リーマンの1日10題


10.夜中に響くインターフォン

驚くほど早く、岡野が来てくれた。
少々息を弾ませているところを見ると、病み上がりなのにも拘らず走って来てくれたらしい。豊田は申し訳ない気持ちで彼を迎えた。
「すみません。まだ、本調子じゃないのに…」
「いや…。俺は大丈夫ですから、すぐに探しに行って下さい。慣れない土地ですし、何かトラブルにでも巻き込まれていたら大変だ」
「はい。ありがとうございます。じゃあ、もし尚樹から電話が来たら、ここで待つように言って下さい」
「分かりました。電話でも直接でも、彼が来たら、すぐに携帯に知らせます」
「はい。それじゃ、宜しくお願いします」
頭を下げると、豊田は家を出た。
先ずは尚樹が宿泊しているホテルの周辺から探そうと、そちらに足を向けた。
街中にあるホテルだったから、周辺には飲食店が沢山あった。当てが無いので、仕方なく、豊田はそれらを一軒ずつ覗いてみることにした。
だが、尚樹の姿を見つけることは出来なかった。
豊田が諦めかけ、10何件目かの、少し細い道を入ったところにあるバーのドアを開けた時、カウンターの奥に見慣れた背中があった。
尚樹は1人だった。
1人で、まるで自棄酒を呑むようにグラスを上げていた。
だが、見つけたことにホッとして豊田は店の奥へ入って行った。取り敢えず、尚樹が無事ならそれでいいと思ったのだ。
「尚樹…」
声を掛けると尚樹はギクリとして振り返った。
そして、その表情には一瞬にして後悔の念が浮かんだ。
「た…、雄大…。ご、ごめんっ、もうそんな時間だった?」
キョロキョロと周りを見て時計を探すと、やっと今の時間を知ったらしく尚樹は青くなった。
「ごめんッ…。ごめんなさい…、お、俺…、ちょっとだけ呑むつもりで…」
ハーッと息を吐き、豊田は尚樹の隣に腰を下ろした。
「心配したよ。…まあ、無事なら良かったけど」
「ごめん…。ほんとに、ごめん」
「もういいよ」
そう言うと、豊田は尚樹の肩を掴んで軽く揺すった。
「兎に角、家に行こう。食事は?まだだったら、何か買って帰るよ」
「ううん、いい…。食欲無いし……」
尚樹の答えを聞いて、豊田は眉を顰めた。
「でも、何も食べてないんだろ?なら、パンでも買って帰ろうか。サンドイッチぐらいなら出来るから」
「雄大が作るの…?」
思いがけない事を言われて、尚樹は驚いたようだった。
「ああ。私も少しは料理するようになったんだよ。前は、いつも尚樹に面倒掛けてたけどね」
「へえ…。変わったんだね、雄大」
「どうかな?…さあ、行こう」
笑いながらそう言うと、豊田は尚樹を促して席を立った。
「同僚に留守番を頼んで来たんだ。入れ違いに、尚樹から連絡があったら困ると思ったから…」
「それ、昨日家に来た人…?」
「ああ、そうだよ。日本人のスタッフは少ないけど、彼には色々と助けてもらってる」
「そうなんだ…」
酔っているらしく、尚樹の歩は幾らか怪しかった。
それを支えて、店の料金を払ってやると豊田は尚樹と一緒に店を出た。
「ごめん…。ホントに俺、ちょっとだけ呑むつもりだったんだ。ホテルのバーは高そうだし、すぐ近くだからいいと思って…。ひとりで部屋に居ると、なんかもう、どうしようもなくむしゃくしゃしてさ…」
「尚樹…、もしかして日本で何かあったんじゃないのか?」
どうも、尚樹の様子は普通じゃないと豊田は思っていた。
約束しているのに、それを忘れて呑んでいたのも、食事なら兎も角、それほど強くも無い酒を呑む為に1人で見知らぬ町に出ていたのも尚樹らしくなかった。
若くても、尚樹は生活はきちんとしている方だったし、人との約束を反故にするような人間でもない。こんな荒れた様子を見るのは、豊田には初めてだったのだ。
豊田の言葉に尚樹は最初、何も答えなかった。
だが、突然立ち止まると、感極まったように泣き出した。
「な、尚樹…?」
驚いて豊田が肩を掴むと、尚樹は項垂れたまま片手で涙を拭った。
「…母さんが倒れたんだ。先月…」
「え…?」
驚いて豊田は思わず尚樹の肩を掴んでいた手に力を込めた。
「倒れたって、大丈夫なのか?」
訊くと、尚樹は首を振った。
「…癌で随分悪いらしくて、手術しても完治するかどうか分からないって…」
「そうか…」
尚樹は家族と絶縁状態だったから、もしかすると母親に会わせてもらえなかったのかも知れない。それが辛くて、自棄になっていたのだろうかと、豊田は思った。
だが、尚樹の話にはまだ続きがあった。
「去年、親父が倒れて、母さんはずっと1人で介護してた。脳梗塞で麻痺が残って、1人じゃ生活出来ないらしい…」
その話を豊田は初めて聞いた。
驚いたが、尚樹の話が続いていたので口は挟まなかった。
「母さんが入院したら、他の誰かが親父を見なくちゃならない。兄貴の嫁さんたちは、どっちも嫌がってるらしくて…。そしたら、長男が俺に連絡してきて、今まで家族に恥を掻かせたんだから、おまえが親父の世話をしろって…。親孝行するなら今しかないぞって…」
「なんだって…?でも、お父さんに勘当されたんだって言ってただろ?」
豊田が訊くと、尚樹はサッと顔を上げた。
涙で濡れた顔を悔しげに歪めると、尚樹は豊田のシャツを掴んで言った。
「そうだよッ…。親父は2度とウチの敷居は跨ぐなって、おまえみたいな恥ずかしい人間は息子だとは思わないって言ったんだ。兄貴たちだって、2人とも味方してくれなかった。電話したって、俺からだと分かると電話口に出てもくれなかった。それなのに、こんな時ばっかり連絡してきて、俺を追い出した親父の面倒を見ろって言うんだッ。そんなの…、そんなの酷いだろ?酷いよ……ッ」
「尚樹…」
腕を伸ばすと、豊田は尚樹を胸に抱いた。
震える身体からは、怒りだけではない、悔しさと、そして寂しさが伝わってくるようだった。
「可哀想に…。そんなことがあったのか…」
「勝手過ぎるよ…。兄貴たちは勝手過ぎる…」
「そうだな…」
髪を撫でてやると、尚樹はやっと泣き止んだ。
「俺、居てもいいだろ?雄大とこっちで一緒に住みたいんだ。いいだろ?追い返したりしないよね?」
「勿論だよ…」
だが、答えながら豊田は戸惑っていた。
逃げ出したくなった尚樹の気持ちは分かる。そして、自分を頼ってくれたことも嬉しい。
だが、このまま逃げていたら、尚樹はいつかきっと後悔するような気がした。
「兎に角、戻ろう。話はそれからゆっくりしよう」
そう言って、豊田は尚樹を促して歩き出した。
途中、岡野に電話して事情を話すと、荷物を取りに行ってチェックアウトすると言う尚樹を一旦ホテルへ送り、豊田は家に帰った。
ドアが開いた気配に気付いたのか、岡野が玄関に現れた。
「済みませんでした、岡野さん。まだ具合が良くないのに」
「いや、俺は大丈夫ですよ。見つかって良かったですね」
「ええ…」
頷きながら豊田が屈託を見せると、岡野は僅かに眉を寄せた。
「どうかしましたか?」
訊かれて、豊田は笑みを見せると首を振った。
「いや…。何でもありません。本当にありがとうございました。後でちゃんとお礼しますから」
豊田が言うと、今度は岡野が首を振った。
「とんでもない。お礼なんて、いいですよ。俺の方こそ看病してもらったお礼をしなくちゃなりません」
岡野の言葉に、豊田は苦笑した。
「じゃあ、これでお互いに無しっこにしましょうか。…お茶でもって言いたいんですが、私はまた尚樹の泊まっているホテルに迎えに戻るので…」
済まなそうに豊田が言うと、岡野はすぐに頷いた。
「いや、いいですよ。早く、行ってあげてください。俺はこのまま帰りますから」
そう言った岡野と一緒に外へ出ると、豊田はドアに鍵を掛けた。途中まで岡野と一緒に行き、別れる所で立ち止まると豊田は言った。
「本当にありがとうございました。じゃあ、明日、会社で…」
「おやすみなさい」
そう言って去って行く岡野の背中を、豊田は暫くの間見送った。
少しずつ小さくなっていく背中が、名残惜しくて堪らなかった。
昨日、自分のベッドに寝ていた彼は随分近くにいる気がしたのに、あの背中は何故あんなにも遠いのだろうか。
「おやすみなさい…。また、明日……」
小さくそっと呟いて、豊田はフッと寂しい笑みを浮かべた。



