涙の後で
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話をしている間にパスタは茹で過ぎて、余り美味しいとは言えなかったが、それでも初めて慶が作ってくれたものだと思うと、残す気持ちにはなれなかった。
「酷いな、これは…」
慶はそう言って顔を顰めたが、やはり残さずにちゃんと食べた。
「もう、離れたくない。だから、一緒に暮らそう」
慶の言葉に俺は首を振った。そんな夢のようなことが現実になるとは、到底思えなかった。
「無理だよ。俺は店があるし…」
「俺がここに越して来たら駄目か?」
「……え?だって、大学はどうするの?」
「通信にする。ちゃんと卒業したいし」
「仕事は?」
「それは、まあ、ここから通える所を新しく探すよ」
慶の言葉に俺は首を傾げた。
もしかしたら、何もかも夢なのかも知れない。俺は、慶がここに来たところからずっと、夢の中に居るのかも知れない。
そうでなければ、こんな話になる筈がない。
「嫌か?」
心配そうな表情でそう訊かれ、俺はすぐに首を振った。
「ううん。嫌な訳ないよ…」
俺の答えに、慶は笑みを見せた。
夢は何時覚めるのだろう。
何時まで俺は、この夢を見ていられるのだろう。
「千冬…、兄貴のこと…、好きだったんだろ?」
慶に訊かれ、迷ったが、俺は正直に答えることにした。
もう何も、俺は慶に偽りを言うまいと思ったのだ。
「……うん。好きだったよ。俺のこと、本当に大切に思ってくれた。だから俺も、それに応えたかったんだ」
「そうか……」
慶はそう言ったっきり、何も言わなかった。
村内に嫉妬したと言っていたが、兄だと分かった今もその気持ちは消えないのだろうか。
そして、俺が彼と寝たことに腹を立てているのだろうか。
「許せない……?」
訊くと、慶はじっと俺を見た。
「気持ちは…、そうだ。けど、俺にはその資格は無いと思う。それに、千冬の兄貴に対する思いは、分からなくはないんだ」
そう言って、慶はテーブルの上の俺の手を握った。
「あの人の孤独に寄り添ってやりたいと思った千冬の気持ちが、俺にも分かる気がする。それに…、千冬が今、一人でいてくれたことに俺は感謝してる。兄貴が俺の為に身を引いてくれたことにも…」
ギュッと手を握られて、俺も握り返した。
だが、慶が自分から俺の手を握ってくれたことに、喜びと共に不思議な感覚を覚えていた。
本当に帰るつもりはないらしく、慶は夜になっても腰を上げず、一緒に夕食の支度をして食べ、そのまま泊まることになった。
まさか、慶がここへ来て、しかも泊っていく日が来るなんて思ってもいなかった。本当に、これは夢ではないのだろうか。
客間に自分で布団を敷き、慶は俺の部屋から読み掛けの本を持ってきた。
お休みを言って俺も部屋に入ったが、気が高ぶり、眠気なんてやってこない。
明日からどうしたらいいのか、本当に分からなかった。
このまま、慶とここで暮らすなんて、本当にそんなことが出来るのだろうか。
慶には夢があって、その夢の為に大学も夜学を選び、働きながら頑張っている。その夢を、俺と暮らすことで失くしてしまったらと思うと、俺は怖くて身体が震えるようだった。
やはり、駄目だと思った。
俺が、慶の夢の妨げになるようなことは、絶対にしたくない。いや、してはいけないと思う。
誰よりも幸せになって欲しいと願っている慶が、俺の所為で不幸になったらと思うと怖くて堪らない。
絶対に幸せにしてみせるという自信が俺にはないのだ。
だから、怖い。
ギュッとクマを抱きしめると、俺は目を瞑った。
慶はまた腹を立てるかも知れないが、俺はもう1度彼の前から消えるしかないのかも知れない。
いつのまにか眠りに落ち、目覚めると朝になっていた。
客間に寝たとばかり思っていた慶は、布団を運んで俺のベッドの下に敷いて寝ていた。
驚いたが、俺は声を出さず、その寝顔を暫く眺めた。
寮に居た時は、毎朝の様に見ていた寝顔。目を閉じていると、少しだけ幼く見えるが、それでも見とれる程に綺麗な顔だった。
今なら、キスしても許されるのだろうか。
本当に、慶は俺を友達以上に想ってくれているのだろうか。
だが、恋人として求めてもらえるとは、俺には思えなかった。
慶が、俺の身体を欲しがってくれる日が来るなんて、有り得ないと思う。多分、このまま一緒に暮らしたとしても、俺たちはプラトニックなままだろう。
それが、嫌だという訳ではない。
こうして、俺と一緒に居たいと慶が思ってくれただけで本当に嬉しい。
