涙の後で
ー第13部ー
「俺の為?俺の為に……?」
「違う…ッ」
目を逸らしたままで、俺は首を振った。
今まで隠し通してきた想いを、今更打ち明ける気なんかなかった。
慶がここへ来たことも、そして、先輩が俺の為を思って言ってくれたことも、少しも嬉しくはなかった。
勿論、慶に会いたくなかった訳じゃない。
毎日、思い出さない日はないほどに、俺は慶に会いたかった。
だが、そのせいで、慶が辛い思いをするなら、嫌なことを思い出すなら、俺は会わなくてもいいと思っていたのだ。
「本当に違うから…ッ。ただ俺は、折角出会えた慶と村内さんの縁を切ってしまうことになるのが怖かっただけなんだ。俺がちゃんと気づいて、いい形で引き合わせていれば、慶が村内さんを悪く思うことなんかなかった。俺が馬鹿なことさえしなければ、最初から兄弟として会うことも出来たんだ」
「何言ってるんだ?俺でさえ、兄がいたことなんて知らなかったんだぞ。千冬に分かる訳ない。千冬には何の責任もないだろ」
慶の手が俺の両肩を掴んだ。だが、俺は顔を上げなかった。
「それに、そんなことが聞きたいんじゃない。……俺は千冬の気持ちを…」
「やめてッ…」
やっと顔を上げ、俺は慶を遮って叫んだ。
「拓馬さんは本当に思い違いをしてるんだ。俺にはいつも好きな人がいただろ?そんなの、慶だって知ってるじゃないか」
「なら、なんで?なんで、俺の為にここまでしてくれるんだ?」
「それは……。ただ、俺は……」
必死で言葉を探したが、見つからなかった。
好きだと認めてしまえば、それで済むのかも知れない。
もう、全部言ってしまえば、それで終わるのかも知れない。
もう2度と慶に会えなくなっても、慶を傷つける結果になっても、きれいに終わりにしてしまった方がいいのかも知れないと思った。
俺が答えられずにいると、何を思ったのか突然、慶が言った。
「兄貴に…、会ってきたんだ」
慶の言葉に、俺は驚いて彼を見つめた。
「あ、……会ったの…?ほんと?」
「ああ。親父に連絡してもらって、会ってくれるって言うから、会いに行って来た」
「そう…」
心配だったが、慶の表情は嫌悪感を表すことはなかった。
「どういう暮らしをしてたのか全部聞いたよ。最初は言いたくなかったみたいだったけど、話して欲しいって俺が言ったら、少しずつ話してくれた。母親のことも全部聞いた。随分苦労したのに、俺のことも親父のことも恨んでる様子はなかった。それ処か、親父に金を出してもらったこと、凄く気にしてて、何時かはきっと返すからって言ってたよ。……俺のことも傷つけたんじゃないかって、何度も謝るんだ。……千冬が優しい人だって言ったの、本当だって分かった」
「うん…」
俺が頷くと、慶は少しだけ笑みを浮かべた。
「俺のことも全部話した。物心ついてからの覚えていることは全部。俺が幸せだったって知って、安心したみたいだった。会ったことも無かったのに、本当に心配してくれてたんだな」
慶の言葉に俺は頷いた。
本当に村内は、心から慶の幸せを願っていた。だからこそ、俺から去って行ったのだ。
「今すぐに、あの人を兄だと思うのは難しい。母親にも、まだ会う気にはなれない。けど、もう悪い感情はなくなった」
それを聞いて、俺は心から安心した。折角出会えたのだ、お互いに蟠りを持ったままでいて欲しくない。
「自分の事を俺に知らせないで欲しいって言ったって、親父に聞いた。知れば、俺が傷付くと思って心配してくれたんだろうって。……兄貴も千冬も、俺を傷つけまいとしてくれたんだな?二人とも、自分を犠牲にしても、俺を守ろうとしてくれたんだって分かった」
慶に言われて、俺は首を振った。
「そんなんじゃない。いや、村内さんはそうだろうけど、俺は…、そんなんじゃないよ。そんな綺麗な感情で慶の前から消えた訳じゃない」
「千冬……」
口元を歪めると、俺はまた慶から眼を逸らした。
「俺はただ…、面倒になっただけだ。慶と村内さんの間で気を揉むのも、嘘をつくのも。……本心を隠して平気な振りをするのも…」
