涙の後で


-4-

実家に着き、寄って行くと思った夫人は俺たちを下ろしただけで帰ると言った。
「今度きちんと、夫婦でご挨拶に伺うわ。お母さんたちによろしくお伝えして」
そう言って去って行く夫人の車を見送り、俺たちは玄関のチャイムを押した。
実家の玄関を見ると、夢の中に居たような時間が過ぎ去り、俺はやっと現実に戻った気がしていた。
俺の性癖を知っても落ち着いていた母だったが、いざ、息子が本当に同性と暮らすのだと知って、動揺しないだろうか。それに、正孝さんがどう思うだろうか。
そんなことを考えると、俺は緊張してくるのを感じた。
横を見ると、慶も珍しく緊張している表情をしていた。
ロックを外す音がして、玄関のドアが開くと、すぐに奥から母が現れた。
「お帰り。正孝さんも間も無く来るわ。今日の授業は終わったらしいから」
慶が突然俺と一緒に現れたことを何とも思っていないのか、いつも通りの様子でそう言った後、母は笑顔で慶にも挨拶した。
そして、居間に入りながら、母はまるで挨拶の延長のように言った。
「決めたのね?店に一緒に住むんでしょ?戸田君、大学はどうするの?」
まだ何も言わない内に、母にはもう何もかも分かっているようだった。
何と切り出そうか、緊張してここまで来た俺はいっぺんに気が抜けてしまった。
「あっ、はい。通信で卒業まで…」
慶が答えると、頷きながら母は俺たちを座る様に促し、そのままキッチンへ入って行った。
俺は慌てて後を追うと、母の傍へ寄った。
「母さん?あの…」
俺が口籠ると、用意してあったお茶のポットにお湯を注ぎながら、母は笑った。
「良かったわね?千冬…。戸田君なら、私も安心よ。誠実だし、千冬のことも大切にしてくれると思うわ」
「母さん……」
「戸田君のご両親には会って来たんでしょ?」
「うん…。後でご夫婦で挨拶に来てくれるって…」
「そう。お会いするの、楽しみだわ」
母の笑顔に俺は胸がいっぱいになった。
心配することなど、何もなかったのだ。あの時言ったように、母は俺が幸せになることだけを考えていてくれたのだ。
「色々と苦労もあると思うわ。でも、乗り越えていけるわね?」
「うん…」
俺が頷くと、母も笑顔で頷いてくれた。

正孝さんが帰って来ると、俺と慶は二人を前に改めて自分たちの決心を伝えた。
慶は小説で身を立てられるようになるまで、アルバイトをするつもりだと言ったが、母は首を捻った。
「二人で店をやったらいいじゃない?千冬だって手伝ってもらえれば、もっと出来ることが増えるし、わざわざ外で働かなくたっていいと思うわ」
そう言われて俺たちは顔を見合わせた。
「でも、俺に出来るでしょうか?」
少々不安げに慶が言うと、母は肩を竦めた。
「料理は千冬がやればいいし、ホールを戸田君がやればいいでしょ。コンビニでバイトしてたんだから、ある程度お客さんとの接し方も分かるだろうし、楽勝よ」
事も無げに言われ、慶は俺の顔を見ると笑顔で頷いた。
「いいか?千冬、それで…」
「うん。俺は勿論」
言いながら、俺はこれからの二人の生活を思って、胸が膨らむのを感じた。
二人で店をやる。
なんて素敵なのだろう。
勿論、慶は何れは小説で身を立てるようになるだろう。俺も勿論それを望んでいるし、出来る限り応援するつもりだ。
だが、慶が店に出てくれたら、母の言う通り俺はもっとメニューも増やせるし、今以上に働く張りも出るだろう。
母に感謝しながら、その隣で笑みを浮かべて頷いていた正孝さんを見た。
正孝さんは俺たちに”おめでとう”と言っただけで、何も口は挟まなかったが、俺は少し心配だった。
本当は俺たちのこんな関係に、嫌悪を感じているのではないだろうかと思ったのだ。
目が覚めた万秋の泣き声が聞こえ、母よりも先に立ち上がって部屋を出た正孝さんを追って俺が部屋に入ると、万秋を抱き上げながら正孝さんが振り返った。
「あの…、正孝さん…」
恐々と呼びかけた俺に、正孝さんは万秋の背中を軽く叩いてあやしながら言った。
「良かったね、千冬君。否定する気はないけど心配してた。……これから先、千冬君が、本当に好きな人と巡り合えるのかって…。でも、そんな心配は杞憂だったね。すぐ傍に、確かな愛があった」
何時もの優しい笑みに、俺はただ頷くしか出来なかった。
誰も彼も俺の周りに居る人たちは、本当に、優しい人ばかりだ。
その幸運を、今、心から喜ぼうと思った。

