涙の後で


-10-

秋になっても、真藤先輩はちょくちょく店に来てくれた。
あの後、先輩は慶の話は何もしなかったが、俺は戸田院長に何度か電話して、村内の話や慶の話を聞いていた。
村内は仕事にも慣れ、職場でも上手くやっているらしい。人懐っこい性格なので、きっとみんなにも好かれているのだろう。
瑠衣子ちゃんは、少しずつ家に居られる時間が長くなってきているらしく、俺はホッとした。だが、俺に会いたいと何度も言っていると言われ、胸が痛んだ。
「もっと元気になったら、きっと会いに来てくれるからと母親に言われてね。食事も頑張って食べる様になったんだよ。だから、少し太ったかも知れない」
「そうなんですか?それなら良かった…。きっと、大人っぽくなって綺麗になったんでしょうね」
「そうだな。少し大人っぽくなったかも知れないね。まあ、それでも、同じ年の子たちと比べたら子供だけどねえ」
外の世界を余り知らない瑠衣子ちゃんには、あどけなさも残っているのかも知れない。だがもう、16歳だ。少女から大人の女性へ変わる年頃だろう。
「千冬君…、慶のことだけどね…」
言い辛そうに院長が話し始めると、俺は少し身構えた。
「滅多に帰って来ないんだが、それでも、たまに帰って来ると瑠衣子にだけ会って帰ってしまう。元々私とは余り口を利いてくれなかったが、それでも、こんなに避けられることは無かったんだがね…」
「そう…ですか…」
先輩も言っていたが、やはり慶はまだ怒っているのだろうか。
「そろそろ、会ってやってくれないか?瑠衣子も心配しててね。自分には会いに来てくれるが、前の慶とは違うって言うんだ。君に会えなくなって、変わってしまったって…」
「そんな…、俺のことは関係ないですよ。…きっと、すぐに元に戻ります」
そう言うと、院長は暫く黙っていたが、やがて諦めたような口調で言った。
「約束したから、私からは何も言わない。だが、考えておいて欲しい。君から慶に連絡してやってくれ」
返事はしなかった。
慶が俺に会えないだけで変わってしまったなんて、信じられなかった。
慶の中で、俺の存在がそれ程重要だとは思えない。
確かに、心を割って話せる友人は他にはいなかったのかも知れない。だが、大学の友達も増えていたようだったし、やがては俺以上に親しくなれる相手も出来るだろう。
そうすれば、俺なんか、きっと必要なくなる。いつかは忘れてしまうだろう。
院長には、また連絡するからと約束して電話を切った。
慶のことを思う度、いつでも胸の中がざわめいてしまう。
どんなに時が経っても、俺の心の中の慶は消えることはないのだ。



10月になり、いよいよ母の出産予定日が近くなった。
店をやっていても、そわそわしてしまい、何度も電話が鳴るのではないかと確かめてしまった。
店が休みの前の日には、早目に閉店して実家へ帰ろうと思っていた。
すると、正孝さんから母の陣痛が始まったと知らせがあった。
丁度、お客が途切れた処だったので、俺は慌てて店を閉めると、タクシーを呼んで飛び乗った。
病院へ着くまで落ち着かず、苛々と脚を揺すっていたが、握りしめていた携帯に連絡は来なかった。
病院へ着いてナースステーションで訊くと、母はまだ病室の方に居ると言うので、部屋の場所を聞いて向かった。
すると、横になった母の傍で緊張した面持ちの正孝さんが座っていた。
「あら、早かったのね。お店閉めて来たの?」
妙に落ち着いた母に言われて俺は少し拍子抜けした。
「大丈夫なの?」
「まだね。多分、そろそろ陣痛室へ移動すると思うけど…。そんなにすぐには生まれないわよ。千冬の時は10時間くらい掛ったから」
「ええ?そんなに?」
俺が驚くと母は笑った。
「まあ、今度はもっと早いと思うわ。……あ、きた……」
そう言うと母は痛そうに腰を抑えた。
すると、そこへ入って来た看護師が時計を見て時間を計り始めた。
「高梁さん、そろそろ行きましょう」
「はい…」
母が返事をしてゆっくりと起き上がった。
支えようとした正孝さんと俺は、必要以上に緊張してベッドから降りる母を見つめた。
「二人とも、産むのは私なんだから、落ち着いてよね」
母は強いと言うが、本当だと俺は思った。
男に出産は耐えられないとよく言うが、確かにそうなのかも知れない。
こんな時、男なんて何の役にも立たないのだ。
一緒に陣痛室の前まで付いて行ったが、後は何も出来ない。これからまだ時間が掛ると言われ、俺と正孝さんは顔を見合わせて病室へ戻った。
「正孝さん、立ち会うんでしょ?」
「うん、そのつもりだけどね…」
少々、自信無げな表情を浮かべ、正孝さんは言った。
「ここ、1階にカフェが入ってたよね?コーヒーでも飲みに行こうか?」
正孝さんは、母が分娩室に入る時に連絡を貰えるようになっていたので、病室に居ても仕方がない。緊張したせいで喉が渇いていたし、俺はそう言って先に立った。
正孝さんとゆっくりお茶を飲み、病室へ戻ったが、まだ連絡は来なかった。
俺の時より、もう少し早いと母は言っていたが、それでも何時間かは待つことになるのだろう。
役立たずの男二人は、病室を出たり入ったり、座ったり立ったりを繰り返して時間を潰すしかなかった。