豊田がホテルに迎えに行くと、尚樹はもうチェックアウトを済ませてロビーで待っていた。
少しは酔いも冷めたようで、さっきよりは顔つきもしっきりしていた。だが、まだ歩くと少し怪しかったので、豊田は彼のトランクを引いて行ってやることにした。
途中、まだ開いていた店でパンやハムなどを買い、家に戻ると、豊田は約束していた通りにサンドイッチを作ってやった。
コーヒーを淹れ2人でテーブルに着くと、尚樹は嬉しそうに豊田の作ったサンドイッチを頬張った。
「美味しいよ。凄いね、雄大」
「ただ、野菜とハムを挟んだだけだよ」
笑いながらそう言った豊田に、尚樹は首を振った。
「ううん、凄いよ。前はカップ麺にお湯入れるくらいしか出来なかったじゃないか」
「ああ、そうだったね…。1人暮らしして、正解だったかな」
「明日は俺がちゃんと作るからね?何が食べたい?」
訊かれて、豊田は首を振った。
「いいよ。来たばかりで疲れてるだろ?明日は外食しよう」
豊田の言葉に、尚樹は肩を竦めながら頷いた。
さっきは食欲が無いと言っていたが、やはり腹が減っていたのだろう。尚樹は黙々とサンドイッチを食べた。
豊田は尚樹が食べ終わるのを待って、話を始めた。
「尚樹…、お兄さんたちの仕打ちに腹が立つのも、悔しい気持ちがするのも分かるけど、でも、このままでいいのか?お父さんのことは兎も角、本当はお母さんには会いに行きたいんじゃないのか?」
豊田が訊くと、尚樹は暫く迷っていたがコーヒーを一口飲んで口を開いた。
「そりゃ…、母さんには会いたいよ。でも、俺が行ったって、きっと喜んでなんかくれないと思うし…」
泣きそうな顔でそう言った尚樹の手を、豊田はそっと包んだ。
「そんなことないよ。お母さんだって、ずっと尚樹のことを心配してただろうし、顔を見せたらきっと喜ぶと思う。前にも、お父さんに内緒で手紙をくれたことがあったじゃないか」
「…うん。でも、病院に行って兄貴たちと顔を合わせるのは嫌だ。またあんなこと言われたら、俺、きっと我慢出来ないし、母さんの前で喧嘩したくない…」
尚樹の気持ちは分かる、と豊田は思った。
母親にだけは心配を掛けたくないのだろう。だが、このまま逃げていても問題の解決にはならない。
病気の親を見捨てたという良心の呵責が、いつまでも尚樹に付き纏い苦しめ続けるだろう。
だが、今の尚樹に1人で日本へ帰れというのは余りにも酷だ。豊田は何時しか尚樹の手を両手で握っていた。
「一緒に帰ろう、尚樹……」
「え……?」
驚きに、尚樹の目が見開かれた。
その目に笑い掛けながら、豊田は頷いた。
「会社を辞めるよ。最初からそうすれば良かったんだ。そしたら、尚樹を苦しめることもなかったんだよ。一緒に、日本へ帰ろう。そして、私も一緒に考えるよ、どうすれば1番いいのか…」
「た、雄大…ッ」
尚樹のもうひとつの手が豊田の手に添えられ、そしてぎゅっと握られた。
「そ、そんなッ。俺の為に会社を辞めるなんて、そんなこと簡単に言わないでよ…ッ」
そう言った尚樹の手をポンポンと優しく叩き、豊田は言った。
「いいんだよ。どうせ、養う家族が居る訳じゃない。仕事なんかなんだっていいんだ。…ああ、でも、この年じゃ再就職は難しいかな」
苦笑した豊田を見つめていた尚樹の目に、じんわりと涙が滲んだ。
「雄大…、ありがとう。ありがとう…、ごめんね?」
尚樹に頷いて見せながら、豊田は思っていた。
(これでいいんだ…。尚樹を突き放すことなんか出来ない。それに…)
会社を辞めて日本へ帰れば、もう岡野との接点も無くなる。
その方が、彼の為にも、そして自分の為にもいいのだと豊田は思った。
これ以上好きになったら、きっと彼に嫌な思いをさせるだろう。断ち切れる内に、断ち切るべきなのだ。
安心したような尚樹の表情を見ながら、もう1度、“これでいいのだ”と豊田は思った。