また、慶の手が俺の手を掴んだ。
その眼を見ようとして顔を上げた時、咳が込み上げて、俺は口を押えて咳込んだ。
「大丈夫か?」
急いで慶が俺の背中を擦ってくれた。
頷いたが、咳は中々静まらなかった。
「少し横になれよ。寝室は?」
大丈夫だと言おうとして手を上げたが、慶は俺の身体を支えて立たせると、寝室へ連れて行こうとした。
俺は逆らわずに、居間を出て自分の部屋へ行った。
咳は治まったが、俺はベッドに横になった。
「もう大丈夫…。俺は平気だから帰って?明日も仕事じゃないの?」
「大丈夫だ。休みは貰って来たから…。暫く居るよ。千冬が良くなるまで」
慶の言葉を聞いて、俺は首を振った。
「そんなの駄目だ。慶はやることがあるだろ?俺のことはいいんだよ。気にしないで。本当に、いいんだから…」
「いや。帰らない」
じっと俺を見つめてきっぱりと言うと、慶は手を伸ばして俺の髪を撫でた。
「眠っていいよ…」
頷いて、俺は眼を閉じた。
慶は何故、さっきの俺の言葉に対して何も言わないのだろう。
聞かなかった振りをしたいのか。それとも、少し考えてから何か言うつもりなのだろうか。
決して言うまいと思っていた本心をとうとう明かしてしまい、俺は酷く疲れてしまった。
もう、慶がどう思おうと構わない。あとは、俺ではなく、慶が決めることだ。
眠れないと思っていたが、いつまでも優しく撫でてくれる慶の手の暖かさのせいか、やがて俺は眠りに落ちてしまった。
目覚めると、そこに見えたのは慶の手だった。
少し筋張った、だが長い指が、俺の本棚から持って来たらしい新刊のページを捲っていた。
黙って暫く、その手の動きを見ていた。
こんなに間近で、慶の手をじっと見ていたことなど無かったから、何だかずっと見ていたいような気持がした。
だが、俺が目を覚ましたのに気づいたのか、慶の手は止まった。
「起きたか?」
「うん…、今何時?」
「もうそろそろ、昼だ。腹、減ったんじゃないか?」
あれから1時間以上も眠ってしまったらしい。それなのに、慶はここからずっと離れなかったのだろうか。
「帰らないの?」
起き上がりながら訊くと、慶は本を置いて手を差し伸べ、俺を助けようとした。
その手を軽く押して遮ると、俺は起き上がって慶の顔を見た。
「もう、大丈夫だって言ったろ?」
すると、慶もじっと俺を見て言った。
「帰らないって言ったろ?」
「慶…」
溜め息をついて俺がベッドから出ると、慶も立ち上がった。
「何か、昼飯作ろうか?」
「え?慶が?」
驚くと、慶は苦笑した。
「大した物は作れないけど、簡単なパスタくらいなら作れるようになったんだ」
「へえ…」
俺が感心すると、慶は先に立ってキッチンへ入って行った。
俺に場所を聞いて、鍋や材料を出すと、慶はパスタを作り始めた。
「じゃあ、俺はスープでも作ろうか…」
まるで、審判を待つような気持だった。
だが、自分なりに腹を括ったのだろう。もう、慶に何を言われても俺は受け入れるつもりだった。
慶の気持ちを聞くのが怖かったのは、きっと何処かで僅かでも期待していたからだろう。
いつか、慶が俺と同じ想いを抱いてくれるのではないかと、期待するのを止められなかったからだ。
だが、今の俺は、やっと諦めることを覚えたのかも知れない。
俺が料理を始めると、慶は少し心配そうな顔で俺の動きを見た。
「大丈夫だよ。もう慣れたものだし、店だって一人でやってる。腕が上まで上がらないのと、握力が弱いだけで、大抵のことは出来るから」
「そうか…」
頷いたが、それでも慶は俺の方を見続けていた。
「さっき……、千冬の寝顔を見ながら色々考えてた。ここに来て、千冬の顔を見るまで、ずっと怖くて何も考えられなかった。もう2度と会えなかったらどうしようって、そればっかり考えてたから……」
「慶…」
俺が見ると、慶は少し笑みを浮かべた。
「でも、再会出来たから安心した。やっと落ち着いて振り返ることが出来た」
俺の顔を見つめながら、慶は話し始めた。