いよいよ時が来て、母と連絡を受けた正孝さんが分娩室へ入って暫くすると、叔父に送られて祖母が来てくれた。
「いよいよ、お兄ちゃんね、千冬」
「うん。なんか、まだ実感湧かないけど…」
「そりゃそうよ。赤ちゃんの顔見て、一緒に過ごして、それからよ」
「そうだね…」
「暫く店は休んで家へ帰ったらどう?」
本当は、そうしようかと思っていた。だが、何時の間にか常連も増え、楽しみに通ってくれる人達がいると思うと、簡単に休む訳にはいかなくなってしまった。
それを話すと、祖母は笑いながら頷いた。
「そうなのよね…。お祖母ちゃんも、店を閉める時、通ってくれる人達の顔が浮かんで、中々踏ん切りがつかなかったわ。……でも、そんなこと言うなんて、千冬も立派に商売人ねえ」
「やだな。俺なんかまだまだだよ」
祖母と店の話などをしている内に、母が無事に出産を終えた。
俺の弟は元気に産声を上げ、立ち会った正孝さんは感動の余り、涙を浮かべて俺たちの前に現れた。
綺麗にされた万秋とガラス越しに対面すると、俺の眼にも涙が滲んだ。
「可愛い…。小さいねえ」
「ほんと。早く抱っこしたいわ」
まだ、眼も瞑ったままだし、小さ過ぎて良く分からなかったが、弟だと思うと他の赤ちゃんより可愛い気がした。
兎に角感動して、胸がジンジンする。こんな気持ちは初めての事だった。
祖母と二人、張り付くようにして新生児室の中を覗いていたが、何時までもそうしている訳にもいかない。俺たちは戻って来た母に会いに病室へ行った。
母を労い、俺と祖母は叔父に送ってもらって正孝さんより一足先に家へ戻った。
久し振りに家に帰って来たが、俺の部屋はまだそのままになっていた。
荷物は 店の方へ随分運んでしまったのだが、ベッドや机は残してあった。
大きくなったら、万秋がこの部屋を使うかも知れない。そう思うと、何だか嬉しくて自然と笑みが浮かんだ。
翌日、病院へ行くと万秋はまだ新生児室から来ていなかった。
抱っこはお預けだったが、またガラス越しに顔を眺めて、この次会う時の楽しみに待つことにした。
来週の休みには、母たちはもう退院している筈だったから、家に会いに行くと約束し、俺は店へ帰って来た。
慌てて出て行ってしまったので片付けも不十分だったし、荷物だけ母屋へ置くと、すぐに店に入った。
片づけを済ませて、明日の日替わりのメニューを決めると、ランチメニュー用のボードを書き直した。
本当に、祖母が言うように、暫く実家へ帰って万秋と一緒に過ごしたかった。
顔を見てしまうと、余計にそう思えたが、自分の我が儘で始めた店だ。責任を持ってやっていかなければと思い直した。
思い付いて、携帯を出すと、万秋の写真を送ってくれるように母にメールした。