疲れていたのと安心した所為もあるだろうか、翌朝、尚樹は豊田が起きても目を覚まさなかった。
尚樹の分も朝食を作って食べると、豊田は“会社に行く”というメモをテーブルに残して家を出た。
会社に着くと、もう岡野は来ていた。
傍に行って挨拶をすると、豊田は昨夜の礼を言った。
「いえ、本当に気にしないで下さい。俺は何もしていませんから」
「でも助かりましたよ。ありがとう」
もう1度頭を下げると、岡野は頷いた。
そして、家を出る時から言おうと決めていたことを、豊田は岡野に言った。
「岡野さん、私、会社を辞めます」
「……え?」
さすがの岡野も驚いた表情を見せた。
まさか、昨日の今日で、豊田がこんな決心をしていたなんて思いもしなかったのだろう。
「会社を…?じゃあ、彼と日本へ帰るんですか?」
察し良く、岡野は訊いた。それに頷いて、豊田は言った。
「ええ…。日本へ帰らなかったら尚樹は後からきっと後悔するでしょう。でも、彼1人で帰れとは言えません。心細くて、こんなに遠くに居る私を頼って来てくれたんです。出来るだけ、力になってやりたい。だから、一緒に帰ります」
決意した表情で豊田が言うと、暫く黙って見つめていた岡野がゆっくりと頷いた。
「そうですか……。豊田さんがそう決めたなら、俺は何も…。ただ…」
一旦言葉を切って、岡野は少し躊躇っているようだった。
だが、穏やかに笑みを浮かべると口を開いた。
「寂しくなります。…寂しいです」
コクッと豊田は喉を鳴らした。
その意味を、深く考えてはいけないと思いながら。
「…ありがとう」
何とか自分も笑みを浮かべ、豊田はそう言った。



