それに、この子、抱き心地いいんです」
「知ってる。ちゃんと抱き心地を確かめて買ったんだから」
それを聞いて、俺は少し起き上がって先輩を見下ろした。
「まさか、店の中でギュッてやったんですか?」
想像して、笑いを堪えながら言うと、先輩の方は気にもしていない様子で言った。
「ああ。店に居た女の子たちの視線が集まったよ」
それはそうだろう。180センチはある長身の若い男がクマを抱きしめていたら、注目されて当然だ。しかも先輩は、クマを抱いたまま病院までやって来たのだ。
「大胆ですよね、拓馬さんって…」
呆れたように言って、俺はまた枕に頭を付けた。
すると、今度は先輩が少し起き上がって俺を見下ろした。
「千冬も俺をギュッとやっていいんだぞ」
見なかったが、その口元が揶揄うように笑っているのが分かった。
「しませんよ」
そう言って俺が背中を向けて寝返りを打つと、上になった左手に先輩の手が乗った。
「……もう、痛みは全くないのか?」
「ええ、もう痛くはないです」
振り返ると、心配そうな眼をして先輩は俺の傷跡を見ていた。
「前よりは動くようになったのは、働いてるのを見て分かったけど、それでもこの腕で一人で店をやるのは大変だろうに…。ほんとに千冬は強くなったよ」
そう言って、先輩は俺を見て笑みを浮かべた。
「そうかな…。そうならいいけど……」
本当に、少しは強くなれていたらいいと思う。
先輩の腕の中で泣いてばかりいた弱虫な自分から、少しでも成長出来ているならいい。
横になった先輩が、後ろから俺を抱きしめた。
「なあ、縁りを戻すか?俺と…」
その言葉に、俺はくすっと笑った。
「別れてもいないのに、戻すのは無理ですよ」
俺が言うと、先輩も笑った。
「そうだな…。別れたこと無かったな、俺たちは」
はっきりと恋人だったことも無い。でも、こうして抱きしめられても、少しも変だとは思えない。
そして、もし今抱かれたとしても、俺と先輩はずっと変わらないような気がした。
「冷房、効き過ぎじゃないです?」
俺が言うと、先輩は更に俺を深く抱いた。
「丁度いいって…」