涙の後で


-3-

慶は父親に何の話をするつもりなのか、話してはくれなかった。
少々不安な気持ちのまま、だが、俺は慶と一緒に電車に乗った。
並んで座ると、売店で買った暖かいコーヒーを飲みながら、慶が話し始めた。
「最初に千冬を泣かせたのは、入学式の日だったな…。あの時も、俺は酷いことを言った…。実はあの時、自分の母親のことを思い出したから、つい出てしまった言葉だったんだ……」
「え…?そうだったの…?」
俺が訊くと慶は頷いた。
「改めて親父から話を聞いたから、今では本当のことを知ったけど、あの頃はまだ、祖父から聞いた話を鵜呑みにしてた。祖父は母を嫌っていたし、俺のことも好きじゃなかったから、俺に母を悪く思わせるような話をしたんだ。……母は金の為に親父と結婚したかったから、酔わせてわざと俺を妊娠したんだとか……。小学生の時に会いに来たのも、本当は金をせびりにきたんだとか……。そんな話ばかり聞かされて育ったから、俺はすっかり母を憎むようになった。結局、結婚出来る訳も無かったのに、不毛なことをしたんじゃないかと思った。それで生まれた俺は、母にとって、道具以外の何だったのかと思ってた頃もあったんだよ」
「そんな…」
慶の話に俺は胸が苦しくなった。
小さい頃から、母親を中傷する話を聞かされて育ったなんて、随分辛かっただろう。自分の母親を憎まなければならなかった慶が可哀相で堪らなかった。
手を握ると、慶は俺を見て頷きながら笑った。
「けど、今はちゃんと事実を知った。俺は望まれて生まれた訳じゃなかったのかも知れないけど、それでも愛されなかった訳じゃない。母は俺を産まないという選択も出来た。けど、産んでくれた。それは、金の為じゃなかったと思う。だからもう、辛いとは思わないよ」
ギュッと手を握り返して慶は言った。
慶の人を寄せ付けないような雰囲気は、そんな育ち方の所為もあったのだろう。慶の孤独を、俺は今初めて知ったのだと思った。
「それに、千冬と会って、俺は自分でも変わったと思う。今は少しは優しくなれたと思うよ」
そう言った慶の眼を俺はじっと見つめた。
「慶は…、最初から優しかったよ。俺にはいつも優しかった」
「そうかな…。だったらいいけど…」
言いながら、慶の指が俺の指に絡んだ。
ずっと前に、プラネタリウムで手を握られた時を思い出し、何だかくすぐったいような気持になった。
あの時のことを、慶は覚えているだろうか。
俺がどんなに胸をときめかせたか、きっと知らないだろう。
「俺は…、何で自分がこんなにも鈍いのか考えた。それは…、怖かったからかも知れない」
静かに言う慶の顔を俺は黙って見つめた。
「俺は多分、自分の気持ちに気付くのが怖かったんだ。気付いて、千冬を求めて、それですべてが終わってしまうのが怖かった。……千冬との関係を絶対に終わらせたくなかった。深くなり過ぎて、壊れてしまったら取り返しがつかない。本当の意味での恋なんて、知らなかったし、信じてもいなかったんだと思う」
きゅっと、慶の繋いだ手に力が篭った。
「2年の夏に彼女が出来たろ?」
俺が頷くと、慶は少し笑みを浮かべた。
「あの時、俺は無意識に千冬から自分の意識を逸らしたかったんだと思う。……最初は、告られて嬉しかったし、綺麗な人だったし、俺も好きだと思った。けど、段々に彼女は気づいたんだと思う。…俺が、どこか冷めていることに…。だから、振られたんだよな」
また笑みを浮かべた慶に、俺も唇の端を少し持ち上げて見せた。
「でも俺も、不思議と彼女が離れていくのが分かってたような気がするんだ。そして、自分でも信じられないくらい、執着する気持ちが起きなかった」
慶と彼女は身体を繋げた仲だった筈だ。そんな相手より、俺を選んでくれたのだろうか。
「思えば俺は、特定の誰かに対してあまり執着した覚えがない。中学の時も、一応、彼女と言える子は居たけど、受験で忙しくなると自然消滅してしまった。本当に誰かと深く関わることが苦手だった」
言いながら慶は俺の睫毛に掛かる髪をそっと払った。
「千冬だけなんだ。ずっと傍に居たいと思った相手は。本当に、千冬だけだ…」
「慶…」
今までのことが色々と思い出されたが、不思議と辛かったことは余り浮かんで来なかった。
俺の慶への恋は、本当は辛いことの方が多かったのかも知れない。だが、今では嬉しかったことや楽しかったことばかりが思い出された。
