涙の後で
-7-
俺の決心を聞くと、母も正孝さんも反対した。
大学を辞めてどうするのかと訊かれたが、それは分かっていたことだった。
俺は自分なりに考えた計画を話すことにした。
「おじいちゃんの店を、やらせてもらおうかと思って…」
「え…?」
母は驚いて絶句したが、正孝さんは俺の顔をじっと見た後で言った。
「千冬君、それこそ、その腕で店をやるのは大変だよ。並大抵のことじゃない。それより、ちゃんと大学を卒業して、出来る仕事を探した方がいい」
冷静な正孝さんの言葉は尤もだと思った。だが、俺は首を振った。
「病院の先生は、もう少しリハビリすればある程度握力も戻るだろうって言ってくれた。今なら、おばあちゃんも元気だし、色々教えてもらって、メニューも工夫すれば、俺一人でもやれると思うんだ。勿論、苦労するのは承知だけど、俺は…この腕を抱えて一人で生きていく道として、あの店を継ぐことを選びたい…。あの店が好きだし、無くしたくないと前から思ってた。それに、何処かの会社に就職して、自分のペースで生きられなくなるのは、多分、辛いと思うから…」
すると、それまで黙って聞いていた母が、やっと口を開いた。
「後悔しないのなら、私はいいと思うわ。意に染まない仕事をするくらいなら、自分でやりたいと思うことをやった方がいい。あの店はまだ売りに出してないし、おばあちゃんも、本当は残したいと思ってるみたいだしね」
「母さん…」
反対するとばかり思っていた母が、あっさりと賛成してくれたことに驚いたが、もしかすると俺の腕が元通りにならないかも知れないと分かっていたのだろうか。そして、母もきっと俺の将来のことを考えていてくれたのかも知れない。
「おばあちゃんに連絡して、修行させてもらうように頼みなさい。決めたからには音を上げるんじゃないわよ」
「うん。ありがとう、母さん…」
俺が言うと、母は大きな溜め息をついた。
「まさか、こんなことになるなんてね…。千冬は仕方ないと思っているのかも知れないけど、私はこんな怪我をさせられたことを今でも腹立たしく思ってる。いえ、貴方の将来まで変えられてしまったことが悔しくて堪らない。……でも、千冬が前向きに考えようとしているなら、私は親として何でも協力するし、力になりたいのよ」
「ありがとう、母さん…。ほんとに、心配ばかり掛けてごめん…」
俺が頭を下げると、正孝さんが俺の肩に手を載せた。
「俺だってそうだよ。何でも相談に乗るし、必要な時は力になる。頼って欲しい…」
「うん、ありがとう、正孝さん。頼りにしてます」
俺の言葉に、正孝さんはいつもの優しい笑顔で頷いてくれた。
祖母に連絡すると、初めは驚いていたが、俺の決意を知ると店を任せると言ってくれた。
リハビリをしながら、祖母に色々と教えてもらうことになり、俺は来週から祖母の家に寝泊まりすることになった。
大学の方の手続きは正孝さんにやってもらうことにし、アパートも母と正孝さんが手配して引き払うことになった。
俺は携帯電話の番号とアドレスを変え、慶との連絡を絶つ準備をした。
幸いなことに、慶は俺の実家の場所も、実家の連絡先も知らない。もし、友達から連絡が来ても俺のことを教えないように、母と正孝さんにも頼んだ。
アドレス帳から友達関係の登録を全て消した。ただ、戸田院長の連絡先だけは消さなかった。
村内のことも、それから瑠衣子ちゃんのことも気掛かりだったからだ。だから、慶に内緒で、連絡を取れるならそうするつもりだった。
慶とは、もう二度と会えないかも知れない。
こんな決意を、今までにも何度かした。
だが、その度に辛くて、俺は胸が押し潰されそうになった。
今度も例外ではない。
そして、今度こそ本当に、もう慶との縁は完全に切れてしまうのかも知れなかった。
何度も何度も、俺を心配してメールをくれたり電話をくれたりした慶。その度に嘘をつき、もうすぐ戻れるからと答えた。
