リーマンの1日10題


09.鳴らない電話

出来上がった野菜スープを持って豊田が寝室へ行くと、ベッドの中の岡野はうとうとと眠っていた。
「岡野さん、スープが出来ましたよ。起きられますか…?」
無理に起こそうとするのではなく、豊田はわざと静かに話しかけた。それで岡野が起きれば、食べさせればいいと思ったのだ。
だが、岡野が起きる気配は無かった。
豊田はフッと息を吐くと、持っていたトレイをベッドのヘッドボードへ置き、傍の椅子に座った。
熱の所為もあって、岡野の額には汗が滲んでいた。
さっきの氷はもう溶けてしまって、すっかり水だけになった袋が枕の脇に置いてあった。それを手に取り、豊田は台所へ戻って氷を入れ替えた。
戻る時にタオルを1枚取ると、またベッドの脇の椅子に座り岡野の額からそっと汗を押さえてやった。
横向きになった首筋の辺りにタオルで包んだ氷の袋を置いてやると、岡野は僅かに眉を寄せた。
「…すみません…」
目が覚めたのか夢現で喋っているのか分からなかったが、岡野は目を閉じたまま、やや不明瞭にそう言った。
「いえ…。まだ熱いですね。…起きられますか?」
背中と額に手をやり、豊田が静かに訊いた。
岡野は答えず、また眠りに落ちたようだった。
「岡野さん…」
名前を呼ぶとフッと笑い、豊田は額に当てた手で愛しげに岡野の髪を撫でた。
「どうすればいいんでしょうね…?私は…、どうすれば……」


付いて来ることを恐れていた筈の尚樹が、日本での生活を棄てて会いに来てくれた。そんな彼を、追い返すようなことは出来ないと思う。
あんなにも恋しかった相手なのだ。
“もう遅い”と切り捨てることなど出来る訳が無い。
だが、こうして今、岡野が自分のベッドの中に居ることが、酷く幸せなのだ。
掴まえた訳でもないのに、自分のものになった訳でもないのに、それでも豊田はここに岡野が居てくれることが幸せだと思えたのだ。
こんな気持ちのまま尚樹を迎え入れても、毎日、会社で顔を合わせる岡野のことを心から追い出せる自信が無い。
幾ら、どうにもならない相手だと分かっていても、恋しい気持ちは変えることなど出来ないのだ。
そっと、指で岡野の髪を弄びながら、豊田は彼の寝顔を見つめた。
尚樹はホテルを見つけられただろうか。
岡野がここに居ても、本当なら彼を引き止めるべきだったのかも知れない。だが、それはどうしても豊田には出来なかったのだ。
「最低だな……、俺は…」
そう呟き、苦笑した。
すると、岡野がフッと目を開いてぼんやりとした表情で豊田を見た。
ハッとして、豊田は手を引っ込めると慌てて姿勢を戻した。
「岡野さん?気分はどうですか…?」
「はい…。ああ、済みません。眠ってましたか…」
「いや、いいんですよ。熱があると眠れますから。スープ、作ったんですけど食べられますか?」
「はい…、ありがとうございます」
そう言って、岡野はゆっくりと起き上がった。
「冷めて丁度いいかも知れません」
ヘッドボードに置いてあったトレイごと野菜スープの器とスプーンを取り、豊田はそれを起き上がった岡野の膝の上に乗せた。
「水は?喉が渇いたでしょう?汗もまた、大分掻いてるし…」
「ええ。水、貰えますか?」
「はい、今、持って来ますね。スープを飲んだら、また着替えましょう」
「済みません。何から何まで……」
律儀に頭を下げた岡野に、豊田は頷くと部屋を出た。
冷蔵庫から水を出して戻ると、岡野は野菜スープを飲んでいた。
「味、大丈夫ですか?」
「ええ、美味しいです」
「良かった…。あまり自信がないもので」
豊田が言うと、岡野は少し口元を緩めた。
「大丈夫ですよ。…でも、今は俺の舌も風邪の所為で味覚があやふやですけどね」
頷いて、豊田は水のペットボトルをトレイの上に置くと、クローゼットを開けてタオルと着替えのシャツを出した。
余程喉が乾いていたのか、岡野はペットボトルのキャップを空けると中身を殆ど飲み干してしまった。
「もっと要りますか?」
豊田が訊くと、岡野は首を振った。
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ、着替えましょう」
そう言うと、豊田は岡野を手伝って汗で湿ったシャツを脱がせた。
さっき、バスルームで見た岡野の裸がまた目の前に現れた。だが、今度は胸をときめかせることも無く、豊田は背中に回って汗を拭いてやった。
「ありがとうございます。…こんなことしてもらうのは、子供の時以来だ」
笑いながら岡野が言うのに、豊田も頷きながら笑った。
日に焼けた痕なのか、岡野の浅黒い背中には少し雀斑があった。だが、思った通り肌は滑らかで、豊田は指を這わせてみたい衝動に駆られた。
だが、それは嫌らしい意味からではなかった。
ただ、触ってみたいと思ったのだ。