その日の内に本社へ電話を掛けると、豊田は辞職することを告げた。
急に辞めると言われても会社側は納得してくれなかった。一旦帰国し、もう1度話をすることになった。
尚樹は一旦ひとりで日本へ帰り、豊田が帰国するのを待つことにした。
その前に、豊田は休みの日に、少しはこの国を案内してやることにした。
とは言っても、自分も殆ど観光などしたことが無かったし、何処へ連れて行くかはガイドブックが頼りだった。
会社の帰りに本屋へ寄り、ガイドブックを買って帰ると、尚樹は夕食を作ってくれていた。
キッチンへ立つ尚樹を見るのは久し振りだった。近付いて“ただいま”を言うと、キスしようとした尚樹を豊田は思わず避けてしまった。
「雄大…?」
戸惑って見つめる尚樹に、豊田は取り繕うように笑って見せた。
「ごめん…。こういうのは久し振りで…。まだ、当たり前に思えないんだ」
豊田の言葉に、尚樹は頷いた。
「ああ…、うん。そうだよね。俺は以前と同じようなつもりだったから…。でも、雄大は俺と別れたつもりでいたんだから、そう思えても仕方ないよ」
寂しそうにそう言われ、豊田は胸が痛んだ。
今は、自分が尚樹と当たり前にキスする関係だとは思えなかった。だが、きっとすぐにそうなれるだろう。
そうなれなければ、尚樹を傷つけてしまうのだと思った。
もう1度笑みを見せると、豊田は尚樹の眉毛と唇にキスをした。
「シャワー浴びてくるよ」
「うん。すぐに出来るから早くね」
そう言った尚樹に頷き、豊田はバスルームへ向かった。
シャワーの下へ立つと、不意に岡野のことを思い出した。
あの時の濡れた身体が目の前に蘇る。
勿論、最初から何も期待はしていなかったが、あの肌に触れる機会はもう2度と無いのだと思った。
(未練がましいな……)
そう思って、豊田はシャワーの飛沫の下で苦笑した。
居間に戻ると、テーブルの上には尚樹の手料理が並んでいた。
酒と一緒に久し振りにそれらを味わい、豊田は尚樹の話を聞きながら岡野のことを忘れる努力を始めていた。
尚樹と一緒に日本へ戻ると決めたのだ。
もう、岡野のことを考えるのは止めなければならない。
だが、最後に彼が言った“寂しい”という言葉が、何度も耳に蘇った。