だが、もし慶が俺を性的な意味でも求めてくれたとしたら、俺はきっと、もう少し自信を持てるような気がしたのだ。
慶を起こさないように、そっと起き出し、俺は部屋を出た。
パジャマのままだったが、構わず顔を洗うと、キッチンへ行って朝食の支度を始めた。
昨日の昼に作ったスープが残っていたので、その他にホットサンドを作ることにした。
具を挟んだパンを焼くと、香ばしい匂いが鼻を擽った。
その匂いに釣られたのか、慶が起きて来た。
起こさなくても起きられるようになったのかと少し可笑しくなったが、思えば、高校を卒業してからは自分で起きて仕事へ行っていたのだから、当たり前だった。
「いい匂いだな…」
「もう少しだよ。洗面所の棚に新しい歯ブラシとかある筈だから使って?」
「ああ、ありがとう」
サンドイッチを切り皿に盛ると、スープもカップによそってテーブルへ並べた。
丁度、慶が戻って来て席に着き、俺たちは朝食を食べ始めた。
「風邪の具合、どうだ?」
「うん。昨夜は咳も出なかったし、そろそろ大丈夫だと思う。明日1日休んだら、店を開けるよ」
「そうか…。じゃ、食ったら付き合って欲しい所があるんだ」
「え?何処?」
「ああ、実家に…」
「え?」
俺が驚くと、慶は咀嚼していたものを飲み込んでから言った。
「親父に話したいことがあるから、千冬にも一緒に行って欲しい」
「そう…。いいけど……」
何故、俺を一緒に連れて行きたいのか分からなかったが、俺は承知した。
それに、何故、昨夜慶は俺の部屋で寝たのだろう。
もしかすると、また俺が居なくなるかも知れないと思って警戒しているのだろうか。だから、目を離すまいとしているのだろうか。
お茶を淹れようとすると、慶が食器棚からカップを出そうとした。そして、何かに気付いたらしく棚の奥の方へ手を入れた。
「あれ…?このカップ…」
食器棚の奥に仕舞ってあったそれを、慶は見つけてしまった。
ハッとして振り返ると、その手に黒いカップが握られていた。
「これ、寮で使ってた…?俺が100均で買った、あれか?」
その通りだった。慶に買ってもらった唯一の物だったから、捨てられなかったのだ。
「そ、そうだけど…。別に意味は無いからね?壊れなかったから、捨てる機会が無かっただけだから…」
眼を逸らし、俺は早口で言った。
すると、気配で慶が近づいて来たのが分かった。
そして、その手が俺の肩に乗った。
「千冬…」
ゆっくり眼を上げて、俺は慶を見た。
気持ち悪いと思われなかっただろうかと心配だったが、慶の表情は穏やかだった。
「こんな詰まらない物まで大事にしてくれてたんだな?」
「や、止めてよ。だから深い意味なんかないんだって…。それ……」
言葉はそれ以上出せなかった。
慶の唇で塞がれてしまったからだ。
それは、ほんの一瞬だったのかも知れない。
キスとは言っても、ほんの挨拶程度のものだったのかも知れない。
だが、俺にとって、慶とのキスは余りに特別過ぎた。
それは、不意に貰っていいものではなかったのだ。
気付くと、涙が溢れていた。
すると、慌てた慶が俺の眼を覗き込んだ。
「ご、ごめん…。嫌だったか?」
ゆっくりと眼を上げて、俺は慶を見た。
そして、これは現実なのだと改めて思った。
「俺、ずっと…、慶とキスするの夢見てた…。でも、絶対にそんな日が来る筈ないって…、そう思ってたんだ…」
「ち、千冬…」
慶の眼が見開かれ、俺は言ってはいけないことを言ったのだと知った。
「ご、ごめん。大袈裟だった…」
そう言って笑うと、俺は涙を拭いてティーポットを持ち上げた。
だが、まだ胸の中は感動で溢れていた。
眠った慶の唇を1度だけ盗んだことがあったが、もう2度と自分は慶とキスすることなどないだろうと思っていた。
だから、一瞬の事だろうと、嬉し過ぎて涙が溢れてしまったのだ。
(もう、死んでもいい…)
そう思いながら震える手でお茶を注いでいると、後ろから慶が俺を抱きしめた。
「ごめん…、千冬…。俺は本当に馬鹿だ。千冬の想いに気付かなかったなんて…。本当に後悔してる。ごめんな?」
「や、止めてよ。慶が悪いんじゃない。俺が気づかれないようにしてたんだから」
「いや…。俺は一体、どれほど千冬を傷つけたんだろう。そう思うと、本当に怖いよ」
「慶……」
「もう、泣かせない。絶対に……」
ぎゅっと抱きしめて、俺の肩に顔を埋めると、慶は言った。
それが嬉しくもあり、そして、怖くもあった。
本当にこれでいいのか、俺にはまだ分からなかったのだ。