居間に戻ると、正孝さんに渡されて、慶が万秋を恐々と抱っこした。
だが、大きな体にすっぽりと包まれて安心したのか、慣れない抱っこでも万秋は泣くどころかニコニコと笑った。
「慶君を好きみたい。万秋、新しいお兄ちゃんよ。イケメンでしょ?」
母の言葉に照れたように頬を染めたが、慶は嬉しそうだった。
猫の千秋にも歓迎され、慶が撫でても嫌がらなかった。
これで、いよいよ千秋は面食いだと決定された。
万秋をあやしたり、千秋と遊んだりして時間を過ごし、デリバリーの寿司で夕食を済ませると、正孝さんが店まで車で送ってくれることになった。
泊まっていけとも言われたのだが、明後日には店を開けたいし、そうなると仕込みもあるので帰ることにしたのだ。



家に戻り、居間に入った途端に気が抜けてしまった。
長い1日だった。
慶と二人で朝食を食べたのが、遠い昔の様に思えた。
余りにも色々あり過ぎたし、移動し続けだったし、さすがに疲れ果ててしまった。
座卓の前にペタンと座った俺を見て、慶はその傍に膝を突いた。
「千冬、大丈夫か?」
「うん、ごめん…。なんか急に力が抜けた…」
苦笑しながら見ると、慶も笑みを浮かべた。
「疲れたろ?お茶でも淹れようか」
「うん、ありがと…」
俺が頷くと、慶は台所へ入って薬缶に水を入れ火にかけた。
出掛ける時急いで片付けたので、急須や湯呑はまだ水切り籠に入ったままだった。それを、お盆に乗せて戻ると、慶は急須に茶葉を入れた。
それを見ながら、俺はじんわりと広がる幸せを噛みしめていた。
これからずっと、こうして二人で居られるのだ。これが、本当に現実なのかとまだ疑っていたが、両方の親に慶はきちんと話をしてくれた。
それは、まるでプロポーズされたようなものだと初めて気が付いた。
カーッと急に顔が熱くなった。
本当にいいのだろうか。性急に決めてしまって、慶は本当に後悔しないのだろうか。
以前、キスして欲しいと言った時、慶は恐怖の表情を浮かべた。
今朝はキスしてくれたが、あれは弾みの様なものだったし、俺から求めたら、また以前と同じ反応をするのではないだろうか。
想いは通じたのだと信じた筈なのに、まだ俺はこんなにも不安がっている。相変わらず弱い自分が嫌だった。
冷え切っていた部屋もやがて温まり、慶が淹れてくれたお茶を飲むと、俺もやっと少し落ち着いた。
明日まで休んで開店の準備をすることを伝え、慶も一旦寮に戻ったらどうかと言うと、何故か渋い顔になって黙ってお茶を飲んだ。
「まさか、戻らない訳にもいかないし、明日は俺も、買い物行ったり仕込みしたりで忙しくなるし、家に居ても暇だろうから…」
大学やアルバイトのこともあるし、ここに居続けている訳にもいかない。そう言うと、慶は湯呑をテーブルに置いて俺の方へにじり寄って来た。
そして、俺の両肩を掴むと言った。
「千冬、約束してくれよ。もう、絶対に俺の前から居なくならないって」
「え…?」
その眼を見て、慶がまだ俺から眼を離すことを怖がっているのだと分かった。一人にしたら、また消えるのではないかと訝っているのだ。
「勿論、約束するよ。もう、絶対に慶から離れない。そんなことする訳ないだろ?お互いの両親にも祝福してもらったんだ。もう、馬鹿なことはしないよ」
慶に恐怖を植え付けてしまったのかと思うと、申し訳ない気持ちもあった。だが、俺と離れたくないと思ってくれる気持ちが嬉しくて、俺は少し涙ぐんでしまった。
「本当だな?絶対だぞ…」
言いながら慶は俺を抱きしめた。
「守れないなら、閉じ込める…ッ」
「け…」
キスされて、俺は言葉を飲み込んだ。
(キス…、してくれた……)
カーッと、また体が熱くなった。