待ってくれているのは知っている。だが、もう俺は戻れないのだ。
目を瞑れば、瞼の裏に慶の顔が浮かんだ。
大好きな慶の顔。
俺は、本当に慶のことが好きで、今でも泣きたくなる程好きだった。
だから、幸せにしたい。
その為には、俺が消えるしかなかった。
正孝さんに身の回りの荷物を運んでもらい、俺は祖母の家へ引っ越した。
祖母も、叔父の家から戻ってくれて、俺が何とか独り立ち出来るまで、一緒に居てくれることになった。
リハビリは、通っていた病院から紹介状を書いてもらい、近くの病院に通えることになった。
店は開けず、祖母と一緒に無理なく出来るメニューを考えて、只管それを練習した。
掴んでいられないので、フライパンを振るようなメニューは無理だと分かったが、押さえて切ることは出来るので、ランチのメニューも何品かは出来そうだった。
コーヒーの淹れ方だけは、完璧を目指して何度も何度も練習した。以前から来てくれていた客に、祖父母がやっていた時と違うと言われたくなかったのだ。
祖母に頼んでもらって、以前も世話になっていた友人のパン屋に、またパンを届けてもらうことにした。
以前は、サンドイッチとトースト類の為に角切り食パンと山形食パンだけを仕入れていたが、スープとパンのセットも始めようということになり、丸い雑穀パンも頼むことにした。
だが、メニューの種類は余り増やさず、俺一人で無理なく出来る範囲でやることにした。
そして、祖母の協力もあって、2か月後には何とか開店出来そうな目途が立った。
6月の末に開店することにし、俺は祖母と準備を進めた。
そして俺は、躊躇っていたが戸田院長に連絡を取ることにした。
大学を辞めたことは、慶ももう知ってしまっただろうし、アパートを引き払ったことも勿論分かっているだろう。だが、それを父親に伝えたかどうかは分からない。
長い説明をしなければならないと思ったので、俺は先ず、病院の住所へ院長宛に手紙を書くことにした。
退院してからの腕の経過と今の状況、それから、大学を辞めて祖母の店を継ぐことにしたこと、慶には内緒で連絡を取り合いたいということ、それらを書いて、承知してもらえるなら携帯に連絡すると告げた。
村内がその後、どうなったのか心配だったし、それから、瑠衣子ちゃんのことも聞きたいのだと書き添え、俺は手紙を投函した。
すると、書いておいた実家の住所に返事が届いた。
週末になると、時々、俺の様子を見に来てくれる正孝さんがそれを運んでくれた。
慶から俺が大学を辞めて姿を消したことは聞いてたらしく、院長は随分心配してくれていた。
腕のことも残念がって、なんとか治せる医者がいないか探してくれると言ってくれた。
そして、自分の事を慶に知らせないで欲しいとの俺の願いに、やはり躊躇いを感じているようだった。
だが、俺のことを心配して連絡を取り合いたいと言ってくれ、取り敢えず、慶には何も言わないと約束してくれた。
なので、その夜、俺は戸田院長に電話を掛けた。
「千冬君……」
すぐに電話に出てくれた院長は俺の声を聞くと、暫くの間、絶句した。
「済みません…。ご心配をお掛けしました」
「何を言ってる。謝るのは私の方だ…っ」
辛そうな院長の声に、俺は見えないのを分かっていて首を振った。
「いえ…。戸田さんが謝ることなんて何もないです。無理なお願いばかりしてしまって、本当に済みません…」
「いや、君の腕のこともそうだが、大学を辞めさせてしまったことも、私に責任の一端はある。どう償っていいのか……、本当に申し訳ない。君のご両親に会って謝りたいんだ」
「止してください。大学を辞めたのは、このまま通っていても無駄だと思ったからです。祖父のカフェを残したい気持ちは前からあったし、料理も好きだし、丁度良かったんです」
「千冬君…」