2人で食べ終わった皿を洗って片付けると、テレビを見ながらまた少し呑み、その内にベッドへ入った。
だが、セミダブルとは言っても、大の男2人では狭過ぎた。
疲れているのだろう。尚樹はやがて眠ってしまったが、豊田は今夜も寝付けなかった。
ベッドの狭さもあったが、どんなに努力しても、やはり岡野のことが頭から離れなかったのだ。
起き上がって、隣に眠る尚樹を見る。
以前はあれほど、ベッドのこの場所に尚樹が居ないことを寂しく思っていた。寝る筈の無い彼の為に、その場所を空けていたものだった。そして、1人で寝るベッドの広さに侘しさを感じたものだった。
だが、こうして尚樹が眠るのを見ると、このベッドがこんなにも小さかったのだと初めて気付いた。
そして、岡野がここに眠っていた時のことを豊田はまざまざと思い出していた。
隣に眠ることは無かったが、岡野がここに居るだけで酷く幸せだった。
そして、あの時の気持ちを、豊田は思い出すまいとしていた。
溜め息をつき、豊田はそっとベッドを抜け出した。
水でも飲もうとキッチンへ行き、結局冷蔵庫から出したのはビールだった。
栓を開け、一口口に含もうと持ち上げた時、静かな部屋の中に玄関のチャイムが鳴り響いた。
ドキッとして、豊田はビールを流しの脇に置くと、急いで玄関へ向かった。
「はい、どなた?」
ドアに向かって言うと、すぐに外から返事が聞こえた。
「済みません、こんな時間に…」
岡野の声だった。
その声を聞いた途端、豊田は急に心臓が跳ね上がるような感覚を覚えた。
「ま、待って…。今、開けますッ」
慌ててそう言うと、豊田は逸る気持ちを抑えながらドアの鍵を開けた。
「済みません…」
ドアの向こうに現れた岡野は、強張った面持ちで頭を下げた。
「い、いえ…。どうかしましたか?何かトラブルでも?」
岡野が現れた理由が分からず、豊田はそう訊いた。
ただ、自分に会いに来てくれたのだと考えるほど無邪気ではなかったのだ。
「あの…」
言い辛そうに口篭った岡野に、豊田は妙に気持ちが高揚するのを覚えた。
「入りませんか?どうぞ…」
促したが、岡野は首を振った。多分、寝室に居る尚樹に遠慮したのだろう。
そんな岡野を気遣い、豊田は自分が表へ出た。寝巻き姿だったが、どうせこんな遅い時間に外を通る人間も無いだろうと思った。
豊田が外に出ると岡野は決意したように顔を上げた。
「あの…、来るべきじゃなかったと分かってるんです。自分でも何でこんなことをしているのか分からない。…でも、言わずにはいられなくて…」
「…何を…?」
ドキドキしながら豊田が訊くと、岡野はまた口を開いた。
「お願いです。俺が、ここから帰ったら忘れて下さい。忘れると約束して下さい…」
躊躇いながら豊田が頷くと、岡野の両手が彼の肩を掴んだ。
「豊田さん…、無理を承知で言います。…行かないで下さい。帰らないで下さい。…ここに、……ここに居て下さいッ」
「お、岡野さん……」
驚いて豊田が名前を呼ぶと、岡野はその手を離して一歩下がった。
そして、深々と頭を下げた。
「済みません…。帰ります。…夜分に、申し訳ありませんでした」
それだけを言うと、岡野は背中を向けて足早に立ち去った。
残された豊田は、呆然と彼の後姿を見送った。
一体、あれはどういう意味だったのだろうか。
“忘れてくれ”と言われても、忘れられる訳が無かった。
暫くして、溜め息をひとつつくと豊田は部屋に戻った。
尚樹が起きてきた様子は無かったが、豊田は気になって寝室のドアを開けると中の様子を見た。
尚樹は良く眠っているようだった。
豊田はキッチンへ行ってさっきのビールを手に取ると、それに口をつけた。
「俺だって、傍に居たいですよ……」
ぽつりとそう呟き、豊田はまたビールを呑んだ。