慶は俺とのキスを嫌がっていなかった。
そう思と、嬉しかった。
そして、何時もクールな慶が、俺の為にこんなに熱くなっているのかと思うと、感動で胸が震えた。
キスが深まり、俺は慶に押し倒された。
酔い痴れていた俺だったが、慶が服を脱がそうとしているのに気付き、ハッとして彼から離れた。
「な、なに…?」
「寒いか?」
手を遮ろうとした俺に慶は訊いた。
「違うけど…」
戸惑う俺の身体から、慶の手は尚も服を脱がせようとした。
「全部脱いで。千冬の身体、ちゃんと見せてくれ」
「え?や、やだよ…ッ」
逃げようとしたが、慶は俺を捕まえて離さなかった。
「見たいんだ。見て、確かめたい」
慶の言葉に、俺はまた不安になった。
一体、何を確かめたいと言うのだろう。
俺が男だってことをちゃんと見て、それでも後悔しないか、確かめたいと言うのだろうか。
(無理だって、そう思ったら…?)
恐怖が込み上げ、俺はぎゅっと目を瞑った。
だが、抵抗はしなかった。
いつかはちゃんと、確かめ合わなければならない事だ。
慶が本当に男の俺を選んで後悔しないのか、いつかは確かめなければならない。それなら、早い方がいいのだ。
すっかり裸にされ、俺は恥ずかしさに顔を背けると、その上に右手を乗せた。
寒さではなく、怖くて少し震える。
今、慶は具に俺を見ているのだ。全てを見られているのだ。
無理だ、と言われたら一体どうしたらいいのだろう。
その時、コクっと喉が鳴る音が、酷く大きく響いた。
恐々と眼を開けると、見上げた先に紅潮した慶の顔があった。
「やっぱり、綺麗だ……」
その言葉に、また頬が熱くなる。だが、俺は眼を逸らして言った。
「……嘘だ。た、ただの貧弱な男の身体だろ?」
そう言った俺の顎に手を当てると、慶は自分の方を向かせた。
「ずっと一緒の部屋に居ても、千冬の身体を見たことなかった。見なくてよかったよ」
「え…?」
やはり無理だと言うのだろうか。
俺は、やはり慶に拒絶されるのだろうか。
「見たらきっと、我慢出来なかった…」
「慶……」
驚いて俺は眼を見張った。
それなら慶は、俺に欲望を感じると言うのだろうか。
「やっぱり俺は、ずっと前から千冬とこうなりたかったんだ。有川と一緒に居る千冬を見る度、ジリジリしていた。それを嫉妬と気付かずに…」
ふっと笑うと、慶は続けた。
「千冬に対する欲望は、ずっと前から俺の中にあった。それを、確信したよ」
両肘を俺の顔の横に突くと、慶はキスを落とした。
ゆっくりと深まり、慶は俺の舌を吸った。
何度も吸われ、身体が熱くなる。裸の股間に血が集まるのを感じた。
(こんなキス…。信じられない…、慶が……)
唇が離れた時、俺の息はすっかり上がっていた。
眩暈がするほどの余韻に目を開けることが出来なかった。
「触っていいか…?」
訊かれて、眼を閉じたままで頷く。
怖いのと、恥ずかしいのとで、とても慶の顔を見られなかった。
「本当に綺麗だ…。真っ白で…」
言いながら、慶の手が俺の肌に降りて来た。
一瞬息が止まったが、俺は動かなかった。
首筋から胸に降り、その指が俺の乳首に届いた。
「んッ…」
勃起していたのか、触られるとチリっと感じて、俺は思わず声を出してしまった。
「千冬…」
今度は両方の乳首を摘ままれたが、今度は我慢して声を出さなかった。
だが、その感覚に驚き俺が思わず目を開けると、慶の唇が片方の乳首を含んでいた。
(うそッ…、うそ、うそ…)
軽くパニックを起こしかけ、俺は慶を押し退けようと手を上げた。
だが、その手が肩に届いた時、チュッと吸い上げられて息を止めた。
「んぁッ…」
また声を上げてしまい、慌てて唇を噛む。
感じていることを絶対に知られてはならないと思った。