涙の後で


-9-

先輩が起きる前に、俺はいつも通りの時間にケーキの仕込みを済ませ、それから朝食の用意を始めた。
すると、まだ出来上がる前に先輩が起きて来て、手伝ってくれた。
朝食の後で、今度は日替わりのスープを仕込み、ケーキをオーブンに入れた。
店が休みの日以外は、毎朝やることなので、もうすっかり慣れたが、最初のお客さんが来るまでは、いつも少し不安になる。
だが、今日は先輩が一緒に準備してくれたせいか、不安な気持ちはなかった。
やはり、一人でやるより、二人の方が同じことをやるのでも楽しい。
先輩が居ると店が明るくなったし、手伝ってくれている間に何度もリピートしてくれる女性客もいて、これはもしかすると先輩目当てなのかも知れないと思った。
日曜日になると、母と正孝さんが顔を見せてくれた。
あと2か月で臨月になる母のお腹は大分大きくなっていたし、もう、そう頻繁に来なくても大丈夫だと俺が言ったからだったが、この頃では、毎週という訳ではなく、来るのは月に1、2度になっていた。
「うわ…、重そうですね。大丈夫ですか?」
母のお腹を見て、真藤先輩は労わる様に椅子を引き、そこへ座らせた。
「ありがとう。また手伝いに来てくれたって千冬に聞いて、お礼を言いがてら出て来たわ。千冬を生んで20年も経ってからの妊娠だから、色々忘れちゃってて初産みたいよ」
母が笑うと、先輩も笑みを見せて頷いた。
「忙しいのに、ありがとう、真藤君」
「いえ、俺も楽しみで来てるんですよ。この店が好きなんで…」
「今夜また、あのお寿司屋さんに行きましょうよ。ご馳走するわ」
母が言うと、先輩も嬉しそうに返事をした。
母のお腹の中の俺の兄弟は男の子だと分かった。高齢出産だったが、母は健康だし、胎児も元気で順調だった。
「名前、決めたんですか?」
先輩が訊くと、正孝さんはポケットから紙を出した。
「それなんだけど……」
正孝さんが答えようとすると、隣から母が口を出した。
「秋生まれだからね、千夏、千冬ときたら、千秋なんだけど、家にはもう千秋がいるでしょ?」
「そうなんだ。まさか猫のちーちゃんと同じ名前って訳にもね」
苦笑しながら正孝さんは言い、俺たちに持っていた紙を広げて見せた。
「だから、”千”じゃなくて”万”にしようかって…。万に秋って書いて万秋(ましゅう)ってどうだろ?」
正孝さんが言うと、すぐに先輩が頷いた。
「ああ、いいですね。万秋か…、カッコいいです」
「うん、いいね。可愛いし、イケメンになりそうな名前」
俺の言葉にみんなが頷いた。だが、俺は気になって正孝さんに訊いた。
「でも、正孝さんの一文字は入れなくていいの?」
「いや、それはいいよ。正も孝も今時じゃないしね。呼びやすくて覚えやすい名前にしようって千夏さんと決めてたから」
「うん、万秋って呼びやすいよね。…ああ、楽しみ。早く生まれないかな…」
そう言って俺が母のお腹を撫でると、中から胎児が俺の手を蹴った。
「あら、お兄ちゃんって分かったのかしら?挨拶したわ」
母の言葉に俺は嬉しくなって、もう1度丸いお腹を撫でた。



夜、寿司屋から帰って来て、俺がコーヒーを淹れようとしてキッチンに立つと、母が入って来た。
「俺がやるから座ってて…」
「大丈夫よ、病気じゃないんだから。少しは動かないと良くないの。仕事も産休に入っちゃうし、家でも正孝さんが何でもやってくれちゃうから」
そう言って母は苦笑すると、食器棚からカップを選んでテーブルに並べた。
「優しいもんね、正孝さん。結婚して良かったね」
「ええ…」
頷きながら、母は俺に近づいて来ると隣に立った。
「でも千冬、本当は嫌だったんでしょ?私が正孝さんと結婚したの…」
訊かれて俺は首を振った。
「そんなことないよ。嫌だった訳じゃない。ただ…、どうしていいのか分からなかっただけ」
「そうよね…。思春期にいきなり若い父親が出来たんだもん。戸惑って当然よ。……でも、こうしていい関係になってくれて嬉しいわ。ありがとね、千冬……」
母の言葉に、俺は少々罪悪感を覚えた。だから、わざと憎まれ口を利いた。
「やだな、気持ち悪い。妊娠したら急に優しくなったの?」
「なによ、失礼ね。元々優しいでしょ」
そう言って笑った母に俺も笑った。
「ねえ、母さん……」
言わなくてはならないと思っていたことを、今なら自然に言えるような気がして、俺は口を開いた。
「俺…、こんな身体になったからって理由だけじゃなく、多分、結婚は出来ないと思う…」
俺の言葉に、母は何も言わず、ただじっと俺の顔を見つめた。
「母さんにはショックな話かも知れないけど、俺、女の人に興味がない…。だから、俺はずっと一人かも知れないよ」
申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、俺はやっと母に真実を伝えた。
悲しむかも知れないと心配していたが、母は口元に笑みを浮かべて言った。
「知ってたわよ。私は千冬の母親なんだからね。それくらい、気づいてたわ…」
「えっ?ほんと?何時から?」
驚いて俺が訊くと、母は少し首を傾げるようにした。
「高2の夏休みに、有川君って子を連れて来たでしょ?あのイケメン君が来た時、何となく分かったわ。この子はただの後輩じゃなくって、千冬の彼なんだなって…」
「う、嘘……」
それを聞いて、俺は口元を手で押さえた。多分、顔は真っ赤だったろう。
まさか、有川と部屋でセックスしたことまで気づいていたのだろうか。そう思うと、身の置き所が無くなった。
母はそんな俺を見て少し笑った。
「いつ、本当のことを言ってくれるのかと思ってたけど、まあ決心がいることだし、こちらからは訊くまいと思ってたのよ」
そう言って、母は俺の肩を掴んだ。
「いいの…。結婚しなくてもいいし、孫の顔も見せてくれなくてもいい。ただ、千冬が思うように生きて、そして幸せなら、どんな形だっていいのよ」
その言葉に涙が滲んだ。
知っていながら、母は黙って見守っていてくれたのだ。そして、こんな親不孝な俺を許してくれるのだ。
その大きさに俺は感謝するしかなかった。
「真藤君のことも、そうなのかな…と思ったのよね、最初は。でも、何度か会ってる内に、ちょっと違う気がしたわ。なんて言うか…」
母が首を捻った時、先輩がキッチンに入って来た。
「俺の事、呼びました?」
訊かれて母はチロッと舌を出した。
「呼んでないわよ。あ、そこのお盆、取ってくれる?」
「あ、はい」
コーヒーの入ったサーバーを持ち、俺がカップに注ぐと、先輩がトレイに乗せて運んでくれた。
「甘いの無いの?」
冷蔵庫を開けながら母が言い、俺はひとつだけ残った今日のケーキを、捨てなくて良かったと思いながら母の為に皿へ移した。