万秋はすくすくと育ち、俺はほぼ休みの度に会いに行った。
母たちも暇があると店に来てくれたので、俺は小さな弟を抱っこするのにも慣れてきた。
冬休みが近くなり、また先輩が手伝いに来てくれると連絡をくれた。
それまでも、ちょくちょく来ては店にも出てくれていて、その時の先輩は凄く楽しそうだったので、俺も遠慮するのは止めることにした。
だが、12月の始めに風邪を引いてしまい、店を休むことになった。
先輩には治ったら連絡するから、それから来て欲しいと言ったのだが、それなら尚の事、看病がてら来てくれると言ってきた。
熱はほぼ下がったが、咳が残っていて治るまで店は開けられないと、その日も俺は母屋の方に居た。
すると、10時頃に玄関からチャイムの音がした。
言った通り、真藤先輩が来てくれたのだろうと、すぐに玄関の扉を開けた。
「よ…」
笑顔の先輩が立っていて、俺もすぐに笑みを浮かべた。
「もう、大分いいんですよ。店を開けてからで良かった…の……に……」
先輩の後ろに立っていた人に気付き、俺は尻窄みに声を落とした。
そして、そのまま言葉を失った。
「千冬……」
慶は強張った表情で俺を見つめていた。
そして、前に立っていた先輩を押し退ける様にして近づくと、何も言えないまま固まった俺を強く抱きしめた。
「千冬ッ…」
どうして慶がここに来たのだろうか。
何故、先輩は約束を破ったのか。
ぐるぐると頭の中を色々なことが巡って、俺は身動き出来なくなってしまった。
眼だけを動かして、慶の肩越しに見ると、先輩は済まなそうな顔で俺を見ていた。
やっと俺の身体を離した慶の顔は、怒りを露にしているだろうと思ったが、そうではなかった。
それは、酷く辛そうで、そして、悲し気な顔だった。
「なんでだ?千冬…。約束したろ?約束したじゃないか……」
責めるような言葉だったが、口調はそうではなかった。
まるで、今にも泣きそうなその声が俺を益々動けなくさせていた。
コクッと、唾を飲み込む音が自分でも驚くほど大きく聞こえた。
だが、声は出せなかった。
口を開いたが、言葉が出ない。
何と言ったらいいのか、本当に分からなかった。
すると、慶の後ろからその肩を掴んで先輩が言った。
「戸田、中に入らせてもらおう。寒いし、千冬の風邪が酷くなったら困るぞ」
俺は我に返ると、後ろに下がって慶たちが通る道を開けた。
「ど…うぞ…」
やっと声に出してそう言うと、慶と先輩が玄関に入って来た。
俺を先に上がらせると、勝手知ったる先輩は、慶を促して上がらせ、居間へと連れて行った。
「す、座って……。い、今、お茶…」
まだ、身体を強張らせたままで俺が言うと、先輩が俺を留めた。
「いいから、千冬は座ってろ。俺がやるよ」
言われて、俺は炬燵の前にのろのろと座った。
すると、慶が俺の前に膝を詰める様にして座った。
「千冬…」
「な…、なんで……?拓馬さんが言ったの?」
恐々と見上げると、慶は首を振った。
「親父だよ。……瑠衣子が問い詰めてくれた。絶対に千冬のことを知ってる筈だって…」
「え…?瑠衣子ちゃんが……?」
訊き返すと慶は頷いた。
「瑠衣子に泣かれて、親父も黙っていられなくなった。全部聞いたよ。何もかも…」
コクッ、と俺はまた喉を鳴らした。
全部とは、村内のこともだろうか。
俺が訊こうとした時、キッチンから先輩がお茶を淹れて戻って来た。
お茶のカップを俺たちと自分の前に置きながら先輩は言った。
「ごめんな?千冬、約束破って…。けど、戸田が来て、全部知ったって言われて、もう隠しておけなくなった。ちゃんと、話すべきだと思って連れて来たんだ」
俺は何も言えず、ただ、黙って頷いた。
慶は先輩が話してもそちらを見ようとはせず、ずっと俺の顔を見ていた。
その視線が、俺は怖くて堪らなかったのだ。
「千冬…」
慶の手が伸びて来て、膝の上にあった俺の手を掴んだ。
ビックっと俺が震えると、掴んだ手に力が籠った。
「麻痺が残ってたなんて…。そんな身体で一人で店をやってたなんて…。なんで、何も言ってくれなかった?酷いだろ?俺にだけ黙って……。俺にだけ、なんで…?」
俺が眼を逸らすと、慶はまた口を開いた。
「俺に兄を憎ませない為だって親父は言ったけど、そんなの、ちゃんと話してくれれば俺だって分かったよ。隠さず言ってくれれば、俺にだって分かった。こんな風に、黙っていなくなる事なんか無かったろ?」
俺が答えずに黙っていると、今まで黙って聞いていた先輩が口を開いた。
「戸田…、本当におまえは、呆れる程に鈍感だよ」
溜め息混じりの先輩の言葉に、慶は初めて俺から眼を逸らしてそちらを見た。
「千冬が何で、ここまでしたのか、何も言わずにおまえの前から消えたのか、本当に分からないのか?」
先輩の言葉に、慶は眉を寄せた。
「え……?」
「おまえを傷つけない為、おまえを守る為なら、自分の何を犠牲にしてもいいと千冬は思ってるんだ。そんなこと、ただの友達に出来ることか?どうしてそこまで出来るのか、まだ分からないのか?」
「や…めて。拓馬さん…、止めてくださいっ」
やっと、絞り出すように俺は言った。
だが、先輩は止めてはくれなかった。
「千冬はずっと……、ずっと何年も、おまえの事を想ってたんだ。本当に、何も気づかなかったのか?こんなに愛されてたのに、ほんの少しも、気づかなかったって?」
「拓馬さんッ…」
ギュッと目を瞑り俺は叫んだ。
すると、先輩は立ち上がって言った。
「悪いな、千冬。言うつもりはなかったんだが、我慢出来なかった。……これ以上余計なことを言う前に俺は帰るよ。……後は、ちゃんと自分で言え」
「た…、拓馬さ……」
サッと背中を向けると、先輩は出て行った。
残された俺は、慶の顔を真面に見ることも出来ず、眼を逸らしたままで言った。
「い、今のは何でもないから…。拓馬さんの勘違いなんだ。だ、だから、気にしないで……」
慶の手が、今度は俺の両手を掴んだ。
そして、その手はすぐに離れて行った。
身体に腕が回され、抱きしめられて、俺は息を止めた。