触れたい人……。
そして、愛しい人だと思った。

だが、これ以上の接触は許されない。
そう思って、豊田は背中を拭き終えると、そのタオルを岡野に渡した。
「前も拭いてください。シャツはここに置きますので」
「はい…」
「明日は会社に行けないですよね。熱が下がっても、1日位は休んだ方がいい」
「いや…。熱が下がったら行きますよ」
その答えに、豊田は何も言わなかった。
それ以上は岡野の意思だ。自分が口を出すべきではないと思った。


夜中にも何度か様子を見て、氷を取り替えたりしたが、岡野の熱は少し下がったようだった。
翌朝にはほぼ平熱になったのか、岡野は平気な顔で起きてきた。
そして、ソファで寝ていた豊田を起こすと、世話になった礼を言って、豊田が止めるのも聞かずに出て行ってしまった。
「早く逃げたかったのかな…?」
そう呟いて、豊田はフッと笑った。
病気とは言え、ゲイの自分にベタベタ触られて、身の危険を感じたのかも知れないと思った。
それとも、邪な自分の想いに気付かれてしまったのかも知れない。
どちらにしても、もう以前のように付き合ってはくれないだろう。
そう思うと、豊田は酷く寂しかった。
支度をして簡単な朝食を作って食べると、豊田も会社へ行く為に家を出た。
どうしたろうかと心配していたが、始業時間前に岡野はちゃんと会社へ現れた。
1度帰って着替えたのか身なりも整えられて、昨夜、熱を出していたようには見えなかった。
部屋に入って豊田を見つけると、岡野はすぐに傍に来て改めて昨夜の礼を言った。
「調子、どうですか?無理したんじゃないです?」
豊田が訊くと、岡野は首を振った。
「いえ、お陰さまでもう熱も下がりましたし大丈夫です。本当に助かりました。後でちゃんとお礼しますよ。体調が戻ったら呑みにでも行きましょう。奢りますから」
「いや、そんなに気にすること無いですよ。大した看病もした訳じゃないし、気にしないで下さい」
豊田が答えると、岡野は少し口篭った後で言った。
「あの…、大丈夫でしたか?彼は…?」
尚樹のことを気にしてくれていたらしく、岡野は言った。
「ああ…。大丈夫でしょう。今朝は会えなかったので分かりませんが、今夜来る筈ですから」
「そうですか…」
「昨夜のことは岡野さんが責任を感じる必要はないです。本当に、気にしないで下さい」
豊田がもう1度言うと、岡野はやっと頷いた。


その日はもう、それ以上岡野と話すことも無く、豊田は仕事を終えて帰途に着いた。
尚樹の宿泊先を知らなかったので、此方から会いに行く訳にはいかない。真っ直ぐ家に帰り、尚樹が来るのを待つしかなかった。
本当は、まだ岡野の身体が心配だったが、これ以上のお節介は嫌われるに違いないと思った。
尚樹が来たら一緒に食事に出ようと思って、豊田は簡単にシャワーを浴びると着替えて彼を待った。
だが、6時を大分回っても尚樹は現れなかった。
それから30分ほど待っても、一向に来る気配が無い。
さすがに心配になって、豊田は近くのホテルの電話番号を調べた。
電話して3軒目に、やっと尚樹の宿泊が確認出来たが部屋には居ないらしいと言う。仕方なくフロントに自分の電話番号を伝えて電話をくれるように伝言した。
一体、尚樹は何処へ行ってしまったのだろうか。こんな異国で行く当てだってないだろう。
それとも、1人で食事をしに出たのだろうか。
それならいいが、何かトラブルにでも巻きもまれたのだとしたら大変だ。
だが、連絡の取りようが無いので、豊田はここから動けない。探しに行く訳にもいかないだろう。
立ち上がって、イライラと部屋中を歩き回ったが、幾ら待っても尚樹からの電話は無かった。
思いついて携帯電話を出すと、豊田は岡野に電話した。
「どうかしましたか?」
岡野はすぐに電話に出て、そう訊いてきた。
「実は……」
豊田が事情を話すと、最後まで黙って聞いていた岡野が言った。
「すぐに行きます」
「すみません…。探しに行きたくても連絡が来るかも知れないので出られなくて…。良ければ留守番しててもらえたら助かるんですが」
「分かりました。10分ぐらいで行けますから」
岡野の返事を聞いて、豊田は幾らかホッとした。
岡野の存在が心強く感じる。
椅子に腰を下ろし、豊田は両手で強く顔を擦った。 一体、尚樹は何処へ行ってしまったのだろうか……。