1か月もの間、傍にいてくれた真藤先輩が帰るとなると、やはり寂しかった。
最初の晩は一緒に寝たが、それ以降はちゃんと用意された部屋で寝ていた先輩だった。だが、帰る前の晩は、また俺のベッドに入って来た。
「冬休みにも手伝いに来るな?」
「え、でも…」
嬉しかったが、俺は躊躇った。また先輩の予定を潰してしまうのは申し訳なかったのだ。
すると、先輩は俺の鼻を摘まんだ。
「俺が来たいんだって。千冬と働くのが楽しいし…」
「でも…」
「今は、彼氏も彼女も居ない。作る気もない」
先回りして言われ、俺は苦笑した。
「どうして、作らないんです?」
俺が言うと、先輩はベッドに仰向けになって伸びをするように両腕を挙げた。
「探して作るもんじゃないだろ。焦らず、出会うのを待つよ」
そう言った横顔を見つめて、俺はそっと溜め息をついた。
先輩はまだ、中島先生への気持ちを忘れていないのだろうか。
慶のことを、未だに吹っ切れず心に仕舞い続けている俺が言うことではないが、先輩には幸せな恋をして欲しいと思う。
言えないまま、いや、言わないまま諦めてしまうような恋は、もう、して欲しくなかった。
「気になる子とか、気になるヤツとかいなんです?」
訊くと、先輩は俺の方を向いて眉間に皺を寄せた。
「だから、いないって。それに……」
肘を突いて手で頭を支えると、先輩はまた俺の鼻を摘まんだ。
「気になるヤツの方は、きっともう現れないよ。俺の最後の”男”は千冬だ」
「えー?やだなそれ、重い……」
俺が憎まれ口を利くと、先輩は拳骨を作った。
「なんだと?俺の最後の男だぞ。光栄に思えよ」
その言葉に俺は思わず笑った。
「やっぱり女の子がいいんだ」
「そういう訳じゃないけどな……。多分、もっといい男なんか、きっといないと思っちまうから」
その言葉に俺は黙った。
やはり、中島先生のことを、先輩は今でも忘れられないのだろう。
「そんな顔するな。もう、未練はないって…」
笑いながらそう言われ、俺は頷いた。
「なあ、千冬…、まだ先だけど、来年俺、アメリカに行くことにした」
「え…?」
急な話に俺が驚くと、先輩は手を伸ばして俺の髪を撫でた。
「まあ、そうは言っても、長くて2年くらいだと思う。親父がやっと日本へ帰れそうなんだ。それで、帰る前に折角だから向こうで暮らしてみたらどうだって言うからさ」
「ああ…。そうなんですか」
先輩のお父さんが、ずっと海外赴任していたのは知っていたので、俺はすぐに頷いた。
「春なら俺も卒業するから学校も休まなくていいし、タイミングいいからな。それと、弟も一緒に連れて行こうかと…」
先輩の弟は母親に引き取られて今では別々に暮らしている。いい機会なので、短い間でも3人で一緒に暮らすことにしたのだろう。
「良かったですね。弟さんも喜ぶでしょう」
「ああ…。まあ、そんな訳で来年は来たくても来れないし、こっちにいる間は手伝いに来るよ」
「ありがとうございます」
2年間でも先輩に会えなくなるのかと思うと寂しかったが、永遠の別れではないし、それに今年はまだ何か月もある。その間に、きっと何度も来てくれるに違いなかった。
「千冬、俺が帰って寂しいだろ?ギュッてしてやろうか?」
揶揄うようにそう言った先輩は、俺がまた拒絶するに違いないと思っていたのだろう。だが、今度は素直に頷いた。
「はい…」
返事をすると、俺は先輩の傍に寄ってその胸にくっついた。
すると、先輩は腕を回して俺の身体を抱きしめてくれた。
「相変わらず、抱き心地いいな、千冬は」
「クマと一緒にしないでください」
「はははッ…」
笑った先輩に俺は動く方の腕を回した。
両腕で抱き付けないのが何だかもどかしい。だが、その分先輩がぎゅっと強く引き寄せてくれた。