岡野のあの言葉を、自分はどう取るべきなのだろうか。
本当は都合よく受け取ってしまいたかった。そして、このまま岡野の傍に居たかった。
だが、その選択を豊田はどうしても出来なかったのだ。
翌朝、豊田が起きると隣に尚樹は居なかった。
ハッとして起き上がり寝室を出ると、キッチンから音がしていた。
「おはよう。お米があったからご飯炊いたよ。味噌汁も、すぐに出来るから」
「ああ、ありがとう。いい匂いだな…」
着替えて、顔を洗って戻ると朝食の用意がすっかり出来ていた。
豊田が座ると、尚樹は自分もその前に座った。
「あのさ、雄大…、考えたんだけど、俺、やっぱりひとりで何とかするよ」
「え…?」
味噌汁に口をつけようとして、豊田は驚くと手を止めて尚樹を見た。
「なんとかって?」
聞き返した豊田に笑って見せると、尚樹は何でもないことのように自然に食事を続けながら言った。
「うん…。やっぱりさ、雄大に仕事を辞めさせるなんて出来ないよ。俺がしっかりすれば済む事なんだし、それに…」
もう一度唇の両端を持ち上げると、尚樹は続けた。
「逃げてても、結局は何も解決しない。…お袋に心配掛けた分、今度はしっかりしないとな…。どうしていいか分からなくて雄大に頼っちゃったけ ど、良く考えてみたら、やっぱりそれじゃ駄目だって思った。…兄貴たちとちゃんと話し合ってみようと思う。何だかんだ言っても、血の繋がった兄弟 なんだし、ちゃんと話し合えば解決出来ると思うんだ」
「尚樹…」
「ごめんね?余計な心配掛けて、会社まで辞めるなんて言わせて…。俺は勝手なことを言って出て行ったのに、こんなに優しくしてくれるなんて思わなかった。…正直言って、ちょっと怖くなっちゃったんだよ……」
「え?」
尚樹の言葉に豊田は眉を寄せた。
「俺が雄大に、そこまで背負わせていいのかなって…。俺は雄大の何一つ背負えなかったのに…」
尚樹の言葉を聞いて、豊田は手を伸ばすと彼の手を掴んだ。
「尚樹……。そんなことはいいんだよ。言ったように、私が今の仕事に固執する理由なんかない。仕事なんて何だっていいんだ。それよりも、私が傍にいることで少しでも尚樹が心強く思ってくれるなら、そうしたいんだ」
豊田がそう言うと、尚樹はもう一方の手を豊田の手に載せた。
「ありがとう、雄大…。でも、ここに来て雄大の顔見たら、俺、なんだか凄く気持ちが落ち着いたんだ。雄大が一緒に帰ってくれるって言ってくれたこ と、凄く嬉しかった。…でも俺、1人で頑張ってみるよ。それで、どうしても駄目だったら、電話する。…いいだろ?その時は、慰めてよ」
尚樹の目は揺ぎ無かった。
それを確認して、豊田はとうとう頷いた。
「分かった…。いつでも電話してくれ。俺に出来ることなら、なんでもするから」
「うん…、ありがとう。雄大がいてくれるって思うだけで、俺、凄く心強いよ。ほんとに、ありがとう…」
もう1度頷き、豊田は尚樹の手を強く握った。
会社には、辞める理由が無くなったことをもう1度話さなければならないとも思ったが、このまま辞めてしまってもいいような気にもなっていた。
昨夜の岡野の言葉をどういう風に取ったらいいのか、豊田はまだ迷っていた。
あの言葉が自分の希望通りのものだったら、ここに残ってもいい。だが、もし思い違いに過ぎないのだったら、このまま彼の傍にいるよりも日本へ帰った方がいいのだと思った。



会社に着いてみると、岡野はまだ来ていなかった。
話をしたいと思ったが、結局、終業までその機会は無く、避けられているのか、豊田が仕事を片付けた時には、もう岡野の姿は無かった。
無人の机を見て、フッと息を吐き、僅かに首を振りながら豊田は立ち上がった。
やはり、昨夜の言葉に期待を持ってはいけないのかも知れない。
そう思いながら、豊田は帰途に着いた。
このまま部屋に帰らず、岡野の家を訪ねてみたい気持ちもあったが、待っている尚樹のことを思うと、それも出来なかった。
尚樹がこの国に居るのも、もう少しの間だ。
それまでの間は、せめて楽しい思いをさせてやりたかった。
だが、部屋に戻ると尚樹の姿は無かった。
あの、大きなスーツケースも消えていて、テーブルの上には豊田に宛てた手紙があった。


雄大へ

また、雄大が居ない間に居なくなるのだけは止めようと思ってたんだけど、航空会社に問い合わせたら、今日の便にキャンセルが出たと言うので乗ることにしました。
正直に言えば、雄大の顔を見たら決心が鈍りそうだって理由もあったしね。
でも今度は、逃げるんじゃないから許してよね?
ひとつだけ、どうしても伝えたいことがあります。
俺がここへ来たのは、家族の厄介ごとから逃げたかったからだって思われても仕方ないけど、でも、俺が雄大に付いて行かなかったことを後悔してたのも、それから、ずっと会いたくて仕方なかったことも嘘じゃないんだ。
それだけは、信じて欲しい。
でも、俺が自分のことばかり考えて、今の雄大のことをちゃんと考えてなかったのは確かなんだよね。
雄大にはもう、新しい生活があるんだってこと、俺は思いもしなかった。
そして、その新しい生活には、俺の入る場所が無いってことも。
いや、それでも雄大は俺の場所を作ろうとしてくれたんだよね?
本当に、本当に嬉しかった。
雄大の優しさを、俺は今になって噛み締めてます。
そして、本当に後悔してる。
付いて来れなかったこと…、俺に勇気が無かったことを。
だから、今度こそ俺も勇気を出すよ。
逃げずに家族とちゃんと向き合って、自分の居場所を見つけようと思う。
雄大が俺の為に、全部を棄ててくれようとしたことは忘れません。
そのことを考えただけで、俺はとても強い気持ちになれる。雄大が何時も、後ろに居てくれるみたいに思える。
だから、頑張れると思う。
ありがとう、雄大。
そして、幸せになってください。