いつも、不自然に見えないだろうかと気を遣ってばかりいたが、今はこうして寄り添っても、それこそ肩に凭れ掛かっても、もう何も気にする必要はない。そう思うと、何時までも二人で旅を続けていたいような気がした。
だが、やがて電車は降りる駅に着き、俺たちは手を離して席を立った。



駅からはまたタクシーに乗り、慶の家へ行った。
慶が連絡しておいたのか、家には夫人とお手伝いさんの他に院長までが顔を揃えていた。
「千冬君……」
玄関でいきなり抱きしめられ、俺は一瞬息を止めた。
「本当に済まなかった。君一人に辛い思いをさせて…」
俺を離すと院長は言った。
「そんな…、止めてください。全部俺の我が儘で、俺がお願いしたことです」
「いいや…」
院長がまた口を開こうとした時、夫人がその腕を掴んだ。
「お話は入ってもらってからにしたら?…千冬さん、どうぞ」
何時もの優しい笑顔の夫人に頭を下げ、俺は慶と一緒に二人に付いてリビングへ行った。
お茶の支度がしてあり、夫人が作っておいてくれたらしい焼き菓子も運ばれて来た。
皆が席に着き、お茶が配られると、慶は院長の方に向き直った。
「親父、電話で言った通り、今日は話したいことがあって来た」
慶の言葉に、院長は頷いた。
そして、何故か慶の手が俺の背中に当てられた。
「俺は、この先、千冬と一緒に暮らすことにした。ただの同居人としてじゃない。千冬が許してくれるなら、俺は人生を共にして欲しいと思ってる」
「え…?」
耳を疑った。
余りの驚きに、俺は眼を見開いたままで首さえも動かせなかった。
一緒に住もうとは言ってくれたが、まさか、慶が自分の父親にこんな決意を話すなんて思いもしなかった。
この話をするために俺をここに連れて来たのだと知り、俺は息さえ出来ないほどの驚きに包まれていた。
ドッドッ、と急激に心音が早くなる。
混乱して、何を言えばいいのか分からなかった。
そして、息子の馬鹿げた言葉に、院長が怒り出すのではないかと思い、急に恐怖が込み上げた。
恐々と顔を見たが、院長は俺が思うような表情はしていなかった。
「な…、なに言って……」
やっと顔を動かし、俺は慶を見た。
「ば、馬鹿なこと言うな…。そんなの、許される訳ない……っ」
「嫌か?俺とじゃ…」
不安げな目をして、慶が言った。
嫌な訳がない。
だが、そんなことが現実になる筈がない。
俺が答えを迷っていると、院長が大きな溜め息をつくのが聞こえた。
ぎくりとしてそちらを見ると、院長は苦い表情で首を振った。
やはり、馬鹿々々しいことを言い出した息子に呆れているに違いない。俺は言い訳をしようと、唾を飲み込んだ。
だが、俺が話し出す前に院長が言った。
「まったく、本当に馬鹿だなおまえは。先走るにも程があるだろ。千冬君に確かめもせずに連れて来たのか?」
すると慶はばつの悪そうな顔になった。
「ごめん、千冬…。俺、なんだか焦って…」
そう言うと、慶は俺の肩を両手で掴んだ。
「なあ、駄目か?俺にはもう千冬以外考えられない。……ずっと、傍に居て欲しいし、傍に居たいんだ」
「慶……」
その真剣な目に、俺は言葉を失った。
今朝、キスされた時から、もしかしたら想いが通じ合ったのかも知れないと、ほんの少し期待していた。
だが、俺にとってそれは、まだはっきりとした現実ではなかった。
慶が現れて想いを告げられてから今まで、俺は半分夢の中にいた。
いや、ほぼ夢を見ていると思っていた。
だから、込み上げてくる思いも余りなく、緊張もせずに慶と居られたのだ。
だが、急に目が覚めた。
そして、怖くなった。
まさか慶が、俺を一生の相手として考えていてくれたなんて、そんな現実が本当にあるのだろうか。
「だ、駄目な訳ない…。で、でも…っ」
躊躇う俺に、院長が後ろから声を掛けた。
「千冬君、慶の気持ちは薄々分かっていたんだ。君が居なくなってからの慶を見ていれば想像がついていた。……慶はまだまだ半人前だし、これからも君は苦労するだろうと思う。その覚悟を強いるのは私には出来ない。……だが、慶と寄り添ってもいいという気持ちを持ってくれるなら、私は君たちが幸せになるために出来る限り協力するよ」
その言葉に俺はまた驚いてしまった。
大切な一人息子が男の俺を選んだことに、院長は反対しないどころか好意的な言葉をくれたのだ。こんな驚きがあるだろうか。
軽いパニックに陥ってしまったようで、何も言えないまま、俺はただぽろぽろと涙を零し続けた。