「……本当に俺は、真藤さんの言う通りだ。鈍すぎる…、恥ずかしい程に……」
その静かな口調が何を意味するのか俺には分からなかった。
だが、慶が何を言おうと口を挟むつもりはなかった。
「千冬の寝顔は綺麗だった。いつも、俺は千冬を見ると、綺麗だと思った。そう言うと千冬はいつも否定したけど、俺は何度も、あの尚也さんより千冬の方が綺麗だと思っていた」
一体何を言い出すのだろうと思った。
俺を持ち上げて、そして拒絶するのだろうか。
傷つけるのが可哀そうだから、先に褒めておこうと思っているのだろうか。
「俺は多分、最初から千冬を誰にも触らせたくなかったんだと思う……」
その言葉に、俺は手を止めて慶を見た。
じっと注がれる視線は、相変わらず少し怖い程の強さだった。
だが、この眼が俺は好きだ。最初に会った時から、怖くても見ていたいと思った慶の眼だった。
時には、眼を逸らしたくなってしまう。でも、本心を知られてしまった今は、もう、逸らすことなく見ていられる。本当のことを言えなかった後ろめたさが、もう無いからかも知れない。
「今になってやっと、自分の感情が何だったのか分かった。その時の、自分の中に起こった気持ちが、今になって漸く繋がった……」
慶の顔が少し歪み、その頬に僅かに朱が差した。
「俺は…、最初から嫉妬していたんだ。千冬の相手だった男全部に……」
慶が照れているのだと知って、俺は戸惑った。
そして、その言葉に更に戸惑っていた。
「な、なに言って…。そんな訳ないだろ?やめてよ…」
「いや…。やっと、何でなのか分かったんだよ。千冬が小金井さんに傷つけられたと知った時、何であんなに腹が立ったのか、許せなかったのか。千冬が俺より真藤さんに頼るのも嫌だった。真藤さんが千冬の1番近くに居るんだと思うと、気に食わなかった。……坂上は、千冬を守っているだけなんだって思えたから、そうでもなかったが、有川のことは……、部屋で裸の二人を見た後は、無性に苛々して、千冬と一緒に居るのを見るのが嫌で、明らかに避けていた。……なのに、それがどうしてなのか、俺は考えようとしなかった。……本当に馬鹿だった」
コクっと喉が鳴って、俺はその音に自分でも驚いていた。
だが、段々緊張してきた俺を他所に慶は言葉を続けた。
「兄貴のことも、あんなに許せなかったのは、千冬に怪我させたってことだけじゃない。……千冬が兄貴と寝たって知ったからだ」
コクっとまた、俺の喉が鳴った。
そして、慶の眼は、少しも俺から離れなかった。
「お湯……、沸いたよ」
その眼がまた怖くなって、俺は気を逸らそうとして言った。沸騰した鍋を指さすと、慶は振り向いて塩を入れた。
次にパスタを入れると、少し掻き回して、また俺を見た。
「千冬が居なくなって、誰に聞いても行方が分からなくて、それが何故なのか分からなくて、俺は何も手に着かなくなった。もう、千冬を探すことだけしか考えられなかった。本当に、酷い喪失感だった……。あんなに辛い思いを、多分、俺はしたことがない……」
段々に、鼻の奥が熱くなるのが分かった。
慶にこんな思いをさせていたのかと思うと、涙が滲んできた。
「それでも気付かなかった。本当に間抜けだと思うよ。だって、やっと千冬に会えた時、泣き出したいほどに嬉しかったんだから。……真藤さんに言われる前に、本当は分かっていた筈だった。分かっていなけりゃならなかった。……自分の心が何処にあるのか」
頬から涙を拭われて、初めて自分が泣いていたことに気付いた。
瞬きも忘れた俺の頬には何度も涙が伝っていた。
「俺の心は、ずっと前からここにあった。…千冬のもとに…」
後から後から溢れる涙を、慶の手が何度も拭ってくれた。
「こんなに長く掛かって、ごめん…」
ゆっくりと首を振るだけで、俺は何も言えなかった。
戸惑うだけで、どうしていいのか分からない。
通じる筈のない自分の想いだった。
それが本当に通じたのか、俺には判断が出来なかった。
余りにも長すぎた片想いだった。
その終わりが、今、本当に来たのだろうか。