尚樹


尚樹の手紙を読み終えた時、豊田に喪失感は無かった。
だが、その代わりに、酷い孤独を感じていた。
それは、日本で尚樹が居なくなった時のものとは少し違っていたのだ。
あの時は、尚樹の居ない空間が寂しくて、どんな場所にも彼の姿を探そうとしていた。孤独を齎していたのは、そこに居ない尚樹の存在だった。
だが今は、結局自分は独りぼっちなのだと強く感じていた。
どんな場所に居ても、どんな場面でも、独りぼっちなのだと思えたのだ。

世界の中でただ独り。

そんな感覚を豊田は味わっていた。
読み終えた手紙を再びテーブルの上に置き、豊田は目を閉じた。
尚樹は知っていたのかも知れない。自分の心が、今、誰に向いているのかを。
そう思うと、豊田は切なかった。
尚樹を傷つけたのではないかと思う。それなのに、彼は自分に感謝の言葉をくれた。そして、黙って去って行ったのだ。
フッと目を開けて、豊田は立ち上がった。
“幸せになって欲しい”と言ってくれた、尚樹の言葉を無駄にしない為に、自分はただ後悔だけはするまいと思った。



部屋を出て、豊田は岡野の家へ向かった。
まだ、賑々しい夜の街に居ても、独りぼっちのあの感覚は続いている。
ここに居る誰一人、自分と関わりのある人間は居ない。そして、関わりたい人間も居なかった。
この孤独感は、誰にも癒せないように思える。
ただ、唯一の人を除いて。