「店を開ける用意も出来たし、無理なく一人でやれるように祖母に仕込んでもらいましたから…。それより、俺の腕の事や何処で何をしているかとか、慶には言わないと約束してください」
「だが、そうはいかないよ。慶だって随分君のことを心配して探してもいるようだ。慶にとって、君は本当に大切な友達なんだから…」
その言葉に、胸が痛んだ。だが、知られてしまったら、もっと慶を傷つけるだろう。
「慶に村内さんを憎ませたくないんです。……今は無理でも、いつか、名乗り合えたらいい。慶も寂しい思いをしたかも知れないけど、村内さんもずっと孤独を抱えて生きてきた。それなのに、やっと所在が分かった弟に会えないなんて辛いですよ」
「だが、君が慶との繋がりを切る必要はないだろう。話せば、慶だってきっと分かる筈だ」
「……ずっと会わないつもりはないです。いつか、慶も村内さんも蟠りを捨てられる日がくるでしょう。そしたら俺も、また慶に会いたい。でも、今は会わない方がいいんです」
「千冬君……」
院長は、慶には黙っていると約束してくれた。だが、定期的に必ず連絡をくれるようにと俺に約束させた。
村内はあのカフェのマスターの紹介で、建設事務所の土木作業員として就職したらしい。身体はきついが、雇い主も仲間もいい人たちだと言っていたという。
瑠衣子ちゃんは、新しい治療が功を奏したらしく、この頃は少し調子が良くなってきて、週末には家に帰れる日もあると言うことだった。
俺は、それを聞いてホッと胸を撫でおろした。
また必ず連絡すると約束し、俺は電話を切った。
慶が俺を探してくれていた。それは、本当に嬉しかった。
だが、会うことは出来ない。
院長に言ったように、いつか、本当に会える日が来るのかも知れない。
だが俺には、それは遠い未来の事に思えた。
店の準備は着々と進んで、来週には開店しようという日、俺の前に思わぬ人が現れた。
店の入り口は閉めてあったので、自宅の玄関に来たのだが、出てみると誰も居ない。おかしいと思って玄関の外に出ると、庭の真ん中に真藤先輩が立っていた。
「拓馬さん……」
名前を呼ぶと、真藤先輩は振り返った。
「まったく、おまえは…」
呆れたような口調でそう言い、先輩は俺に近づいた。
両手が俺の頬を包み、咎めるような視線が注がれた。
「俺から逃げられると思ってんのか?」
「すみま…せん……」
真藤先輩がこの場所を知っていることは気掛かりだった。いつか、来てしまうんではないかと思っていたのだ。
だが、こんなに早く来るとは思っていなかった。
心の準備も出来ぬまま、俺はまた先輩の腕に抱きしめられていた。
「なんで、こんなことする?なんで、何も言わずに居なくなるんだ?」
咎めると言うよりは悲しむ口調で先輩は言った。
「ごめんなさい……」
「……よかった…。もう会えないかと……」
先輩の腕に力が籠り、俺は息も出来ないほどだった。
それだけ、心配してくれていたのだと思うと、胸が痛かった。
「拓馬さん、入って?俺の淹れたコーヒー飲んでみて…」
そう言うと、先輩はやっと俺の身体を離した。
「……千冬がやるつもりなのか?この店を?」
驚いた表情でそう言い、先輩は俺を見下ろした。
「うん。来週開店なんです。…入って?」
先輩を母屋の方へ通すと、祖母が出て来て嬉しそうに迎えた。
母屋から店の方へ出て、カウンターの端の席に座らせていたクマを見ると、先輩は笑ってその頭をポンと叩き、その隣に座った。
俺はカウンターの中に入り、祖母の見守る中でコーヒーを淹れた。
緊張しながら、カップを先輩の前に出すと、先輩はすぐに手に取った。
目を瞑って香りを嗅ぎ、
「いただきます」
と言うと、先輩はカップに口を付けた。
心配でじっと見つめていると、先輩は眼を上げて俺を見てにっこり笑った。
「旨い…」
「ほんと?」
「ああ。お祖母ちゃんのと同じ味だ」
「……よかった」
ホッとして俺が見ると、祖母も満足そうに笑って頷いた。