「頼む千冬、”うん”って言ってくれ」
その涙を俺の頬から何度も拭いながら、慶は不安げな目をして言った。
だが、とても言葉など出て来なかった。
俺は自分の頬を拭っていた慶の手を掴み、ただ頷いた。
すると、慶はやっとホッとしたような顔になり、俺の身体を抱きしめた。
何も言えなかった。
そして、幸せ過ぎて泣き止むことが出来なかった。
こんな奇跡が、自分に訪れるなんて考えたことも無かった。
もしかしたら、このまま死んでしまうのかも知れないとさえ思った。
それほどに俺は、感激に包まれていた。



泣き過ぎてぐったりとした俺をその肩に凭れさせたまま、慶はずっと肩を抱いていてくれた。
「大丈夫か?落ち着いた?」
心配そうに訊かれ、俺は頷いた。
だが、まだ少し呆然としていて、口を開くことは出来なかった。
「この後、千冬の家にも行こうと思ってたんだけど、今日は無理かな…」
「うちに…?」
やっと口を開いて俺が言うと、慶は頷いた。
「さっき、親父にも言われたんだ。ちゃんと挨拶して許しを貰わないと駄目だって。お祖母さんの家に住まわせてもらうなら尚更だって…」
院長は忙しい中、俺たちの為に帰って来てくれたらしく、少し前に、また病院へ戻った。
「千冬が大丈夫なら、母さんが車で送ってくれるって言ってるんだ」
「そんな…」
戸田家のみんなが、俺の両親にまで気を遣ってくれているのだと思うと、嬉しくてまた涙が出そうだった。
答えられずにいると、夫人が冷たいお茶を運んできた。
「喉が渇いたんじゃない?」
言いながら夫人は俺の前にお茶のグラスを置いてくれた。
「私は今日は何も用事が無いから気を遣わなくていいのよ。電車だと時間が掛かるし……。少し落ち着いたら出ましょうか?」
今日は仕事なので、正孝さんは夜にならないと帰らない。だが、慶が家に電話すると、母は待っていてくれるとのことだった。
夫人の運転で、俺と慶はベンツのリアシートに並んで座った。
泣き過ぎて眼が少し腫れていたので、車に乗る前に夫人が心配して冷やしたタオルをくれた。それを眼の上に乗せて慶の肩に凭れ掛かっていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
もしかすると、これからずっと一人で生きていくのかも知れないと思っていた。それなのに心から求めていた相手が、ずっと傍に居てくれると言ったのだ。
幸せ過ぎて、胸がいっぱいだった。
そんな俺の手を、慶はずっと握っていてくれた。
その手の確かさが、今度こそ本当に、慶に自分の想いが通じたのだと信じさせてくれた。
想いが通じ合うと言うことが、これほど幸せなことだとは思わなかった。
本当に俺は、このまま死んでしまってもいいとさえ思えたのだ。
休憩も兼ねて、途中で昼食をとることにした。
小さなレストランを見つけて入ると、俺たちは夫人と向かい合って座った。
「すみません…。こんな事になって、驚かれたでしょう?」
やっと、少しは頭が回る様になり、俺は夫人に言った。
「いいえ。主人も言ったように、私も気が付いていたのよ。多分、主人よりも早くね」
「え…?」
慶と俺が驚くと、夫人は笑みを見せた。
「こういう事って、女の方が鋭いのよ」
「そ、そうなんですか?」
「ええ…」
悪戯っぽく笑って頷いた後で、夫人は手を伸ばしてテーブルの上にあった俺の手を取った。
「千冬さんは、もしかすると、私たち夫婦や瑠衣子にも罪悪感を持っているのかも知れないけど、そんな必要はないのよ。私たちは貴方が大好きだし、慶さんが貴方を選んだのだから、二人で幸せになってくれればいいの。それが、私たちの望みよ」
優しい言葉に、俺はまた泣きそうになった。
だが、頷くと夫人の手を握り返した。
「瑠衣子もきっと喜ぶわ。千冬さんの行方が知れなくなった時、ずっと落ち込んでいたの」
そう言って夫人はくすっと笑った。
「千冬さんのことを知ってる筈だって、主人に食って掛かった時の瑠衣子を見せたかったわ。私でさえ、あんな瑠衣子を見たことなかった」
俺を心配してくれた瑠衣子ちゃんの気持ちを思い、俺は有難くてまた泣きそうだった。
今回は会えなかったが、すぐに会いに来て感謝の気持ちを伝えたいと思った。
夫人によると、暖かくなったら本格的に退院出来そうなほど良くなっているということで、約束通り、春になったら店にも来てくれるかも知れない。
その日を思い、俺は胸が熱くなった。