岡野の家の窓に灯りが見えると、その暖かさに思わずホッとする。そして、豊田は躊躇わずに玄関の前に立った。
チャイムを鳴らして暫く待つと、妙に高潮してそして強張った表情の岡野が現れた。
「豊田さん……」
「済みません、急に…。でも、どうしても話したくて…」
豊田が言うと、岡野は躊躇ったが、身体を除けて中へ入るように促した。
「どうぞ……」
「ありがとう」
礼を言って、豊田は家に入った。
「いいんですか?彼を独りにして……」
訊いてきた岡野に、豊田は笑みを見せて頷いた。
「尚樹は、私が居ない間に日本へ帰りました」
「え…?」
驚いて目を見張った岡野に、豊田は話を続けた。
「独りで頑張ってみるそうです。家族の問題だから、逃げずにもう1度家族で話し合ってみるって…」
「そうですか……」
頷いた岡野の表情は複雑だった。
「でも…、それでいいんですか?彼の為に、会社も辞めて付いて行こうと決めたんでしょう?やっと会えたのに、離れてもいいんですか?」
その言葉に、豊田は頷いた。
「尚樹の決めたことですから、私には何も言えません。それに…、多分、ほんの少し、心細かっただけなんですよ。私が必要だった訳じゃない」
「そんなことないですよ。こんなに遠い所まで、貴方に会いに来たんじゃないですか。それに、豊田さんだって、あんなに会いたがってたじゃないですか」
岡野の言葉に、豊田はまた笑みを浮かべた。
「尚樹は…、多分、気付いていたんだと思います」
「何を……?」
訊いた後で、サッと岡野の顔色が変わった。
「まさか…、昨夜の俺の話を聞いてしまったんですか?」
「いや…」
否定しようとした豊田を遮って岡野は言葉を続けた。
「だったら、俺の所為ですね?彼を誤解させた…。俺が馬鹿なことをしたばっかりに…。済みません、本当に……」
項垂れた岡野の腕を、豊田は躊躇いがちに掴んだ。
「誤解……、ですか?やっぱり…?」
「え…?」
顔を上げた岡野に、豊田は寂しげに微笑んだ。
「そうか……。私は、貴方の言葉を自分の都合よく受け取ることにした。だから、こうして来たんです。でも…、そうですか。やっぱり、私の勘違いなんですね」
「豊田さん…?」
僅かに戸惑いを表した岡野の表情を見て、豊田は落胆を隠せなかった。
「帰るなと言ってくれたのは、友人が去って行く寂しさからだったんですね?…期待しては駄目だと分かっていても、私は思いたかった…。貴方の気持ちを、都合よく受け取りたかった…。馬鹿ですね」
苦笑しながらそう言い、豊田は背を向けようとした。
だが、そんな豊田の肩を岡野の手が掴んだ。
「待ってください…ッ」
豊田が振り向くと、余り表情の現れない豊田の顔が激しく歪んでいた。
「だって、貴方は今でも彼を…。だから、一緒に帰国しようとしたんでしょう?」
その言葉に、豊田はフッと笑った。
「岡野さんのことは最初から諦めてましたから。手が届くなんて思ってもいなかった。だから、穏やかな関係を続けられればそれで良かったんです。…失うのは怖過ぎて……。本心を、決して気付かれたくなかったんです」
「豊田さ……」
豊田の目をじっと見つめていた岡野が、やがて目を閉じると、躊躇いがちに彼の身体を抱き寄せた。
「俺は…、どうしていいのか分からないんです。だから、昨夜もあんな馬鹿なことを言いに行った。…そして、言ってしまった後も、どうしていいか分からない。…ただ、失いたくないんです。俺も…、貴方を失うのが怖くて堪らないんです」
岡野の背に、豊田の手が回された。
そして、ゆっくりと愛しげに撫でて行った。
もしかすると、岡野も自分の孤独を持て余していたのかも知れないと豊田は思った。
寂しいから、自分を求めるのかも知れない。
だが、それでもいいと豊田は思っていた。
求められるのなら、どんな形でもいい。岡野の傍に、ずっと居たいと思った。
「いいんですか?本当に彼の所へ行かなくていいんですか?後悔しないんですか?」
搾り出すように岡野が言い、豊田は頷いた。
「ええ…。いいんです」
豊田が答えると、岡野の腕に力が篭った。
まるで、離すまいとするように力強く抱擁され、豊田は目を閉じた。
ふと、さっきまでのあの孤独感は一体何処へ行ったのだろうかと思った。
岡野の体温を感じている今、寂しいという思いは豊田の中の何処にも無かった。
岡野の肩の上に篭る自分の息の熱さを感じ、豊田はそっと唇の端を持ち上げた。
息と同じように、自分の心の中には岡野への熱い思いがある。だが、それを表に出そうとは思わなかった。
そんなことをして、岡野が混乱するくらいなら、今のままの穏やかな関係でも良かったのだ。
肉体の関係を求めた為に岡野を失うくらいなら、何も無くても傍に居られればいい。一緒に酒を呑んで、笑って彼を見つめていられるのなら、今の豊田には他に何も要らないと思えたのだ。
顔を上げた岡野が暫く躊躇った後で、そっと唇を寄せてきた。
だから豊田は、彼のそんな行為に驚いてしまった。
気付いた時にはキスは終わっていて、高潮した岡野の恥ずかしげな顔がそこにはあった。
「済みません…。知ってるでしょうが、俺は不器用で…。キスも…上手くありません」
恥ずかしそうな岡野の言葉に、豊田は急いで首を振った。
「そ、そんなこと…、ありません」
言った後でカーッと頬が熱くなるのを感じ、豊田は目を泳がせた。
まるで、少年のように自分が恥らっているのだと思うと、落ち着かなくてどうしていいのか分からなかった。
「わ、私こそ済みません。こんなオヤジのくせに図々しく…」
言い掛けた豊田の頬が、岡野の両手に包まれた。
途端に、心臓が跳ね上がり、豊田は年甲斐も無く自分が逆上せ上がるのを感じた。

取り澄まして、求めていない振りをするのは止めよう。
大人ぶって、平気な振りをするのは止めよう。
こんなにも、こんなにも、自分はこの男が欲しいのだから。

サッと両手を上げると、豊田は岡野の首に腕を回した。
キスを求めて唇を寄せると、今度は岡野も躊躇いを棄てるのが分かった。
唇を重ね、忽ち深まるキスに2人とも熱くなった。
バスルームで見た、岡野の魅力的な筋肉に豊田は遠慮なく手を這わせ、その感触に胸を震わせた。
脱がせたくて気が逸る。
だが、さすがにボタンに手を掛けるまでには至らなかった。
唇を離した岡野が、豊田の肩を撫でながら言った。
「ベッドに誘ったら、軽蔑しますか…?」
その言葉に首を振り、豊田は岡野の手を掴んだ。
「寝室は…?」
豊田が指差すと、岡野が珍しくプッと吹き出した。
豊田の余りに早い反応に、可笑しくなったのだろう。
その目を見て、豊田も笑う。
そして、繋いだ手を強く握り合うと、2人は寝室へ向かって歩き始めた。
まるで、熱いその息を合わせるように、見つめ合ったままで。